第24話 不死身の少女と月光の独眼①
乾いた地面が抉れ、殺気の余波が空気を震わせる。
荒れ狂うモンスターを囲むように、サカキとフライヤ、そしてコマの三人が散開していた。
「フライヤ」
「了解」
そう短く名を呼ぶだけで、彼女との連携は成立し、サカキの拳とフライヤの杖から放たれた魔法が交差し、戦場は一瞬で色を変えた。
───その外側で。
「うわああああああああ〜」
「アンジュちゃん!?」
アンジュは、戦いの輪から弾き出されたように駆け回っていた。
足元の感覚も定まらず、迫る影に背を向けてただ逃げるしかない。
その背後に、モンスターの鋭い牙が迫る。
「ひぃいいいい〜」
振り返ったアンジュの視界いっぱいに、獣の口が広がった。
(し、仕方ない!ワタシが“食べられてる”間に誰かががやっつけてくれる!!)
アンジュは捕食されることに腹を括る。
足を止め、正面からその牙を受け入れようとする。
だが次の瞬間───。
風を裂く音とともに、モンスターが弾け飛んだ。
ズシャアア!!
巨大な獣の首筋に、深く突き立てられた双刀。
迷いのない一閃で命を断たれた巨体が、重たい音を立てて地面に崩れ落ちる。
強者の最期は音にさえ威厳を感じさせる。
そう思わせる光景だった。
腰を抜かしたアンジュは、ゆっくりと顔を上げた。
その先に立っていたのは、仕留めた獲物の上に立つコマの姿だった。
彼の目線はひどく冷たい―――。
だが、怒りとも違う。
どこか距離を感じさせる視線。
「あ、ありがとう」
立ち上がったアンジュが礼を口にする。
「……………」
だがコマは何も答えなかった。
視線すら合わせず、血のついた刃を払うだけ。
いつも通り淡々としているのに、その仕草は、どこか一線を引いている。
アンジュがモンスター・パニック・サービスの一員になって以降───。
コマとは会話らしい会話はなかった。
二人の間には、理由を口にしないまま残された、微妙な気まずさが漂っていた。
* * *
「バギーの修理費用にももう少しで届きそうね〜♪」
フライヤは上機嫌にそう言って、杖に光を灯し、タバコに火を点けた。
前回の闇取引の罪人たちを捕まえた報酬は、思っていた以上に大きい。
長らく放置されていたバギーの修理費用にも、ようやく目処が立ち始めていた。
「そろそろガストンの元へ向かおう」
淡々と告げるサカキに、コマが肩をすくめる。
「あのジジイは耳揃えて払わなければピクリとも動かないぞ?」
三人の会話は、いつも通りだった。
仕事の話。
金の話。
次の行動。
その少し後ろで、アンジュは黙って耳を傾けていた。
───口を挟む理由が、見つからなかった。
先日の、フライヤとの一件。
自分なりに考え、策略を立て、「上手くいっている」と思った矢先だった。
結果は、あっさり捕まり、そこから先は、何もできなかった。
そのあとはフライヤの圧倒的な強さにて事件は強引に解決し、幕を閉じた。
(………調子に乗ってたのかなぁ?)
このメンバーの戦力になれている。
そんな手応えを、いつの間にか信じ込んでいた。
だが今日も、実際にやったことといえば、逃げ回ることだけ。
戦闘も、作戦も、なにも役に立たない。
グツラドニウトで得た成果さえ、今ではずいぶん遠い過去の出来事のように霞んで感じられた。
(せめて………もう少し、戦えたら)
だが、アンジュは不死身であるだけの、ただの普通の少女だ。
一人旅の中で身につけたものといえば、悪人から盗むための技と、博打で生き延びるための勘くらい。
それらは、仲間を支援さえする力にもなっていない。
「はぁああああ〜〜〜〜」
深く、長いため息がこぼれる。
サカキも、フライヤも、その心情には気づいていた。
だが、“敢えて”二人とも声をかけなかった。
今さら言葉を重ねたところで、埋まる《《距離》》ではない。
追いつけないことを知るのも、また一つの現実なのだから。
───その傍で。
食事をかき込んでいたコマが、アンジュを一瞬だけ見つめ、目を細めたことは、誰も気づかなかった。
* * *
その後、一行は次の国へ向かうため、
“サカキのジャンプ”の起点となる高台を目指して移動していた。
森の奥から続く獣道を抜けると、そこから先は切り立った崖沿いの道へと変わる。
足場は少なく、少し踏み外せば奈落へ真っ逆さまに落ちていく。
「この森で済ませたい依頼があったんだがな」
「やめときましょう、骨が折れるわ。“持ち物”も増えてきたし、また次にしましょう」
フライヤはそう言いながら、過去の依頼で得た報酬の数々を縮小魔法でまとめていた。
それでも荷は増え始め、魔法袋の中身は膨れ上がっていた。
足場のない崖道を、サカキ、フライヤ、コマの三人は慣れた足取りで進んでいく。
その後ろをアンジュは浮かない顔で、危なっかしい足取りのまま必死についていっていた。
(こんな調子で“火の鳥”にたどり着けるのかな?)
アンジュは、このチームに入った本当の理由に思いを馳せる。
その一瞬、足元への意識が途切れた。
───すると。
足元の岩が、嫌な音を立てて崩れた。
次の瞬間、アンジュの身体は宙へと投げ出される。
「───えッ!?」
落ちる、だが。
すぐ前を歩いていたコマは、振り返りもしなかった。
それを見た瞬間───。
「───ッッッ!!」
さすがのアンジュも腹に据えかねた。
「ふっぎいいいいい!」
悲鳴とも怒号ともつかない声を上げ、アンジュは必死に手を伸ばす。
死ねない少女が死ぬ気で掴んだのは───コマの足だった。
「な、なにぃいいい!?」
コマが体勢を崩した次の瞬間、二人はそのまま、揃って崖下への森と消えていった。
「アンジュちゃんと“その他”!」
フライヤが目を見開き、即座に飛び降りようとした。
「直ぐに助けて───」
「いや、ちょっと待て」
サカキが、その肩を掴んで制止する。
「あによ!?邪魔しないでよ!」
フライヤは目を血走らせ、サカキを睨みつけた。
「この程度の高さ………コマはともかく、アンジュの体質的にも問題ないだろう」
さらりと言いながら、サカキは二人が落ちていった森の奥を眺め、目を細めた。
即死してもおかしくない高さ。それでも、彼の判断は揺るがない。
「───二人が仲良くなるチャンスだ、ほっとこう」
「サカキ…………」
「ついでに最後の仕事もな」
「あんたってヤツは…………」
フライヤは一瞬だけ言葉を詰まらせた後。
「ナイスゥ!!」
グッと親指を立てた。
「今夜は………満月だな」
サカキは夕闇へと溶けていく空を見上げ、静かに呟いた。
* * *
結論から言えば―――。
コマは落下の最中、アンジュを掴み取り、そのまま彼女を下にして着地した。
「コラア!女の子を大事に!」
クッションにされたアンジュ。
落下の衝撃で全身が無理な方向に折れ曲がったまま文句を言う。
「………知るか」
呻くように返しながら、コマは地面に突っ伏したまま息を吐いた。
頭上では、木々の隙間から空が見える。
だが、いつまで経ってもフライヤが落ちてこない。
サカキはともかく、アンジュを迎えに、真っ先にフライヤが降りてくる―――。
彼はそう思っていた。
するとヒラヒラと一枚の紙が、コマの視界に落ちてくる。
顔面で受け止めたそれを掴み取り、中身を一瞥するとそこには───。
《あとヨロシク♡》
ふざけた文字が躍っていた。
「……………ッチィ」
コマは小さく舌打ちをする。
「ねぇ?どうしたの?」
いつのまにか回復したアンジュが、もう立ち上がっている。
「それって討伐の依頼書だよね!?」
彼の背後から覗き込んだ内容に察したアンジュがコマへ目線を送る。
「ワタシに何かできることはある!?」
背後から覗き込み、状況を察したアンジュが、今度こそと言わんばかりに期待に満ちた目を向けた。
「────クソ面倒くせぇ」
コマは心底鬱陶しそうに吐き捨て、そのまま歩き出した。
「あ、ちょちょ!待ってよ〜!」
慌ててアンジュが追いかける。
───そしてしばらくの間。
森の中を無言で歩く時間が続いた。
その沈黙に耐えかねたアンジュが我慢できずに口を開いた。
「なんで眼帯してるの?」
コマの返事を待たず、次の言葉が飛んでくる。
「目が悪いの?そんなわけないか!」
「その服装って珍しいね!生まれはどこ?」
「なんでオヤジ達と旅をしてるの?」
「そういや、ミコトのお師匠さん………えと、グレンだっけ?なんか仲悪そうだったね!?」
コマはアンジュの矢継ぎ早の質疑を全て無視する。
「オヤジって“鬼の一族”なんだよね?フライヤさんも訳ありの種族みたいだし……」
だが彼の苛立ちは静かに上昇していた、そして───。
「コマ……さんも、何かしらなの?それとも人間?」
ピタリと、コマは足を止めた。
「いい加減黙らねぇと殺すぞ?」
低く、本気の声音でコマは鋭い目をさらに尖らせ、アンジュを睨む。
だが───。
「いいよ~!サンドバック大~歓~迎~!」
アンジュは、満面に笑ったまま、その脅しを受け入れる。
「なぁなぁ、なんでそんな私を毛嫌いしてるの?」
アンジュが一歩、距離を詰める。
「いっしょに旅をしてるんだから仲良くしようよ!」
アンジュの言葉にコマは奥歯を噛み締める。
「はっきり言っておく」
コマの声には、怒気も苛立ちもない。
「俺はお前を仲間だとは思っていない」
「うん!知ってる!」
即答だった。間も、迷いもない。
だがアンジュの即答は、いつもコマを苛立たせる。
「それでもいいよ!」
コマの眉が、わずかに動く。
「でも昼間は助けてくれたじゃん?」
距離感の狂った声だが、嘘はない。
「モンパニって稼業をしてるんだもん。コマさんも根は良いやつなんでしょ?」
「知った風な口を聞くな」
コマはアンジュが放った印象を低く、切り捨てる。
「教えてくれないなら、考えるしかないじゃない」
アンジュも一歩も引かない。
「なら教えてやる」
振り返ったコマの足が、半歩前に出た。
「俺がこの稼業に付いているのは強ェやつと遣り合えるから………」
ぶつかりそうな距離で詰め寄るコマ。
周囲の空気が、張り詰める。
「そして──」
出会ってから最大の圧で、コマがアンジュを睨みつけた。
「殺しに“大義名分”があるからだ」
「そ、それはたいへん剛毅なことで」
軽口だがアンジュは、わずかに震えながら耐えていた。
「……………この際だ、上下関係ってのをキッチリ教えてやる」
「え?」
コマの腰から刃が抜かれる音。
「どうせ大将も姐さんも見てねぇんだ、このまま気の済むまで切り刻んでやる」
「ええ〜?」
「死なねぇんだからいいだろ?」
理屈としては、正しい。
「いや~不死は本日閉店でして」
「サンドバック大歓迎なんだろ?」
「サンドバックって破かれないのが前提なんだよね」
焦ったアンジュが必死で話題を濁す。
「その減らず口………何回斬ったら静かになるか楽しみだな」
その瞬間───アンジュの中で、はっきりと“嫌悪”が形を持った。
怒りを、そのまま暴力に変える人間。
力を理由に、相手の感情を踏み潰す存在。
アンジュは───そういう人間が、心の底から嫌いだった。
「やってみろよ、へそまがり!」
「………良い誤答だ」
コマの殺気が、爆ぜた。
* * *
「まてコラアアアアア!」
「ぎいいいいいい!」
次の瞬間、森の静寂は、完全に引き裂かれた。
アンジュは、死にものぐるいで逃げた。
「ハァ…ハァ…ハァ…気が済むなら、殺されてもよかったけど!なんかムカつく!」
「ハッハァ!逃げられるもんなら逃げてみやがれ!」
背後で、空気が鳴る。
木の幹を蹴り、枝を踏み、次の瞬間には、別の角度から迫ってくる。
もはや人の動きじゃない。
コマは、森そのものを足場にしていた。
「うわああああ!?早っ!?」
モンスター・パニック・サービスの中でも、
純粋な身体速度において、コマは最速だ。
アンジュが、身ひとつで逃げ切れる相手ではない。
「覚悟しやがれ!」
濃い殺意が、背中に突き刺さる。
「あ!フライヤさん!おーい!」
「なにっ?」
慌てたコマが反射的に振り返った。
―――だが誰もいない。
「馬鹿が見~る~♪」
コマが振り返った時には、アンジュは別方向へと跳んでいた。
煽りながら、必死に、全力で。
コマのこめかみが、ぴくりと跳ねる。
怒りで、身体が震えた。
「てめぇ!針切りにして、水にさらしてやる!!!」
「ワタシは生姜なんかじゃないやい!」
森の中で、二つの影が、獣のように駆け抜けていく。
枝が弾け、下草が裂け、夜の森が、二人の速度に悲鳴を上げていた。
「グヅラトニウトの時!あのガスを吸ったらみんなが、ノリだけで世界を滅ぼしちゃうと思ったけど!アンタだけはガス抜きでいけそうだな!」
「安心しろ!この怒りはテメェ専用だ!ガス抜きとはうまいこと言いやがる!」
「そっちのガス抜きじゃないやい!」
アンジュは必死で逃げる。
だが、距離が開くはずもなかった。
背後から迫る殺気は、もはや風圧のように、肌を撫でる。
「くそおお!なんかないか!?なんかないか!?なんかないか!?」
走りながら、アンジュの眼球が、森を舐めるように走る。
「あっ!ククリワイヤ草!あれがあるなら!」
さらに視線の先。
「あった!トラプの木!これをこうして、それでこうして………」
足は止められない、呼吸も荒い。
だが、その手つきだけは、妙なほど、落ち着いていた。
悪人の懐から物を抜き、罠を張り、逃げ延びてきた日々。
その経験が、悔しくもこの瞬間は噛み合った。
「間に合え、間に合え、間に合え、間に合え、間に合えぁ〜〜〜〜!」
息を切らせるも、その言葉とは裏腹に、アンジュの指は迷わない。
そして―――。
「追い詰めたぜ!クソガキが!」
背後に、影が落ちた。
振り返ると狂気にまみれたコマが、ついに距離を詰めた。
「木端微塵斬りにしてや────ッ!?」
その瞬間。
アンジュの仕掛けた“それ”が、発動した。
踏み込んだコマの両腕が、輪の中に絡め取られ、
勢いよく、左右へと引き裂かれる。
「うおおおおお!?」
木が鳴り、蔓が張り詰め、コマの動きが、完全に止まる。
そう、アンジュの即席トラップが、完璧に決まったのだった。
「限りなく………間一髪」
その場にへたり込み、肩で息をしながら。
アンジュは震える指で、
勝利のVサインを掲げた。
* * *
「ぬぐあああああ!」
絡みつく蔦を引きちぎろうと、コマが暴れる。
だが、動けば動くほど、蔦は生き物のように絡みつき、その自由を奪っていった。
「ねぇ、そろそろ教えてよ」
暴れるコマにアンジュは、少しだけ距離を保ったまま声をかける。
「なんで、そんなに…………《《手加減》》してくれてるの?」
その言葉に、蔦のきしむ音が、わずかに止まった。
「アンタ達が、いやアンタも規格外の強さだってのはわかってるんだ」
アンジュの脳裏に、遺跡での光景が蘇る。
───ニアとの戦い。
途中でサカキやフライヤの介入はあった。
だがあの戦いは、コマ一人でも勝てていた。
そう思えるほどの“余力”をアンジュですら感じ取っていた。
アンジュが抱いていた違和感。
それは、コマだけが、実力を隠しているように見えたことだった。
「そのツタだって、すぐに解けるでしょ?いや、そもそも……」
アンジュは真っ直ぐすぎる程、真っ直ぐにコマを見つめ──。
「この追いかけ合いも、アンタが手間取るはずがない」
確信を込めて言い切った。
「アンタがその気になれば、ワタシが瞬きしてる間に、仕留められてたハズなんだ」
「…………」
「ねぇ、わかんないんだよ………アンタの本心が───ってアレ?」
言葉を切り、アンジュは、そっとコマの顔を覗き込んだ。
その視線から逃げるように、コマは、ゆっくりと顔を伏せる。
月明かりの下。
その顔は――─。
炎の様にはっきりと、耳まで赤く染まっていた。
「ああああ!ゴメン!なんか!ゴメン!」
状況を理解したアンジュが、一気に慌てだす。
蔦に手を伸ばし、解こうとした、その瞬間。
「───いい」
コマの足が、アンジュの進路を塞いだ。
次の瞬間。
目にも止まらない速さで、コマの腕が消える。
旋風のような一閃。
絡みついていた蔦は、一瞬で細切れになって地に落ちた。
すでに抜かれていた、愛用の双刀。
コマは無言で埃を払うと、アンジュをひと睨みする。
「───ええと」
アンジュも、さすがに言葉を失っていた。
コマは何も言わず、周囲を一瞥し、歩き出す。
「ちょっとまって!なんか言って!この空気辛すぎる!」
慌てて追いかけるアンジュ。
「ごめんなさい!なんか言っちゃいけないこと、言っちゃったみたい!」
そして、とんでもない提案が飛び出す。
「お詫びにホラ!腕!腕を切り落としていいから!!」
至極物騒な詫びの品にも、コマは一切反応しない。
ただ、黙って歩き続ける。
気まずすぎる沈黙。それが、しばらく続いた。
だが、やがて───。
「……さっきの罠は、慣れているのか?」
唐突に、コマが口を開いた。
「───え?あっ、うん!」
生まれて初めて、こちらからではなく。
向こうから話しかけられた気がして。
アンジュは、思わず声を張り上げて答える。
「一人で旅してた時に、食料に困った時とか……たまに……」
「あの短時間で、よくこしらえたな」
「えッ?なに!?」
聞こえるか聞こえないか、その程度の音量でコマが呟いた。
慌てて聞き返すが、コマは答えない。
再び、二人は無言で歩き出した。
そして、森が開けかけた次の瞬間―――。
コマが、ピクリと鼻を動かす。
足を止め、周囲を慎重に見渡した。
「あの………えっと、どうしたのですか?」
思わず、敬語になってしまうアンジュだった。
その時、低く鈍い振動が、大地の奥から這い上がってくる。
「───やっと来たか」
「なんだ!?なんだ!?なんだ!?」
アンジュの声をかき消すように、地面が盛り上がった。
木々が、根こそぎ薙ぎ倒される。
土と岩が弾け飛び、地面の内側から“それ”が姿を現す。
見るだけで目眩を起こしそうな異様な模様。
ぬめるように脈打つ不規則な数百本の腕。
それは森を覆うほどの影を落とす、巨大な―――。
イカ型の怪物だった。
「標的だ」
コマは、それだけを告げる。
「こいつは縄張り意識が強い、自分のテリトリーで騒ぎを聞きつけたら排除にしにくる」
「もしかして、さっきの追いかけっこって………“込み”?」
アンジュが、ようやく点と点を繋げる。
だが。コマには───。
先ほどまでの息切れも、汗も、感情の揺れもなかった。
そこにあったのは冷静、否──冷血とも言えるほどの無表情。
その様子を見たアンジュも、反射的にカバンから護身用のナイフを抜き、構える。
だがコマは、鬱陶しそうに一歩前へ出た。
「さがってろ」
「わ、ワタシも手伝う!」
「邪魔だ」
「そんなことない!ワタシがさっきみたいに罠をつく───」
「そうじゃない」
必死で援護を申し出るアンジュをコマが一喝する。
「元々、こいつは三人全員で殺るつもりだった」
「───じゃあなおさら………え、全員?」
その言葉で、アンジュの背筋が凍る。
サカキ。
フライヤ。
コマ。
その三人がかりで相手をする相手―――。
それは、“兵器級の存在”を意味していた。
相手がそれほどの対象だと認識したアンジュは、ゴクリと喉を鳴らし、気がついた時には足が震えていた。
「…………仕方ねぇな」
コマは、再び双剣を抜く。
首を傾げると、ゴキリと小さく骨の鳴る音。
先ほどとは違う目。
冷たすぎるほどの静けさ。
まるで感情を切り離した、機械のような表情。
「捌いて晩飯にしてやる」
双剣が、低く構えられた。
巨大な影と、無感情の刃。
その対峙を彩るかの様に、天から脚光の様に照らしたのは───。
白く輝く満月だった。




