第25話 不死身の少女と月光の独眼②
《アボレセント・カルマル》
【陸生軟体種】烏賊型
体長:五メートル/全長:五十メートル
生息地:特定生息地無し
制御難度:不可
召喚獣適性:不可
◆世界各国の密林地帯を中心に確認されている、陸生に適応した巨大烏賊型軟体生物。数百本に及ぶ腕はそれぞれが独立した反射神経を持ち、地表・地中を問わず周囲の動植物を絡め取る。
◆全身は周囲の景色・地質・植生に完全同調する高度な擬態能力を備えており、その巨体にも関わらず、目視での存在に気づくことは極めて困難である。
◆性質は本来、極端に凶暴というわけではない。普段は地中深くに身を沈め、長期間の休眠状態に入っている。振動・騒音・魔力の急激な変動などを感知すると覚醒するが、一度目覚めた個体を人為的に制御する手段は確認されていない。
◆覚醒時には強い空腹反応を示し、条件反射的に周囲の生命体へ腕を伸ばすため、結果として甚大な被害を生む。
◆捕食対象に明確な選別はなく、生物・植物・魔力反応を持つ存在すべてが餌と見なされる。
* * *
静まり返った空気の中───。
コマはアボレセント・カルマルの前に立ち塞がっていた。
アンジュはその背後で、武器を構えることもできず、頼りない姿勢のまま立ち尽くしている。
その場に流れる緊張から逃げるように、数匹の小動物が恐る恐る地面を横切った。
次の瞬間だった。
唐突に、その一匹が宙へと引き上げられる。
見えない何かに絡め取られたかのように、必死にもがき、大きく暴れ――。
ブツリ───と、肉が千切れる音と共に、空中で姿が掻き消えた。
その直後、大地が、わずかに脈打つ。
樹木の影。
苔むした地面。
土と葉と根が混じる景色の中で、“それ”の色がゆっくりと変化していった。
緑から茶へ。
茶から黄へ。
周囲の景色に溶け込むように、境界が曖昧になっていく。
意識して目を凝らしていなければ………いや、意識していてもなお、そこに「存在している」と断定できない。
まるで、森そのものが呼吸しているかのようだった。
アンジュは、ぞわりと背筋を震わせる。
次の瞬間―――。
アンジュの足元の感覚が、唐突に失われた。
「わああああ!?」
彼女の視界は反転し、身体が宙に浮かび、何かに絡め取られて引き上げられていく。
数百本に及ぶ腕の一本。
アボレセント・カルマルの“足”が、アンジュを捕らえていた。
反射的に、アンジュの上空に影が走る。
閃光と共に、重なり合う金属音。
コマの双剣が、絡みついた足を切り裂いた。
断たれた感触とともに、アンジュの身体が解放される。
アンジュは重力に引き戻され、尻もちする。
「あ、ありがとう」
「……………」
そう言ったアンジュに、コマからの返事はなかった。
それは、いつもの気取った無視とは違っていた。
彼は完全にアボレセント・カルマルへと意識を向けている。
───次の瞬間。
コマの姿が、アンジュの視界から消える。
目で追えないほどの速度でコマは双剣を振るった。
生々しい音とともに、アボレセント・カルマルの足が次々と切断され、地面に落ちていく。
鈍い音と共にぬめった断面が露わになり、
ボトリ、ボトリと肉片が積み重なっていく。
「わ、ワタシも───!」
アンジュは歯を食いしばり、護身用のナイフを握った。
「やああああ!」
全力で踏み込み、足の一本へ突き立てる。
だが、非力な彼女の刃は、ほとんど手応えを残さなかった。
アボレセント・カルマルは、まるで虫を払うかのように、巨大な足をしならせてアンジュを弾き飛ばす。
「イギャッ!!」
身体が宙を舞い、木の幹へと叩きつけられる。
肺から空気が押し出され、悲鳴が漏れた。
痛みに視界が滲む。
その間にも、アボレセント・カルマルの腕が迫っていた。
「…………あえ?」
迫り来る足の束にアンジュの思考が止まる。
「───チィ」
舌打ちがアンジュの耳に痛いほど響く。
気づけば、コマから振り抜かれた刃が、迫る足を切り落とす。
「あ、あの………ええと!」
言葉が、喉につかえる。
よく見ればコマは明確に、アンジュを背に庇う位置に立っていた。
“足を引っ張っている”
コマの姿ではっきりと、その自覚が胸を締めつける。
アンジュは、それ以上何も言えなかった。
コマは追撃に戻り、無駄のない動きで、距離を詰め、切り刻む。
アンジュは、その背中を見つめることしかできなかった。
拳を握り、歯痒さと、悔しさが。
どうしようもない隔たりが、胸の奥で渦を巻いていた。
その後―――。
戦況は、もはや戦いと呼べるものではなかった。
アボレセント・カルマルは、数百本の腕をうねらせ、森を覆い尽くそうとしていたが、そのすべてが、コマの双剣の軌道に触れた瞬間、切り裂かれていく。
回避でも、防御でもない。
ただ淡々と、まるで解体作業のように。
サカキ、フライヤ、コマの三人がかりで相手をするはずだった対象。
だが今、その想定は完全に崩れていた。
呼吸一つ乱さず、汗一つ浮かべず。
コマは、仕事に区切りをつけるかのように、その場に立ち尽くした。
そして、チラリと―――。
背後にいるアンジュへ視線を向ける。
アンジュは、虚ろな目で地面を見つめていた。
拳を握ったまま、顔を上げることすらできずに。
その様子に、コマは小さく舌を鳴らし、頭をワシャワシャと掻いた。
「コイツ自体はそれ程強くない………だが」
その言葉と同時に。
地面に散乱していた、切り落とされたはずの数百本の腕が、蠢いた。
ヌメる音と共に、アボレセント・カルマルの肉から増殖する不快な音程が、空気にまとわりつく。
断面が盛り上がり、形を取り戻し。
次々と新たな“足”が再生していく。
アンジュは、思わず息を呑んだ。
「コイツには再生を司る器官がある」
再生は止まらない。
腕は、元の数に戻るどころか、森を覆うほどに広がっていく。
「そいつを潰さない限り、無限に再生する」
「…………ワタシみたい」
反射的に、アンジュの口から言葉が零れた。
それを聞いたコマの表情が、微かな嫌悪を帯びながら歪む。
「そうやって無限に再生し、周囲の生き物を襲いながら大陸から大陸へと移動する」
言葉を重ねる間にも、アボレセント・カルマルの全身は、完全に再生を終えていた。
「これ程までに成長した個体は存在するだけで、その土地の生態系が壊れちまう」
彼のその声音は、淡々としていた。
アンジュの脳裏に、先ほどのコマの言葉が“殺しに大義名分”があるという発言がふと蘇る。
「…………どうやって倒すの?」
彼女の問いかけは、かすかに震えていた。
「再生が追い付かねぇ程のダメージを与える」
「それって………」
「跡形もなくチリにする」
「そんなことが───」
「骨が折れるから、全員でやるんだよ」
「それを一人で!?」
アンジュの呼びかけに、コマは一応の返答は返していた。
だがその声は、ほとんど意識の外で発せられているようだった。
うねり回る巨大な影の向こうで、双剣が再び低く構えられる。
刃先は一切の迷いなく、再生を終えたアボレセント・カルマルへと向けられていた。
「コマさん!ワタシはいいから気にせず戦って!」
アンジュは声を張り上げた。
周囲の森はすでに壊滅的だった。
これ以上、被害を考慮して戦える状況ではない。
そのことを、彼女自身も理解してしまっていた。
「ワタシは大丈夫!なんてったって───」
「黙れ」
アンジュが呼びかけるよりも早く、短く、鋭く。
切り落とすような声が返ってきた。
「大将も姐さんも、なによりお前が《《慣れすぎ》》だ」
「───え?」
アンジュが真意を求めるが、コマはそれ以上、
何も語らなかった。
ただ一歩前へ出て、明確にアンジュを背に庇う位置取りで、戦闘を再開する。
刃が走り、腕が落ち。
再生し、また切り裂かれる。
時間だけが、淡々と積み重なっていった。
「無限に切り刻めるのも快感だが、キリがねぇな」
“生態系を滅ぼしかねない程の脅威”を前にしているとは思えないほど、平然とコマは飽きたように呟いた。
「頃合いだな」
ふいに、彼は空を仰ぐ。
木々の隙間から覗く巨大な満月が───。
戦場を白く照らしていた。
「大将も姐さんも来ないってことは………」
低く、確認するように言葉を落とす。
「《《許可》》と捕える」
コマは、ゆっくりと眼帯に手をかけ、外した。
そして一度、目を閉じる。
夜空を仰ぎ、満月の位置を、正確に捉えたまま。
やがて、右目が静かに開かれる。
眼帯の下から現れたのは───。
白銀に輝く眼球だった。
宝石のような硬質な光沢。
月光を正面から受け止め、反射し、鋭く煌めく。
(綺麗………)
アンジュは、思わず息を止め、その輝きに見惚れた。
だが、それも束の間だった。
「ぬっ───ぐ………っ!!」
コマが、喉の奥から押し殺したような声を漏らす。
仰いでいた上半身が、さらに大きくのけ反った。
バキィ、メキ、ボキ、メキャア───。
耳障りな音が連続して響く。
骨格が砕け、再構築される。
破壊と再生が同時に進行する、常軌を逸した肉体変化。
アンジュは一瞬、それを《《呻き声》》だと思った。
だがそれは《《唸り声》》だった。
反り返った身体が、強引に内側へと折り畳まれていく。
背中が不自然に隆起し、筋肉が盛り上がり、肉体そのものが肥大化していく。
鋭すぎるほど鋭かった瞳は血走り、
苛烈な意思を宿していた口元は、牙を覗かせる。
全身を覆うように、黒々とした毛が一気に生え広がった。
整えられていた爪は、見る見るうちに伸び、凶器と呼ぶべき形状へと変わる。
耳は伸び、尖り、フライヤのそれとも違う、明確な“獣”の輪郭を帯びていく。
その体躯は、なおも膨張を続け、
その体躯はやがてサカキにも届くほどの大きさにまで達した。
「───お、狼男?」
思わず零れたアンジュの声は、震えていた。
その姿は、巨大な狼だった。
低い唸り声を響かせながら、
コマは大きく天を仰ぎ、“遠吠え”を放つ。
すると空気が震え、圧倒的な音量と迫力が、
覇気のように周囲へ叩きつけられる。
木々が激しく靡き、地面が微かに揺れ、
アンジュは必死に踏ん張り、その場に耐えた。
遠吠えが止み。
巨大な狼となった―――コマが、
ギロリと、アボレセント・カルマルを睨み据え、低く重く、呟いた。
『Do I feel lucky?Well do ya punk?』
* * *
その遠吠えは、樹海を越え、空を裂いて届いていた。
獣の咆哮でありながら、そこに含まれるのは、明確な“合図”だった。
「───始まったか」
遠吠えを聞きつけたサカキが、森を見つめながら呟く。
「そうみたいね」
フライヤはタバコを吸いながら肩をすくめ、すでに状況を把握しているようだった。
「コマ君大丈夫かしら?《《ああ》》なったら止まらないわよ?」
半分は冗談めかした声音。
だが、残り半分は本気の心配だった。
「心配いらん」
「アンタのその根拠のない断言、ホントしんどいわ」
サカキは、視線を樹海の奥へ向けたまま、淡々と続ける。
「アンジュが傍で見てる」
「………ああ。それなら、心配ないわね」
フライヤは、ふっと息を吐き、口元に微かな笑みを浮かべた。
「せっかくだ、近くで見てみるか?」
「いいわよ。私もう視えてるから」
フライヤは魔法陣を目に展開させて既にその様子を観ていた。
「ずるいぞ」
そんなやり取りを交わしながら、二人はまるで、これから幕が上がる舞台を前にした、観劇客のような態度で、事の成り行きを見守っていた。
* * *
ズシン───。
コマが一歩踏み出しただけで、大地が唸った。
地鳴りのような衝撃が、足元からアンジュの身体を揺さぶる。
普段の、あの身軽な動きからは想像もつかない重みで、踏みしめられた地面が、悲鳴を上げて沈み込んでいく。
あまりの変貌と、その圧倒的な威圧感に、
アンジュの身体は、言うことを聞かなくなっていた。
歯が、小さく鳴り、足が、勝手に震える。
それは恐怖だった。
サカキと初めて出会った頃よりも、もっと原始的で、逃げ場のない恐怖。
巨大な狼となったコマは、
足元に転がっていた武器を、指先で拾い上げた。
彼の愛用の双剣。
今の姿では、まるで玩具のように見える。
『レプ・ウンクル族は、生まれながらにして生涯を共にする武器と契約を結ぶ』
低く、腹の底で響く声。
(レプ……?)
アンジュは聞き覚えなのない一族の名に反応する。
その言葉に応じるかのように。
双刀が、脈打つ。
金属が軋み、引き延ばされ、
二振りだった刃は融合し、肥大化し、
やがて一本の、巨大な双刃刀へと姿を変えた。
「───ッ?形が変わった……」
アンジュはその変化に驚愕し、コマは双刃刀の柄を、口に咥える。
『結んだ武器は主の変化に合わせて、戦闘に特化した武器に形状を合わせる』
「………そのカッコになっても喋れるんだ」
思わず漏れたアンジュの言葉。
コマは構わずに、ギロリとアボレセント・カルマル一睨みする。
その視線だけで、アボレセント・カルマルどころか、周囲の生き物たちが、次々と委縮し、意識を失っていく。
半ば、やけになったように。
アボレセント・カルマルが、数百本の腕を一斉に伸ばす。
「コマさん!危──」
アンジュが叫んだ、その時には───。
すべてが、終わっていた。
気配、視界、音。
その場の全てを置き去りにし、コマは突進していた。
武器だけではない。
爪、牙、全身の“鋭利”を解き放ち。
その速度は音すら追いつけず。
生じた衝撃波と旋風が、斬撃となって広がっていく。
そしてアボレセント・カルマルの全身が、
万文の一単位で、均等に、極小の誤差すら許さない精度で切り刻まれていく。
アボレセント・カルマルは、
痛みを感じる暇すらなく。
再生する暇すらなく。
その巨大な存在は───。
霧が散るように、消え失せた。
「ない!………………え?何が起きたの?」
アンジュが、ようやくそう呟いた時。
目の前には、何も残っていなかった。
ただ、無数の斬撃痕で抉れた大地と、
嵐が通り過ぎた後のような、静寂だけ。
───そして。
ほんの数メートル先に進んだだけに《《見える》》、コマの背中だけが、そこにあった。
「け、消し飛んだ?」
アンジュの理解が追いつく前に、決着はすでに終わっていた。
「限りなく強ぇええ~………」
アンジュは、その場にへたり込み、力の抜けた声でそう呟いた。
* * *
すべてが終わった後───。
森には、異様なほど穏やかな静けさが戻っていた。
抉れた大地と、倒れ伏した木々が、つい先ほどまでの出来事が夢ではなかったことを物語っている。
コマは、すでに元の姿に戻っていた。
先ほどまでの凶暴な気配は影を潜め、
彼は、変身前に切り刻んだアボレセント・カルマルの部位を、
いそいそと拾い集めていた。
その背中を、アンジュは少し離れた場所から、じっと見つめていた。
「なんでさっさと変身しなかったの?」
「捌いて晩飯にするって言っただろ?」
「………決め台詞で言ってるのかと思ってた」
アンジュの嫌味にも反応せず、コマは作業を続ける。
「大将がやると周囲が蒸発する。姐さんがやると汚染されて何も残らねぇからな、それに………」
コマは言いかけていた言葉を切り、足元を探る。
「おーいたいた」
「───ッ!?それって!!」
消し飛ばしたはずのアボレセント・カルマルが、
原型を失うほど刻まれ、子供のように可愛らしい大きさになり、コマの手の中で、ぷらぷらと揺れていた。
「………殺さなかったんだ」
アンジュは、少しだけほっとした表情を浮かべる。
「こいつは確かに手当たり次第に生き物を襲うが、殺す理由にはならない」
淡々と、コマは言う。
「こうやって縮小させれば、あのサイズになるまで数年かかる。これでしばらくはこの土地も大丈夫だろ」
「………“殺しに大義名分”とか言ってたクセに」
嬉しそうに嫌味を言うアンジュを、コマは無視して続ける。
「こいつの切り身は中々イケる。煮込んでもよし、干してもよしだ」
「まさか……この討伐って依頼じゃなくて………?」
「ただの食料の調達だ、ついでに環境の保護。一斬倍飯だな」
「そんなことわざないよ!」
アンジュが、勢いよく叫ぶ。
「なんかコマさんって嘘ばっかり」
「───狼だからな」
振り向いたコマが、笑った。
アンジュは、彼の笑顔を初めて見た。
反射的に思わず、顔が熱くなり、その笑顔を直視できなかった。
ぶんぶんと頭を振り、アンジュは強引に話題を変えた。
「………ねぇ、その目って?」
「視えてない」
「俺らの一族は、みな生まれつき隻眼だ。この目は飾りみたいなもんだ。まぁ月の光の受け口みたいなもんだな」
軽く言っているが、その口調には、長く受け入れてきた事実の重みが滲んでいた。
「…………そう…なんだ」
「余計な気を使うな」
アンジュはそれ以上踏み込まなかった。
それが、今この距離でできる精一杯だと、直感でわかったからだ。
「なんかゴメンねコマさん」
「あぁ?」
一瞬だけ言葉を探してから、アンジュは笑う。
「なんかコマさんが少しだけわかった気がする!それだけ!」
「…………」
コマは答えなかった。
代わりに、空気がふっと冷える。
気がつけば、彼はいつもの不機嫌な表情に戻っていた。
感情をしまい込み、仕事の顔に切り替える、その早さは癖のようだった。
「一つだけ言っておく」
拾い集めた荷を整えながら、低い声で言う。
「俺はお前を戦力だとは思っていない」
その言葉にアンジュの胸が、わずかに軋む。
「勝つことも負けることもできない中途半端な奴が、戦場にいるだけで気に食わない」
アンジュは反論しなかった。
それが、事実だとわかっていたからだ。
「だが………周囲の状況把握や観察に関しては、ある程度使えるらしいな」
コマは足元に転がっていた、
アンジュが仕掛けた罠の切れ端を、無造作に蹴り捨てる。
「俺らの稼業は戦いだけじゃない、お前が本気で貢献したいなら───」
その言葉は否定ではない。
「できないことより、できるところを伸ばせ」
彼なりの評価だった。
「大いに不本意だが………大将が認めたんなら、お前もモンスター・パニック・サービスだ」
その言葉が、静かに胸の奥へと落ちていく。
アンジュの中で、ここ数日間、澱のように溜まっていたものが、音もなく、ほどけていった。
「コマさん………」
「コマでいい」
「じゃあ………アニキ!」
「───ッはあぁああ!?」
思わず声を荒げるコマに、アンジュは屈託なく笑う。
「いいじゃん!オヤジもオヤジ呼びを許してくれたし!コマさんはなんかアニキって感じ!」
「気持ち悪りぃ!!俺は舎弟なんかつくらねぇよ!」
アンジュはこの数日間、胸の奥に溜まっていたものが、一気に外へ押し流されていくのを感じていた。
まさか───。
コマから、こんな言葉をもらえる日が来るなんて、
少し前の自分には、想像すらできなかった。
再び耳まで真っ赤にし、アンジュから目を逸らしたまま、縛ったアボレセント・カルマルの荷を背負い、歩き出すコマ。
「あちょっと!アニキまってよ!」
「アニキ言うな!」
「そうだね!オヤジとフライヤさんに早く合流しようよ!」
どれだけ嘘で取り繕っても、コマはアンジュの前では感情が露になる。
軽い足取りと、和らいだ空気。
───だが。
それでもコマは油断はしていなかった。
感覚だけは、決して緩まなかった。
背筋が、凍る。
殺気はない。
敵意もない。
それなのに。
“気づいてしまった”。
自分たちは、敵と認識すらされていない。
狙われているのではなく、ただ見られていた。
「───久しぶりだな、犬っころ」
その声が、背後から落ちてきた瞬間───。
コマの身体が、反射だけで止まる。
人違いであってくれと。
心の底から願いながら。
ゆっくりと、振り向く。
「───ッ……てめぇは」
歯を食いしばり、視線だけで相手を睨みつける。
「そこの女に用がある」
立っていた男の名は───。
“コーネリアス・C・カルロス”
奇形虫族。《ダムセクト》の一角にして。
───世界最強の“個体”である。
「…………どなた?」
アンジュの声は、状況を理解できないまま、静かに響いた。




