第26話 顕現と業縁①
───森の中は、まだ静けさを保っていた。
抉れた大地も、倒れ伏した木々も、そのまま残されている。
これは戦いが終わった後の静寂ではない。
何かが“始まる前”の、呼吸を潜めた空気だった。
突如として現れた男───。
コーネリアスは、ただ立っていた。
構えも、威嚇も、逃げる素振りも、近づく気配すらない。
まるで、ここが戦場だったことすら、最初から想定に入っていないかのようだった。
正面に立つコマは、微動だにせず睨み据えている。
アンジュは、無意識にその影へと身を寄せていた。
視線は離せない。だが正面から見続けることができない。
その男の外見は、ひどく整っていた。
黒髪を後ろへ撫でつけたオールバック。
年齢は読み取れない。若くも見え、老いても見える。
身体の線に無駄はなく、纏っているのは高級そうな赤いスーツ。
戦場には不釣り合いなほど、汚れ一つない。
首元には、マフィアじみたマフラー。
それは暖を取るための装飾ではなく、口元を隠すために巻かれていた。
───笑っているのか。
───無表情なのか。
その判断すら、許されない。
沈黙を破ったのは、コーネリアスの方だった。
「そこの女、アナテマ・タリズマの核をもっているな?」
「───ッ!?な………なんでそれを?」
「よせ」
アンジュの声が、反射的に零れる。
コマが、アンジュの前に手を出し、言葉を遮った。
庇うというより、止める動きだった。
「…………いつから居やがった?」
コマの声音は、露骨な警戒を帯びている。
獲物を前にしたそれではない。
理解できない存在を前にした、剥き出しの緊張だった。
「最初からな」
あまりにも素っ気ない回答だった。
そこには含みも何もない。ただ事実を告げただけの口調。
「今日は《《どっち》》だ?」
「《《どちらでもない》》」
返す刀で、コーネリアスが答える。
間髪入れない否定。だが、安堵は生まれない。
「お前ら次第だ───」
その一言で、コマは理解した。
これは交渉ではない。
選択肢が与えられているように見せかけた、通告だ。
───会話は、すでに成立していなかった。
コマは一瞬だけ、背後を振り返る。
そこには状況を飲み込めないまま、視線を彷徨わせているアンジュの姿があった。
判断は、刹那だった。
「───おい!」
コマはアンジュの名を呼ぶ代わりに、声だけを投げる。
「走れ!」
「───えっ?」
唐突すぎる指示に、アンジュの思考が一拍遅れる。
「俺が時間を稼ぐ」
「じ、時間を稼ぐって………」
その言葉で、ようやくアンジュは我に帰る。
目の前に立つ存在は、話し合いの相手ではない。
逃げるべき“対象”ですらない。
遭遇してしまった“何か”だ。
「………で、でもアニキは?」
「今はそういう次元じゃねぇんだ!いいから走れ!!」
腹の底から叩きつけられた怒声。
普段は抑えられているコマの声量が、明確な焦りを帯びていた。
その異変に、アンジュの身体がびくりと震える。
「でも………そんなこと、できないよ!」
自身がこの場に留まるべきではないことも、目の前の存在が異常であることも。
理屈では理解できたが───。
アンジュにはコマを置いて逃げる選択をするには、情に厚すぎた。
「だって、どう考えても只事じゃないじゃないか!」
それは長所であり、同時に致命的な弱点だった。
コマは、それを一瞬で理解した。
煽る様にコーネリアスが一歩前に出る。
枯葉を踏む音は、驚くほど軽かった。
その音にコマの舌打ちが、焦燥を伴って零れる。
「大将たちも気づいてるはずだ、早く合流しろ!!」
───説得では間に合わない。コマは言葉を、無理やり組み替える。
「加勢が必要だ!それができるのはお前しかいねぇ!」
───感情ではなく、役割を突きつけるための言葉を束ねて。
「わ、わかった」
迷いは残っている。
それでも彼女は、来た道へと身体を向けかけ、すぐに足を止め、振り返った。
「アニキ………大丈夫だよね?」
それは確認というより、祈りに近い。
そんな彼女の想いにコマは───。
「余計なお世話だ」
素っ気なく、突き放すような返答をした。
だが、それはコマなりの挨拶だった。
そう理解した瞬間、アンジュの迷いは切り捨てられた。
彼女は振り返らず、来た道を全力で引き返していく。
その背中を、コマは一瞬だけ見送り―――。
そして、再び正面を向いた。
アンジュの気配が、完全に遠ざかる。
足音も、息遣いも、森のざわめきに溶けて消えた。
コマは気配でそれを確認してから、静かに構え直す。今度は庇うものも、退かせるものもない。
「相変わらず嘘をつく時だけは饒舌だな………」
正面には、コーネリアスが相変わらず退屈そうに頭を掻きながら、よそ見をしていた。明確な挑発の態度に、コマは深く息を吸い、コーネリアスを睨む。
「ここは取らせねぇぞ………」
「まるで自分たちの所有物のように言いやがる」
コーネリアスの声音には、嘲りすら含まれていない。
ただ事実を並べているだけだった。
「俺らが奪うと決めたら、それは確定事項なんだよ」
コマは答えずに、ゆっくりと眼帯へ手を伸ばした。
「ほおおおお~?」
コーネリアスは、高揚と嘲笑を交えた声を漏らす。
「一晩で、そう何度も変身できたか?」
コーネリアスの煽り、それは想定の内と言わんばかりに、コマは構えを解かなかった。
「………聞くが」
コマは、眼帯に指を添えたまま、問いを投げる。
「先日のスカイ・ファーム崩落未遂───狙ったのは………テメェらの“王”か?」
その瞬間、コーネリアスの片眉が、わずかに跳ねた。
確信を込めた問い。
だが返ってきたのは───。
「さぁな」
再び興味なさげに答えたコーネリアス。
その一言が、コマの奥底の琴線に触れた。
「………そうかよ!」
言葉の勢いのまま、眼帯が外される。
月光が、彼の右目へと集束していく。
コーネリアスは動かない。
付き合ってやると言わんばかりに、ただ待つ。
───次の瞬間。
再びコマの身体が、激しく軋みながら、巨大な狼男へと変貌した。
アボレセント・カルマルとの戦いとは比べものにならない。
殺気と闘志が、実体を持ったかのように噴き上がる。
常人なら、立っているだけで命を落とす圧力。
だが―――。
コーネリアスは、しれっとしていた。
その態度にコマは猛り、目は血走り、遠吠えが夜を引き裂く。
次の瞬間、コマの姿が音速を超えて消える。
武器、爪、牙。
すべてが、一直線にコーネリアスへと殺到する。
『―――届ク!!!』
コマがそう錯覚した、その瞬間。
「………哀れだな」
コーネリアスが、静かに呟やき。
マフラーの奥の口元が───歪んで覗いた。
* * *
───その頃。
森を抜けた先、山の頂上では、サカキとフライヤが並んで腰を下ろし、軽食をつまんでいた。
緊張感はない。
つい先ほどまで、二人はコマの変身と戦いぶりを視ていた
だが、コマがアボレセント・カルマルを制した時点で、二人はそれ以上を追うのをやめていた。
サカキは仰向けに寝そべり、腕を頭の後ろに組んでいる。
フライヤはタバコを吹かしながら、杖の表面を丁寧に拭いていた。
すると───。
フライヤの耳が、ぴくりと動いた。
音でも風でもない。
それでも、確かに“何か”を捉えた反応だった。
次の瞬間───。
彼女の表情から、血の気が引いていく。
「…………サカキ」
「どうした?」
寝転んだまま、サカキは声だけで返す。
「コマ君の………気配が消えたわ」
その一言で、
サカキの目が、ゆっくりと開いた。
「なに?」
サカキは身体を起こし、フライヤを見る。
彼女の顔色は、冗談や誤認で済ませられるものではなかった。
「アンジュは?」
即座に出た問い。
だが、フライヤは答えなかった。
答えられなかった。
沈黙が、山頂の空気を、異様な重さで満たしていく。
* * *
「ハァッ…!ハァッ…!ハァッ…!ハァッ…!」
アンジュは森の中を、ただひたすらに駆けていた。
息は荒く、肺が焼けるように痛む。それでも脚を止めない。
これまでにも、モンスター・パニック・サービスを狙う輩はいた。
生物、組織、ならず者───理由も規模も様々だった。
だが、あの時のコマの緊張は、どれとも違った。
比較することすら許されない、異質なもの。
“時間を稼ぐ”という言葉。
“今はそういう次元じゃない”という叫び。
あれは、勝算を計算した声音ではない。
確実に何かを察知した者の、切迫した判断だった。
(フライヤさん………オヤジ……!)
アンジュは来た道を戻りながら、必死に二人の気配を探す。
───その瞬間だった。
「無駄だ」
背後から、声が落ちてくる。
「───っ、え?」
アンジュは思わず足を止める。
「なんで……?」
振り向いた先に立っていたのは、
先ほどまで、確かに“別の場所にいた”はずの男。
「………アニキは?アニキはどうしたんだよ!?」
「さぁ………どうだろうな?」
コーネリアスは、まるで他人事のように肩をすくめる。
「あまり、記憶に残っていない」
その一言で、アンジュの全身に鳥肌が立った。
寒気が、背骨を這い上がる。
「嘘だ!アニキがやられる筈なんてない!」
反射的に叫ぶアンジュに、コーネリアスは小さく鼻を鳴らす。
「ずいぶんと分かりやすく敬服しているじゃねぇか、羨ましいもんだ」
感心したような言葉。
だが、その視線はアンジュを見ていない。
興味がない。
評価する価値すら、感じていない。
「さっさと渡すもん渡せばすぐに引き上げる」
「こ、これを使ってどうするんだよ?」
「魔法相殺兵器の量産だ」
その言葉に、アンジュの顔色が変わる。
「いい金になる。お前らンとこの《《絶滅種》》もそうそう手が出せなくなるだろうよ」
“絶滅種”───かつてカジノで、フライヤに向けて投げつけられた言葉だ。
その言葉が表す意味が、差別なのか卑下なのかアンジュにはわからなかった。
だが、その発言をしてきた手下たちと同じコーネリアスの態度が、じわじわとアンジュの感情を逆撫でする。
「フライヤさんを……そんな言い方しないでよ!」
「…………そういや」
コーネリアスは、思い出したように言葉を継ぐ。
「あのカジノを潰したのは、お前らだったな」
その一言で、アンジュの脳裏に、フライヤの言葉が蘇った。
「まさか……お前が、ダムセクトなの?」
問いかけた瞬間───。
コーネリアスの視線が、初めてアンジュを捉える。
それまで、風景の一部のように流していた視線。
虫でも見るような、無関心なそれが──今は違う。
「軽はずみに言ってくれるな」
低く、鋭い声音。
その睨みには、はっきりとした“殺意”が宿っていた。
空気が、凍りつく。
アンジュの喉が、きゅっと鳴る。
「ご、ごめんなさい」
反射的に出た言葉だった。
謝罪というより、衝突を避けるための本能的な反応。
「素直じゃねぇか、ならさっさとその核をよこせ」
「い、いやだ」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「聞き間違えか?」
コーネリアスは、さらに一歩踏み込む。
伸ばされた手が、拒否という選択肢そのものを潰しにくる。
「もう一度言う、よこせ」
アンジュは、視線を逸らさなかった。
心臓が早鐘を打ち、指先がわずかに震える。
(きっとコレを渡しても………)
──今の自分に、できることは何か。
(みんな許してくれる)
頭の中で、都合のいい未来が浮かぶ。
サカキも、フライヤも、そしてコマも。
きっとアンジュのことは、咎めない。
咎められないと、どこかで確信していた。
(みんなのことだ、奪われてもスグに奪い返しにいくよね?)
アンジュは、ゆっくりと顔を上げる。
そして──コーネリアスを見つめて、笑った。
「やなこった!!」
「………いい返事だ」
それは称賛か。
それとも──狩りの合図か。
コーネリアスの口元が、わずかに歪む。
* * *
「コマ!?」
森を抜けた瞬間、サカキとフライヤの視界に飛び込んできたのは、
地面に崩れ落ちた人狼の姿だった。
否──もはや、それは“倒れている”という表現では足りない。
コマの身体は、八つ裂きにされ、無理やり繋ぎ止められているかのようだった。
「しっかりしろ!一体何があった!?」
サカキは我を忘れ、駆け寄るとその巨体を抱き起こす。
だが次の瞬間、その動きを鋭く制したのはフライヤだった。
「落ち着きなさい!先ずは回復が先よ!」
叱責というより、命令だった。
「大丈夫治せるわ」
フライヤは即座に杖を構え、治癒魔法を流し込む。
「………むしろ、ギリギリ治せるコンマ一ミリまで傷つけられてる」
フライヤのその声には、震えはない。
だが、冷静さの奥で、明確な異常を感じ取っていた。
回復魔法が触れた箇所から、少しずつ肉が繋がっていく。
致命傷ばかりを避け、しかし確実に戦闘不能へと追い込む傷の付き方。
「私を、ここに残させるつもりね」
―――狡猾。
計算し尽くされた悪意。
フライヤには、それ以外の言葉が見つからない。
「アンジュちゃんが………」
その名が出た瞬間、サカキの表情が強張る。
(この傷の付き方…それに…)
回復が進むにつれ、コマの呼吸が乱れ始める。
――――刹那。
「───ッッッッ!!」
カッと目が見開かれた。
『ガッハァア!』
それは蘇生ではない。
無理やり、意識を引きずり戻した咆哮だった。
咳き込みながら、血走った眼で空を睨む。
『アノ野郎!許ゼネェ!』
コマの激情が、理性を押し流している。
『舐メヤガッデ…ブッ殺ジデヤル!』
「喋ってはダメ!喉をやられているのよ!」
フライヤが慌てて制止する。
その様子を見つめながら、サカキの表情は、激しく歪んでいった。
「コマ………アンジュは───」
―――ガシッ!!
視界の端で、巨大な腕が伸びる。
コマの手が、サカキの腕を強く掴んでいた。
そして。
血と怒りを滲ませたその眼で、サカキを睨みつける。
『大将!《《ヤツ》》ダ!!』
その一言で、すべてを察したかのように。
フライヤとシズミの表情が、同時に凍りついた。
『急ゲ!アイヅガ危ナイ!』
「アンジュちゃん…」
フライヤの声が、わずかに震える。
『アノ糞…野郎ニ………俺ノ…血ヲマーキングジダ………』
視線が揺れ、コマの指の力が少しずつ弱まっていく。
『《《血》》ナラ……大将ノ鼻デ……モ追エル……ハズダ…』
そこまで言い切った瞬間。
コマの身体が、わずかに傾いだ。
疲弊は、すでに限界に近い。
「───フライヤ」
その声に応えるように―――。
いや、応えるまでもなく。
サカキは、静かに立ち上がっていた。
「コマを頼む」
短い言葉、命令でも、懇願でもない。
フライヤとコマは、その背中を見上げる。
次の瞬間には―――。
サカキは、すでに二人の視界から、消えていた。
* * *
枝を払い、地を蹴り、森を一直線に突き抜ける。
視界の端で木々が流れ、風が唸る。
獣道でも、道なき道でも構わない。
必要なのは方向だけ。
コマの血。
それを辿る嗅覚が、確信を持って進路を示している。
踏み込みは速く、呼吸は一定。
怒りも焦りも、すべて脚力へと変換し、サカキは貫く様に森を駆け抜けた。
───そして。
森を抜けた、その先で。
「───ッ!?」
サカキの足が、止まる。
否、止められた。
そこには、なぎ倒された木々。
抉られ、裂かれた大地。
だが、それらすべてが霞むほど―――。
地面一帯には、夥しい量の血痕が飛び散っていた。
飛沫。
引きずられた跡。
叩きつけられ、散らされた痕。
それはまるで、蹂躙の跡地。
その中心で、砕けた岩の上に、ひとりの男が腰を下ろし、
悠々自適と言わんばかりに、一服していた。
「貴様………」
「よう」
「コーネリアス」
「遅かったじゃねぇか…」
凶悪な笑み。
それは、獲物が“逃げなかった”ことを喜ぶ表情だった。
「アンジュ!?」
コーネリアスの言葉を無視し、
サカキは、血痕の先へと視線を走らせる。
腕。
脚。
ばら撒かれた、アンジュの身体の破片。
だが。
やはりそれらは、死んではいなかった。
グジュル……グジュル……。
不快な音を立てながら、
肉片が、ゆっくりと再生を始めている。
血に染まった指には、
指輪が血に染まりながらも輝いていた。
「貴様!何をした!?」
腹の底から絞り出すような怒声。
それに対し、コーネリアスは肩をすくめる。
「随分と採算性の良い“家畜”を飼ってるじゃねぇかサカキ?」
「何だと!?」
怒気を孕んだ声が、抑えきれずに弾ける。
だが、コーネリアスの視線は、すでにアンジュに向いていない。
「不死身の生物なんざ初めて見たぜ…」
ただの感想。
「さっさと渡すものを渡しゃあ…害は加えなかった…」
ただの観察結果。
「だがこのガキは無謀にもこの俺に歯向かってきてな」
───ガン。
周囲に鈍い音が響き、アンジュの腕が、石ころのように蹴り飛ばされる。
「やめろ!!」
サカキの叫びに、
コーネリアスは一瞬だけ、視線を向けた。
「別に強引に奪ってやっても良かったんだが…」
その目元が、ゆっくりと歪む。
「何度殺っても死なネェということがわかったもんで…」
そう言って、コーネリアスはマフラーに手をかけた。
布が外される。
ニチャア、と、湿った音を立てて、口が開かれる。
「貴様…まさか」
「満たされるまで喰い続けたまでだ…」
現れたのは、人の口ではなかった。
節の重なった、虫の様な顎。
彼の喉元が、異様に膨らむ。
次の瞬間───ズルリ、と。
何かが、嚥下する様に口の奥から押し出される。
転がり落ちたそれは―――。
アンジュの、生首だった。
目は半開き。
意識はない。
精気は完全に抜け落ち、
唇の端から、かすかに涎が垂れている。
頬を伝うのは、乾ききらない、最後の涙。
血の気は失われ、肌は青紫色に変色している。
それとは対照的に、眼球だけが―――。
異様なほど赤く、充血していた。
「────ッ!?」
サカキの喉が、言葉にならない音を漏らす。
だが、目の前の光景から視線は逸らせなかった。
コーネリアスは、相変わらずそこに立っている。
血と肉の惨状の中で、まるで何事もなかったかのように。
「ちょうど腹も減ってた事だしな…」
次の瞬間。
彼は、まるで不要物を吐き捨てるように───。
アンジュの生首を、口から吐き出した。
それは地面に落ち、ボトリと鈍い音を立て、
ボールのように弾みながら、転がる。
髪が泥に広がり、半開きの口から、微かに息が漏れる。
これでもまだ、生きている。
だが―――。
“人として扱われた痕跡”は、どこにもなかった。
コーネリアスは腹を撫で、飄々とあくびを一つ噛み殺す。
「………なぁサカキ」
コーネリアスは、わざとらしくアンジュの首に視線を落とす。
「こいつくれよ?」
その声音に、熱はない。
怒りも、欲情もない。
「こいつがいれば一生食い扶持に困らねえ…」
再びコーネリアスの口元が不気味に歪む。
クックック、と喉を鳴らしながら、
コーネリアスは再び葉巻に火を点ける。
「どうせ死なねぇんだ………俺らの『国』でたっぷり可愛がってやるぜ?」
紫煙の向こうから、コーネリアスは、サカキを見る。
明らかな挑発。
明らかな宣告。
「……………」
サカキは、何も言わなかった。
一歩、また一歩。
敵の存在を、完全に視界から切り離した歩き方だった。
瓦礫と血痕を踏みしめながら、
静かにアンジュへ歩み寄る。
「!?」
血に濡れながらも、
なお強く握りしめられているもの。
アナテマ・タリズマの核。
どれだけ引き裂かれ───。
どれだけ喰われ───。
意識を失っても───。
彼女は、それを離さなかった。
その光景にサカキの記憶が、蘇る。
かつて、二人で依頼をこなした日。
アンジュが笑いながら言った言葉。
“私があの時より、もっと酷い目にあったら───”
まっすぐにこちらを見て、何の疑いもなく。
“助けてね!”
屈託のない笑顔。
あの時、サカキは誓ったつもりでいた。
だが―――抜けていた。
実に鬼の一族らしい“腑抜け”具合である。
「アンジュ…すまない」
サカキは、片手でアンジュを抱え、
ゆっくりと立ち上がる。
そして―――。
バキイイイイイイイイイ!!!
渾身の一撃が───。
何の予兆もなく、コーネリアスへ叩き込まれる。
だが、コーネリアスは、ポケットに手を突っ込んだまま。
その一撃を―――。
足一本で、受け止めていた。
バキバキバキバキバキィッ!!
激しい音と共に地面が軋み、衝撃波が、周囲の木々や大地を跳ね上げる。
それでも、コーネリアスの表情は、崩れない。
「……やっと、来たか」
寧ろ楽しげに、そう呟いた。
「貴様とは長い付き合いになる…」
サカキは、ゆっくりと語り出す。
―――アンジュは、すでに地面へと横たえられている。
「幾度となく煮湯を飲まされる思いをさせられてきたが…」
言葉と同時に、その全身から、蒸気のような殺意が立ち昇る。
「今回ばかりは………」
サカキが顔を上げる。
「最早腹に据えかねる!」
真っ赤に染まった眼。
理性よりも先に、怒りが立っていた。
「………フフ」
かつてないほどの怒りを見せるサカキと、
それを心底愉しむかのように笑うコーネリアス。
次の瞬間───。
両者は、一斉に踏み込んだ。
ぶつかり合う、“世界最強の二体”。
激突の衝撃が、周囲の景色を歪ませる。
「────なぁサカキ?」
ギリギリと、力が拮抗する中。
その最中で、コーネリアスが、笑いながら、語りかけた。
「終わったら一杯やろうぜ?」
「………断る」
傍では───。
血に濡れたアンジュの指先で───。
“呼び出しの光”が、脈打つように点滅していた。




