第20話 見つめる少女と芽生えの才
朝の光が、白いカーテンを透かして部屋を満たしていた。淡く透きとおった鱗に反射する陽光が、まるで水面をなぞるように壁を照らす。
「ミィ〜」
小さな欠伸とともに、ニアはのそのそと身を起こした。
“観察区”での生活にもすっかり慣れ、この小屋はもう自分の家といえるほど馴染んでいる。ニアは床の上を尾でたたきながら周囲を見回すが───。
「ミ………ミ?」
肝心の“保護者”の姿が見えない。
ニアにとって、朝いちばんの仕事はミコトを探すことだった。
首を左右に傾げながら部屋を覗き込み、ベッドの下も机の影もくまなく探したのち、ふと窓の外に目を向ける。
「ル〜~ル♪」
小屋の外、朝風を受けながら鼻唄を口ずさむミコトの姿があった。
洗濯物を干しながら、どこかご機嫌な様子。
その穏やかな光景に、ニアの尾がぱたぱたと揺れる。
「ミィ〜〜♪」
嬉しそうに跳ね、外へ駆け寄ろうとしたその時。
「ル……〜ル、コ〜ル、コール、コールコールコールCALLCALLCALLCALLCALLCALLCALL────」
ミコトの口から飛び出していたのは、呪文の連呼だった。よく見ると干されているシャツはバリバリに乾き、本人の目の焦点も完全に合っていない。
「────ミ」
ニアの脳内で“これは関わってはいけない”と悟り、今朝の朝食は静かにひとりで済ませることにした。
* * *
───数日前。
ミコトは、スカイ・ファームの中央棟を抜け、南東にある“訓練区”へと足を運んでいた。
そこは生き物たちの調教だけでなく、職員自身の戦闘・防衛・魔力制御訓練なども行われる、まさに牧場の胆玉地帯。
その空気はいつもより重く、湿った砂の匂いが鼻をかすめた。
ミコトは指定された訓練場の闘技場のように広い円形のホールに入ると、薄暗い照明の下で、すでに一人の男が待っていた。
「………来ましたね」
「グレン班長!お待たせしましたか!?」
「いえ定刻通りです」
グレンの声はいつものように静かで、冷たい金属のように整っていた。
ミコトは緊張と期待が交わった表情で、手を胸に当てて立つ。
“修行が始まる”という高揚感と、“何をされるのかわからない”という不安が、同じ熱で体を満たしていた。
すると、グレンはおもむろに手を上げる。
「………それで、修行内容って────うッ!?」
そう発言した瞬間、ミコトの体を突き抜けるような震えが走った。まるで遠くから、誰かの悲鳴が心臓の奥に流れ込んできたような感覚。
寒気にも似た旋律に、息を飲む。
「………え、何?今の」
「感じ取れましたか」
グレンは驚く様子もなく、ゆっくりと歩み寄ってくる。
その瞳には、わずかな満足の色が浮かんでいた。
「今のは、旧友に頼んで行っていただいたものです」
「た、頼むって………何をですか?」
「“召喚号令”です」
「召喚号令───これが!?」
その言葉に、ミコトの背筋が伸びる。
それは、世界の果てから召喚士が転送士に、転送を求める時の信号魔法だった。
確かに、今の“声”には呼びかけの力があった。
呼ぶ側ではなく、呼ばれる側としての感覚。
「感知には問題ないとみました」
「えっ? えっ───え?」
グレンは説明を端折ったまま進行を続ける。
そして小さく息をついて、穏やかな声で言った。
「雑用業務の頃から思ってましたが、《《それも》》今後の課題ですね」
その口調には、いつもの冷たさではない。叱るでもなく、突き放すでもなく、ただ彼女の反応を丁寧に見届けている。
ミコトが小さく見上げると、グレンは視線を変えた。
その先には、山のように積まれた、半透明のスライムのような塊。
それがプルプル揺れ、光を反射している。
「これは、化学班が開発した、実験用の『バリスティックスライム』───限りなく“人肉”に近い特殊素材です」
グレンはその一つを手に取った。
冷たい感触が手のひらに広がり、空気がぴたりと静止する。
「よく見ておきなさい」
ミコトが息を呑む中、グレンの瞳が淡く光る。
彼が短く息を整えると、スライムが一瞬で霧のように分解され───次の瞬間、元の形に戻った。
「これは………“分解”と“再構築”」
その言葉に、ミコトの心臓が強く脈打つ。
わずかな動作の中に、転送魔術の「第一」と「第四」の段階が確かに存在していた。
ミコトの言葉が落ち着くより早く、グレンの肩がわずかに震えた。
彼の表情から血の気が引き、額に薄い汗が浮かぶ。
「グレン班長!?大丈夫ですか!?」
「………問題ありません」
ミコトは思わず駆け寄るも、グレンは軽く咳払いをし、姿勢を正す。
しかしその指先は微かに震えていた。
「知っての通り、転送魔術の第一と第四の段階です」
「………はい」
真剣な眼差しで頷くミコトに、グレンは続ける。
「生き物を、遥か世界の果てまで即時に転送を行う上で、最も危険な第一段階の“分解”。そして確実に、生きたまま復元させる第四段階の“再構築”。どちらも多大な責任が伴う務めです」
「はい!」
再確認の様に早口で説明するグレン。しかし真剣に強く返すミコト。
「あなたは前回、所長の種子とレガシー・ギフトの転送に成功しました」
グレンの言葉が、訓練場の静寂を切り裂くように響いた。
「その時の感覚は?」
「えっと、あの………必死だったので……………すいません」
小さな声で答えるミコト。
額に浮かぶ汗が、緊張と羞恥のどちらによるものか、自分でも分からない。
「そうでしょうね、“それ”こそが───まずあなたが越えるべき壁です」
その声は、叱責ではなく診断のようだった。
まるで医者が病状を説明するような静けさ。
「貴方は内面のブレが激しすぎる、転送を安定させる為には───まずは貴方が安定しなさい」
「は、はい!」
その言葉の裏にある“期待”をミコトは確かに感じ取った。
ミコトは姿勢を正し、まっすぐに立つ。
その動作がぎこちないのも、彼女らしい。
「差し当たっては、今見せた分解と再構築を───」
短い間を置いて、淡々と告げる。
「1日、1,000回繰り返しなさい」
「はい────えっ!?せんかい!?」
思考が完全に吹き飛ぶ。
訓練場に響くミコトの声が、空気の緊張を一瞬でほぐした。しかしグレンは、まったく動じない。
「ただ繰り返すのではありません、一つにかける時間は二秒以内です」
「に、にびょー!?」
ミコトの悲鳴が、天井にまで反響する。
それを聞いた訓練区の鳥たちが、何羽か驚いて飛び立っていった。
「安定した転送をするには、上手く転送する。上手く転送するには、たくさん転送する。たくさん転送するには、早く転送する。早く転送するには、上手く転送する。」
その言葉は、シンプルでありながら妙に説得力があった。ミコトは呆然としながらも、無意味にメモを取ろうとする。
「まぁ、私の師の受け売りですが───」
その一言のあと、グレンの表情がわずかに陰った。
普段は整然とした瞳の奥に、微かに痛みの色が浮かぶ。
ミコトは、その変化を見逃さなかった。
けれど、今は何も言えなかった。ただ、自身の師の言葉を胸の奥に刻むように、静かに息を整えると、グレンが振り返り、話題を変える。
「レガシー・ギフトは?」
「ニアですか?今はお家で待ってます」
ミコトが答えた瞬間、グレンの眉がわずかに動いた。
(“お家”で“待つ”か………随分と短期間で友好を深めたものだ)
彼の胸の奥に、ちりりと熱のような感情が走る。
無意識に手にしていたスライムを強く握りしめ、ブチュウと嫌な音が響いた。白濁したスライムが指の間からはみ出す。
ミコトが思わず身を引いた次の瞬間───。
ぬるりと蠢いたスライムが自らの形を再構築した。
鳥肌を立てながら一歩引くミコトにグレンは何事もなかったかのように淡々と説明した。
「このスライムは、リゼに頼んであなたの修行用に特注したものです。一定時間で復元するので、壊しても問題ありません」
そう言いながら、スライムの構造式がびっしりと記された資料を差し出した。ミコトはそれを一読すると、表情で「覚えました」と伝える。
文字どおり一瞬の反応だったが、グレンは確かにそれを受け取り、その口元に僅かな笑みが宿る。
「当面の修行は、これの繰り返しです。安定したら呼んでください」
まるで業務報告のように要件だけを伝えると、グレンは踵を返す。
背筋の通ったその後ろ姿は、いつも通り完璧で、やはり冷たい。
「は、はい!────あの!………その」
思わず声が漏れた。
“見慣れすぎた”背中が遠ざかるのが、なぜか不安でたまらなかった。
「………心配しなくても、毎日様子は見に来ます」
「───ッ!はい!私、頑張ります!!!」
全身でやる気を表すミコト。
頬を赤く染め、拳を握りしめたその姿に、グレンは小さく息を漏らした。
それは、呆れでも皮肉でもなく───ほんの少しだけ、優しさを含んだ息だった。
* * *
───1週間後。
「だめだぁ〜〜〜〜〜〜!」
訓練場の片隅で、ミコトの叫びが虚しく響いた。
ミコトが放った分解魔術は、片っ端からスライムを爆散させ、再構築魔術はいつもその周りを渦を巻くだけで、発動にまったく間に合っていない。
「二秒どころか、計測すらできない………」
額から汗を流しながら、ミコトは再び両手をかざす。だが次の瞬間、スライムが「ボンッ!」と破裂し、室内にゼラチン片が飛び散った。
「………もうっ」
その破片が自動的にウネウネと動き、何事もなかったように復元していく、手作業な魔術の前に、計算された科学の力というものは、実に無情だ。
「なんでそんなに綺麗に戻れるの?」
じとっとスライムを見つめながら、ミコトはむくれた顔をする。
無言で復活を続ける科学備品が、彼女の心に無駄な敗北感を与えていた。
「気を緩めると、すぐに分解魔法が乱暴になっちゃって、損傷が激しくなるし。分解に集中しすぎたら再構築魔術を構成する余裕がない───」
ミコトは自分の欠点を少しずつ理解し始めてはいた。だが“理解”と“克服”の間には、深くて長い谷がある。
「………恨むよ、ご先祖様」
ぽつりと呟き、ミコトは額を押さえた。
彼女が属する《クラマ》の血筋は、代々攻撃特化の魔力構成を持つ。破壊に向いた力が、精密な転送術に向くはずもなかった。
グレンはといえば、毎日様子を見に来ては───。
『引き続き、繰り返しなさい』
その一言だけを残して去っていく。
「うううう〜〜〜〜!」
天井が低く感じるほどの閉塞感に、ミコトは思わずうずくまった。
けれど、次の瞬間、彼女は自分で頬を叩く。
「弱気になっちゃダメ!」
立ち上がるその姿は、疲れていても凛としていた。
「やっと掴んだ修行だもん、ぜったいに上手くならなきゃ!」
復元されたスライムを両手に取り、再び詠唱を始める。
だが、その瞬間───。
ピピピピピピピ!
訓練終了の時刻を告げるアラームが鳴り響いた。
「ひゃっ!?も、もうこんな時間!?いけない、ニアにご飯あげないと!」
慌てて魔力を切ると、同時に───。
キュルルル……。
彼女の腹も、申し訳程度に主張し、ミコトは頬を赤らめながらお腹を押さえた。
* * *
「ミッ!ミッ!ミッ!ミッ!」
夜の小屋に、一定のリズムで響く鳴き声。
食卓の端では、ニアが“ごはんマシン”の照射口にぴたりと張りつき、放出される回廊帯を嬉しそうに吸い込んでいた。まるで夕餉のスープをすする子どものようだ。
その傍らで、ミコトは箸を持ったまま、どこか上の空だった。手元の皿の温もりも、味も、ほとんど感じていない。
「所長の種子の時は無我夢中で転送ができた、でも───」
呟きながら、ミコトはふと視線を落とす。
思考の底に沈むように、過去の記憶が浮かび上がった。
所長の種子───。
アンジュに送った時のニア───。
どちらも「転送」ではあった。
けれど、その“違い”がどうしても掴めない。
(ニアの時は………体が勝手に動いて………)
それが一番の謎だった。
あの瞬間だけ、思考よりも先に身体が動き、術式が勝手に完成していた。
感覚としては、“転送した”というより“操られた”に近い。
けれど、そんな話をグレンに相談する勇気はなかった。理屈で動く師に、“無意識下で成功した”などと言えるはずもない。
ミコトは深く息を吐き、天井を見上げた。
彼女の脳裏には、グレンの言葉が蘇る。
“貴方が種子の転送した時に感じたであろう「達成感」これはいずれ転送士として貴方を支える「初志」に繋がるでしょう”
「………達成感、か」
ぽつりとこぼれたその言葉は、どこか遠い響きをしていた。
“達成”とはなにか。
“成功”とはなにか。
自分はその手で何を掴んだのか───。
その全てが、霞がかかったように曖昧だった。
気づけば、皿の上の料理も冷めている。
ミコトはそれをそっと脇に寄せ、ため息混じりにベッドへ腰を下ろした。
「……………はぁ」
指先には、魔術の練習でできた細かな火傷の痕。
それを見つめながら、胸の奥で小さく呟く。
「全然………進歩してないなぁ………」
その声を聞きつけたのか、耳元で「ミィ〜〜〜〜」と優しい鳴き声が響いた。
見上げると、ニアがこちらを見ていた。
いつものように無邪気な視線………ではない。
「………ニア?」
問いかけても、ニアは答えない。
ただ尻尾をゆっくり揺らしながら、何かを企んでいるようにミコトを見つめていた。 その視線に、ミコトは少しだけ笑った。
「………励ましてくれてるの?」
「ミィ〜〜〜〜」
まるで肯定するように、小さく鳴くニア。
しかしその瞳の奥に、ほんの少し“決意”の色が混じっていたことを、ミコトはまだ知らなかった。
* * *
翌日、ここはスカイ・ファームの平原区。
風が緩やかに草を撫で、陽光が金色の波を作っていた。ミコトは作業服の袖をまくり、育成班の職員たちと肩を並べて働いていた。
「他にお手伝いできることはありませんか?」
「いや大丈夫だって!お前はグレン班長に修行つけてもらってんだろ?もうここはいいから、ありがとよ!」
笑いながら手を振る職員。
ミコトは一度口を開きかけて、結局「はい……」と素直に下がるしかなかった。
以前なら“役に立ちたい”一心で粘っただろう。
けれど今は、自分の修行が遅れているという現実が重くのしかかっていた。
そんな時だった。
ふと、空を見上げたミコトの瞳に光が走る。
「───あ」
遠くで、光の粒がゆらりと舞い上がっていた。
視線の先で一人の転送士が、巨大な獣の額に手を添えている。
「頼むわよ」
「グルル───」
獣は静かに頷くように目を閉じ、その姿が淡い光の中に溶けていく。
風が一瞬止まり、そして───。
「…………CALL」
次の瞬間───獣の姿は消えていた。
まるで祈りの儀式のような光景に、ミコトの胸が熱くなる。
気づけば、体が勝手に動いていた。
「すいませええええええん!」
「えっ!?なに!?なに!?なに!?なに!?なに!?」
「───ッ!あのッ聞きたいことが!!」
「ミ、ミコトちゃん!?どうしたの?」
慌てて振り返る転送士。
普段はおっとりとした少女が、全力で駆け寄ってくる姿に驚きを隠せなかった。
息を切らせながら、ミコトは頭を下げた。
* * *
「なるほどね、転送魔術のコツか………」
転送士はミコトの悩みを聞き、少しだけ空を見上げ、遠い日の記憶を探るように微笑んだ。
「わたしもね、ずいぶん苦労したのよ」
穏やかに笑うその横顔には、長年の努力が刻まれている、その目が少しだけ寂しげに細められた。
「でもごめんなさい、私からミコトちゃんに教えられることはないわ」
「そ、そうですか………」
分かりやすく肩を落とすミコト。
しかし転送士は柔らかく笑みを浮かべ、そっと彼女の肩に手を置いた。
「ここにいる転送士はみんな、同じ理論を学んでスタートしたの。でもね、結局はそれぞれが“自分用”に訓練していったのよ」
「自分用……?」
「そう。生き物を送る術って、理屈でなく“想い”で形が変わるの。誰もが同じ式を使っても、それぞれセンスも違えば魔力の種類も違う。みんな死に物狂いで技を磨いたもの───だからね?感覚的なことは、他人からは教えられないの」
転送士の声は、どこか誇らしげでもあった。
「全ては、このスカイ・ファームにいる子たちが、“召喚士を信じて必ず帰ってくる”ための術だから」
その言葉に、ミコトの胸が静かに震えた。
スカイ・ファームの転送士たちは、生物の帰還の祈りを術に込め、血の滲むような努力と、気の遠くなるほどの反復により手に入れたものであった。
その理屈は説明できても、感覚は自分で掴むしかない。
「あなたの悩みは間違っていない。でも転送士の修行は競争じゃないわ。グレン班長を信じて、焦らずに自分の魔力と仲良くなりなさい」
そう言って、転送士はミコトの頭を軽く撫でた。
それは、見習いから本物へと続く道の入り口を示す、静かなエールだった。
別れ際、ミコトは深く礼をして飛空艇へと戻る。
夕陽が草原を朱に染め、彼女の影を長く伸ばしていく。
「ヒントを貰ったからって………なんとかなる訳じゃないよね」
ぽつりと呟いた声が風に流れた。
近づいたと思った道のりは、まだ果てしなく遠い。
「考え方を変えないと───」
その言葉に、自分でハッとする。ミコトの瞳が、わずかに光を宿した。
風に髪が揺れる。
「考え方を………変える?」
彼女の脳裏に、小さな“ひらめき”が浮かび上がる。
それは───。
彼女自身の“転送魔術”を見つけるための、最初の鍵だった。
* * *
次の日のミコトは、どこか違っていた。
いつも通り訓練場の床には無数のスライム片が転がり、弾けては再構築を繰り返している。だが、その中心に立つミコトは、ただ闇雲に魔術を繰り返すのではなく、何かを模索しているかの様だった。
「………いけ」
短く息を吐く。
魔力が迸り、スライムが弾け飛ぶ。しかし、これまでと違う。
破裂した破片がゆっくりと光を帯び、彼女の魔術に引き戻されるように形を取り戻していく。
「───ッ!?やった!」
ミコトの口から歓声が漏れた。
再構築はまだ歪で、完全とは言えない。
だが“自動回復ではなく、自分の魔術で戻せた”という事実が、胸を熱くした。
ミコトは弾かれるようにスライムへ駆け寄り、両膝をついて破損箇所を確認する。
細かな亀裂のひとつひとつに指先を滑らせながら、何度も呪文の構成を頭の中でなぞった。
その様子を、扉の影から見つめる人物がいた。
(………ほう、なるほど“その手”で来ましたか)
見守っていたのはグレンだった。
静かに室内へ入ると、彼は腕を組んでミコトの背を見守る。
(第一と第四の《《順序》》を………入れ替えたのか)
だがミコトは、グレンの来訪には気づかないほど集中していた。
グレンの目が細く光る。
(ミコトの魔術は攻撃性が極めて高く、調整が難しい。だからこそ調整を捨て、そのまま再構成魔術に集中し、先に放つ、後から分解魔術を送れば、やがてそのまま勝手に追い抜いていく………)
決して正攻法ではない。だが、確かに理に適っていた。
(兎がその気になれば、周回遅れであろうと亀に追いつくのは実に容易。面白いですね………だが、まだ荒い)
再構成されたスライムは未だ奇形な形で蘇り、未だ完全な修復とは言えなかった。
だが、グレンは口を挟まなかった。
今の彼女に必要なのは、助言ではなく“試行錯誤”だと知っていたから。
「あっ!グレン班長!?いらしてたのですか!」
「挨拶はよい、続けなさい」
やがてミコトがグレンの存在に気づくも、訓練の継続を促した。
それは、編み出した方法を試す価値があるという“許可”の響きを持っていた。
「はいっ!!」
ミコトの瞳が輝く。
彼女は再びスライムに向かい、魔術詠唱を開始する。魔力の光が重なり、弾け、そしてまた形を成す。
そして何度も、何度も、何度も。
破裂し、歪み、崩れ、それでも立ち止まらない。
数刻が過ぎた頃───。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
汗が頬を伝う。指先は震えている。
それでもミコトはスライムを見つめたまま、再び両手を掲げた。
焦りは消えていた。やけくそでもない。
その瞳は、ただ静かに。
“自分の魔力”と向き合う者の光を宿していた。
グレンは腕を組んだまま、わずかに目を細めた。
(思い出すのです、乗りさえすれば───あなたはすぐに“掴める”)
そう思った刹那───。
「ミィーーーー!!!」
突如、空間が鳴動した。
まるで風を裂くような声と共に、銀の影が飛び込んでくる。
光を弾きながら一直線に訓練場の中央へ───。
「───っえ?」
ミコトの呟きが届くより早く、その小さな影は目の前へと迫っていた。
「レガシー・ギフト!どこから!?」
グレンが鋭く声を上げる。
訓練区は封鎖空間。外からの侵入など本来ありえない。
だが、ニアはいた。ミコトの魔術が渦巻く“中心”へ、まっすぐに飛び込んできのだった。
「ニア!?どうしてここに!?来ちゃダメ!」
「いかん!ミコト!!魔術を止めなさい!」
だがもう遅い、術式は完了していた。
分解魔術が展開され、再構成魔術を追い抜き、ニアを掴み始めている。
止めようにも、止められない───仕方ない。
「だめぇえええええ!!」
ミコトの叫びと同時に───瞳が翡翠色に輝いた。
(────瞳が?)
グレンはその変化を見逃さなかった。
彼女のその目は、恐怖でも、執念でもない。
“絶対に死なせない”という、揺るぎない意志が宿した光だった。
ミコトの腕が唐突な魔術の軌道修正に悲鳴を上げ、ビキ…ビキビキ!と、軋む音が響く。溢れ出した光が衣服を裂き、肌を切り裂く。
「くいいいいいいいいいい!」
だがミコトは怯むことなく、底意地で魔術を操り、歯を食いしばる。
「いいいいいいいいいいいいいいい!」
魔術の流れを、腕の中で押さえ込むように。
暴発寸前の奔流を“その手で掴んで”強引に圧縮させた。
「ニィィイイアアアアアアーーーー!」
呼称と、叫びと、魔術が混じり合い、訓練場全体が震えた。
魔力が天井へ抜け、風が逆巻く。
そして、光が爆ぜる。その瞬間───。
ニアの身体が、霧のように分解された。
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ───」
ミコトは目を見開いたまま、崩れ落ちた。
息が、できない。
魔術を止めた手が、震えたまま硬直する。
見えるのは、空気の残滓。
自分が放った術の痕跡だけ。
「────ニア」
ミコトの静かな呼びかけ。
次の瞬間───霧が形を取り戻す。
光が集まり、輪郭が生まれ、命の温度が戻ってくる。
「ミィ〜〜〜♪」
ニアは、そこにいた。
無傷のまま、ふわりと浮かぶ小さな体。
小さな龍の子は、片目を閉じてウインクした。
その愛らしい仕草よりも早く、ミコトは地を蹴って駆け出していた。
「ニア!?ニア!大丈夫?どこも怪我していない?もう!なんでこんな所まで!どうやって来たの!?」
抱き上げた腕が震える。
ミコトの腕から垂れた血がニアの頬へと落ち、紅の雫が白い鱗を染めた。
「ミィ〜………」
ニアはその血を、小さな顔で拭うようにしてこすりつけた。
まるで“泣かないで”とでも言うように。
その仕草にミコトは胸の奥が熱くなり、喉が詰まる。
「まさか………私の飛空挺に隠れてたの?」
ばつが悪そうに視線を逸らすニア。
怒られると思って身を縮めたその頭に、ミコトはふっと笑って手を置いた。
「もう………」
ニアの意思の尊重を約束した彼女だったが、その手は血に濡れ、震えていた。
「………本当に、無茶しないで」
今にも泣きそうな表情でニアを見つめるミコトに───。
「結果オーライですね」
グレンが静かに割って入った。
彼はゆっくりと歩み寄り、二人の傍で立ち止まる。
ミコトの瞳は翡翠色ではなく、すでに、元の深い黒に戻っていた。
「自力では三度目の成功………今度は掴みましたか?」
その問いは優しさでもあり、試練の確認でもあった。覚えていなくても構わない。だが、もし“感じて”いたなら───。
「はい!」
短く、それでいて迷いのない声。
その返事に、グレンの眉がわずかに動く。
嘘でも虚勢でもない、本物の手応えを得た者の返答だった。
「………そうですか」
彼は少しだけ目を細め、再びいつもの調子へ戻る
「だが一度の成功は成功とは言いません。1,000回中、1,000回成功させてこそ“技術”と呼べるものです」
グレンの声は叱責ではなく、励ましだった。
「転送魔術の基礎的な技術は、対象を絶対に死なせはしないという意思と気概が個性として、そのまま魔術に反映される」
そう言いながら、彼はふとニアへと視線を向ける。
───あの時、所長の種子を転送した少女。
そして今、魔術を成功させた少女。
「あなたの場合は“意地”が個性みたいですね」
穏やかな笑み。それは皮肉ではなく、何よりの称賛だった。
ミコトはその言葉に目を瞬かせ、頬を赤らめた。
ニアはそんな彼女の膝の上で、満足そうに丸くなる。
訓練場に、ようやく静けさが戻っていた。
するとグレンが無言で鞄を開け、救急箱を取り出した。
「───失礼」
「ぐぐぐぐぐぐグレン班長ぉお!?自分で、自分でできますから!」
「いいから、触れますよ?」
淡々とした声で、慣れた手つきでミコトの腕を取り、血を拭い、包帯を巻きはじめる。ミコトは顔を真っ赤にして固まり、情けない声を漏らした。
「うぅぅぅ………あの、恥ずかしいですぅ………」
「暴発した魔術で裂傷を負っておいて、恥ずかしいも何もありません」
まるで事務処理のように、彼の指は迷いなく動いた。清潔な布が傷口に当たり、消毒液の匂いが鼻をつく。その手際に、ミコトは抗う気を失い、ただ黙って処置を受ける。
「貴方は、他者の為ならば自分を犠牲にしても、それが当然だと思うタイプです」
しばらくして、グレンが口を開いた。淡々とした声だったが、その奥に静かな情があった。ミコトは言葉を失い、目を伏せる。
「だが、その考えと転送への気概がこれまで噛み合ってなかった。身を粉にして、全力を出すのは美徳といえ修行を阻害しているのは間違いない」
包帯を結び終えたグレンは立ち上がり、懐に手を入れる。
「………ならば」
そう言って、彼が取り出したのは───。
ニアの“ごはんマシン”だった。
「それは、ニアの?」
「表に停めてあった貴方の飛空艇から拝借しました。レガシー・ギフトが乗っていたことには気づきませんでしたが」
「ミィー!」
ニアが誇らしげに胸を張る。
グレンはその様子を見て、ほんのわずかに口角を上げた。
「貴方の意地が技術へと昇華され、1,000回中、1,000回成功するまでは、この機械のメモリは《《こう》》します」
グレンは、ごはんマシンに指をかざし、微細な魔術式を走らせた。「ピ」と小さな音がして、メモリゲージが極小に固定される。
「ミ!?」
ニアの顔色が青ざめる。
その小さな体が“ガタガタ”と震えた。
「で、でもそうなったらニアに十分なご飯が────」
「そうなったときの特性も調べられて結構ですね」
グレンは悪びれる様子もなく、さらりと答える。
「“ニア”の為に、頑張りなさい」
そう言って、意地悪そうな笑みを浮かべた。
そうしてグレンは背を向け、軽く手を振りながら歩き出す。
「では、よい報告を待ってますよ」
「ミィーーーーーーーー!」
ニアが絶望の悲鳴を上げる。
その声は訓練区どころか、平原区まで響き渡った。
ニアは必死に視線でミコトに助けを求めるが。
「ニア!私頑張るね!」
「ミ”イ”イ”イ”〜〜〜〜〜〜〜!?!?」
その夜、スカイ・ファームの静寂は、
一匹の龍の嘆きによって打ち破られたという。
* * *
───その夜。
日中の業務を終えた職員たちは、夜勤との交代を済ませ、それぞれの住居区へと戻る準備をしていた。
疲れた身体を引きずりながらも、
どこか楽しげな笑い声が、風に混じって聞こえる。
「おい、どうしたよ?」
「見ろよ、これ……」
酒場兼食堂───通称“晩酌処”
いつもなら明かりと笑いが絶えないその入り口には、《本日貸し切り》の札が掛けられていた。
「だぁ〜!?貸し切りぃ!?仕事終わりの一杯が………!」
「珍しいこともあるもんだな」
「なんでも、班長たちと所長が集まってるらしいぞ?」
「そ、それってつまり………会議か?」
「なら、なんで中央棟じゃなくて酒場なんだよ」
「だからこそだ。よっぽど重要な話なんだろう……」
噂が一気に広がり、職員たちは空気を察して散っていった。
その扉の向こうでは───。
「ついにこの日が来たのです!」
豪快な声が店中に響き渡る。
瓶を片手に天を仰ぐのは、もちろんグレンである。
「ミコトが感覚を掴む日が!」
「あの事件の一件以来!ようやく芽生えた芽に成長の兆しが!」
「───って聞いてるんですか!?」
感極まったように区切って語るグレンの隣では、
バジルとリゼがぐったりと肩を落としていた。
「聞いたよもう………何回も、よかったな」
「なぁ私、研究に戻りたいんだけど?」
「………なぁ、リゼ。この話何回目だと思う?」
「───八回目?」
「十五回目だ」
二人は諦めたように盃を傾ける。
「でもよかったじゃないか。弟子に進歩があるのは、師として誇らしいことだろう?」
カウンターの端では、所長が小さな枡酒に“根”を浸していた。
まるで酒風呂に浸かるように、心地よさそうに目を細めている。
その言葉に反応したグレンが、ギョロリと視線を向けた。
「………ッ、所長」
「ど、どうしたの?グレン君?」
「褒めたい………!」
「え?」
「褒めちぎりたい!!!」
「ぎゃあああああああ!?!?!?」
次の瞬間、グレンは所長の小さな身体をひょいとつまみ上げ、根元ごと口にくわえて「ヂュウヂュウヂュウ」と所長が吸い取った酒をさらに吸い取り出した。
「だが自主性に長けた彼女を下手に褒めてしまうと───」
「かえって逆効果になるかもしれません!」
「だからこそ私はぁああ!適度な距離をっ───」
再び所長をくわえたグレンは、歓喜と苦悩とアルコールに呑まれていった。
「やめでよじで!グレンちゃあああああん!」
その後もしばらく、スカイ・ファームの食堂からは、師の歓喜と、木の悲鳴と、仲間たちの笑いが交互に響き続けた。




