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第18話 見つめる少女と芽生えの島



 静寂の中心に、ミコトはポツンと立ち尽くしていた。


 朝の光が小屋の窓から斜めに差し込み、机の上の書類を照らしている。


 紙の端が風に揺れて、カサリと音を立てた。

 その小さな音が、やけに大きく聞こえるほどの静けさだった。


「どうしよう…………か?」


 ぽつりとこぼれた声は、空気に溶けて消える。

 そして、視線の先に———。


「───ミィ?」


 澄んだ声が返ってきた。

 小屋の中央、淡い光に包まれた水槽のような空間の中。

 そこに浮かぶのは、半透明の身体をもつ小さな生き物、ニアだった。


 静かに瞬くその姿を見つめながら、ミコトの胸に蘇る。


 今朝───所長室で告げられた“あの言葉”が。



          * * *



「────ミコト・クラマ」


「………………はい」


「本日付を持って、スカイ・ファーム雑用係の任を解く」


 所長の言葉は、あまりにも穏やかだった。

 だがその瞬間、ミコトの脳裏は真っ白になった。

 木の顔をした所長は、いつものように優しく微笑んでいる。


 けれど、彼女の耳には“解雇”という言葉だけが残響のように鳴り響いていた。


「…………………」


「あれ、ミコト君?」


 所長の枝のような手が、心配そうに伸びる。


「───ままで」


「えっ、なに?」


「今まで、お世話に───なりましたぁ!」


 立ち上がる勢いでミコトは涙をこぼしながら所長室を飛び出す。


 清掃中に呼び出されたと思ったら、突如突きつけられた通告。

 目尻に涙、手には雑巾。

 スカートの裾がひらひらと舞い、悲鳴のような声が廊下中に響いた。


「ミ、ミコト君!?どこへ行くの!?」


 所長の枝のような手は、空を切るだけだった。


「あれ?ミコト?」

「どうしたんだ、そんなに急いで」

「あれ?泣いてる?」


 廊下を駆け抜ける彼女の背を、職員たちが慌てて声をかける。


 視線も、声も、ミコトには届かない。

 彼女は一直線に中央棟の外へ駆け抜け、飛空艇へと飛び乗った。


「ほっといてください!私なんて………私なんてええええっ!!」


 風を切って飛空艇が浮かび上がる。

 その反動で、ミコトの足がわずかに滑った。


「───────あっ」


 その一言が最後だった。

 重力が彼女を引き寄せる。

 悲鳴も出ないまま、ミコトの体は空へと投げ出された。


「おおい!ミコトがスカイ・ファームから落ちたぞ!?」

「やばい!誰か!受け止めろ!!!」


 その中に混じって、ひときわ甲高い声が飛んだ。


『飛べ!バジル!』

「よっしゃあああああ!」


 どこからともなく響いたリゼの号令と同時に、バジルの巨体が跳ねた。


 重力すらねじ伏せるような跳躍───落下するミコトの小さな体めがけて飛び出し、見事な抱擁を決める。


 そう───。

 本日もスカイ・ファームは平和だった。



          * * *



「ミコト君………話は最後まで、マジで聞こうね?」


「はい………すみません」


 そして再び所長室。


 床には倒れたままの椅子、散乱した書類、そしてミコト。

 バジルにキャッチされた直後のまま、ぐしゃぐしゃの髪でしょんぼり座っていた。

 所長は深いため息をつき、木の枝の手で優しく頭髪を整える。


「まったく………心臓に悪いよ、君は」

「………すみません」


 ミコトは両手で膝を抱え、小さな声で謝る。


「え〜それでは………」


 所長は、わざとらしく咳払いを一つ。場の空気を整える。

 その声にミコトはビクリと背筋を伸ばし、スカートの裾をつまみ上げて姿勢を正した。


「ミコト・クラマ。本日付をもって、君を正式にスカイ・ファーム“育成班”に配属する」


「え?あっ!えぇ!?は、はうい!」


 その言葉にミコトは反射的に噛んでしまい、顔を真っ赤にする。


「育成班への配属?なら………わ、私は、グレン班長の正式な部下に………?」


「そのあたりの詳細は、グレン君頼むよ?」


「───承知しました」


 横で静かに見守っていたグレンが、穏やかに頷いた。


「早速ですが育成班として、貴方へ与える業務を説明します。」


「はい………?え?あっはい!」


 その声と同時に、空間投影のスクリーンが展開された。


 映し出されたのは、青空の中にぽつりと浮かぶ小島。


 畑ひとつ分ほどの広さで、中央には小さな小屋が建っている。


「スカイ・ファーム周辺に多数ある“無人の浮島”の中から、比較的に中央棟へ近い島を一つ選出し、新たに生態隔離観察島《アイソレーション・リーフ》として設立しました」


 ミコトは食い入るように画面を見つめた。

 どこか静かで、穏やかで、まるで“空に浮かぶ秘密の庭”のようだった。


「この島を『観察区』と呼称し、貴方はそこで《《住み込み》》で働いてもらいます」


「え?……住み込み?」

「ご覧の通り、既に住居は建築済みです」

「住居ッ!?え………でも私には寮が───」

「既にワーピクシー達が転居作業中です」

「えええええ!?」


 ミコトの叫びが、またもやスカイ・ファーム全体に響き渡った。



          * * *



 その頃、住居区の一角、職員宿舎のミコトの部屋。

 ドアの隙間から、妖精達が、ぞろぞろと出入りしていた。


『ワッセ!ワッセ!』

『早ク運ブンダ!』

『ベッド重イイイ!』

『ア、ミコトノ秘密ノ箱発見!』

『開ケチャ、イケナイヤツダ!!』

『ナラ開ケロ〜!』

『開ケロ!開ケロ〜〜!』


 毛布は宙を舞い、靴下が飛び交い、

 書きかけのレポートが紙吹雪のように散る。

 朝日が差し込む中、ワーピクシーたちは満足げに騒ぎながら群がっていた。



          * * *



「───なのでこの後、貴方もすぐに自室に戻り自分のパーソナルな私物の移動を済ませてください」


「ちょ、ちょ、ちょ、待ってください!情報が多すぎで整理が追いつかな───」


「では本題に入ります」


「グレン班長!?私何かやりましたか!?」


 ミコトの声は、やはりどこにも届かない。


「思い当たる節しかありません!どれですかぁ〜〜!?」


 グレンは眉ひとつ動かさず、書類の束を整え、一枚の辞令を彼女の前に差し出した。


「ミコト・クラマ。貴方には《レガシー・ギフト》の観察および調査を任せます」


「レガシー・ギフト……?それって───」


 グレンが静かに顎をしゃくると、透明な鞄のようなケースを運び入れた。


 小さな台車の上に、中では淡い光をまとった小さな影が、ユラユラと揺れている。


「ニア!?」


「ミィ〜!」


 ミコトの声に反応して、ケースの中の小さな龍が跳ねる。

 それは、アンジュが旅立ちの折に託していった“龍の子”だった。


 目が合った瞬間、ニアは嬉しそうにケースの内側に顔をすり寄せる。

 その無邪気な仕草に、ミコトの口元がふわりと緩む。


 その様子を見ていたグレンは、ほんの一瞬だけ眼鏡の奥の表情を和らげたが、すぐに咳払いをして、淡々と説明に戻った。


「貴方には、このレガシー・ギフトの飼育および調査を任せます」


「───え?私が?」


 グレンは頷き、静かな口調で続けた。


「この龍は種こそ仮定はしているものの、その存在が確認されていたのは超古代時代の話。文献にも僅かな伝承以外、生物としてのほとんどの情報がわかっていません」


 ミコトはニアを見つめた。

 半透明の体の奥で、脈打つ光がゆっくりと明滅している。


「唯一分かっているのが、他者の生気を吸収し、生を繋げているということ」


 その一言に、ミコトの瞳が揺れた。


「スカイ・ファームで管理するにしても、牧場内で過ごす他の種の生気を吸われてしまっては大変危険で────」


「そんなことはありません!!」


 ミコトの声が鋭く空気を裂いた。

 グレンは言葉を止め、わずかに目を見開く。


「わかっています。しかし、スカイ・ファームは組織です。感情だけで動くわけにはいきません。適切な段階で危険性を緩和させ、《《順化》》をさせる必要がある」


 その声には、冷静さと優しさが同居していた。

 ミコトは唇を尖らせ、頬を膨らませながらも、視線を逸らさない。


 そんな二人を見て、所長は「愛があるねぇ」と小声で呟き、静かに一歩引いた。


「そこで、この個体を人道的に“隔離”するため、新設された観察島に移送し、単独での管理を行ってもらいます」


 その言葉を聞いた瞬間、

 ミコトの脳裏に、あの日の記憶がよみがえる。


 その言葉を聞いた瞬間、ミコトの脳裏に、あの日の記憶がよみがえった。


 ───ニアが孵った日のこと。


 あの時も、同じ言葉を聞いた。

 “隔離”という、冷たく響く音。


 孵化したばかりの小さな龍を抱え、必死に訴えた自分。


 “この子を隔離するなら、私も一緒に隔離してください!”


 あの時の決意が、今も胸の奥で息づいている。


 あの日交わしたその約束が、今も胸の奥で息づいている。


 ─────ということを思い出し。


「…………あ」


 頼りなく、間の抜けたように漏れる。


「どうやら、思い出したみたいですね」


 グレンが淡々と告げた。

 その表情は相変わらず穏やかだが、どこか呆れの色が混じっている。


「てっきり自身でこの担当を志願してくると思ってましたが」


「す、すいませんここ最近の出来事がとっても………劇的だったので」


「まったく、全ては貴方に合わせて用意したというのに」


 その小さなつぶやきは、ミコトの耳には届かぬ様に放たれた。

 当の本人は両手で頬をペチペチ叩き、気合を入れ直している。


「ではミコト君、改めて───」


 所長が穏やかな笑みを浮かべ、告げる。


「君を育成班として、ニア………レガシー・ギフトの“観察兼、飼養管理担当”に任命する。この子がスカイ・ファームに順化できるように、頼むね!」


「わ、わかりました!頑張ります!」


 ミコトの声は少し裏返りながらも、確かな決意に満ちていた。



          * * *



 あれよあれよという間に、ミコトの引っ越し作業は嵐のように完了していた。


 ワーピクシーたちが運び込んだ工具や機材、そしてミコトの私物は、ほぼ全部が小屋に詰め込まれている。


「とにかく…………よろしくね!ニア」

「ミィ〜」


 こうして、ミコトとニアの共同生活が始まった。


 新しい観察小屋は、思っていたよりも広い。

 小さな家族が暮らせるほどの間取りで、外観こそ質素だが内部はしっかりとした造り。


 机の上には化学班──主にリゼから支給された観測装置や測定機、そして“リゼらしい”と言わんばかりの、やたら細かく書かれた説明書の山が積み上がっていた。


 そこに、ワーピクシーたちが運んできた家具や私物が無秩序に混ざり合い、

 部屋の中は見事な混沌を呈している。


「とりあえず、グレン班長から貰った資料を───」


 机の上から一冊を取り上げる。

 表紙には硬い字でこう書かれていた。



 《スカイ・ファーム新種受け入れ手順書》


第1項【基礎生態解析】

◆行動観察

・餌反応・音声・体温・知性レベルなどを24時間監視。

・言語理解・感情反応が確認された場合、知性体扱いとして報告。

◆相関分類

・科学班が既知召喚種との遺伝的/魔力的系統樹を作成。

・類似個体が過去に召喚・転送された履歴があるかを照合。

・系統が完全に不明な場合は「異界由来種」として暫定保護対象に指定。


第2項【飼育環境再現・馴致過程】

◆環境同期試験

・対象の適応力に応じて魔石・感情素・幻光体などを用意する。

・魔素濃度・温度・湿度・光量を段階的に調整し、安定値を探る。


◆餌付け試験

・対象が摂取するエネルギー源を特定。

・摂食反応と代謝効率を測定。

・毒性・寄生性の有無を慎重に確認。


第3項【魔素検疫・安全確認】

◆隔離施設搬入

・対象を隔離施設へ収容。

・通常よりも濃度の低い魔素環境で安定化を図る。

・魔力暴走・形態崩壊の兆候があれば、即座に訓練班班長に連絡。

・魔力・生体反応測定。

・魂波長・魔素同調率・共鳴域を測定。

・生体組成が有機的である場合、科学班が遺伝式コードを採取。

・無機的・霊体的存在の場合は魂核データを記録。


第4項【召喚適正調査】

◆召喚士とのコミュニケーション適正試験

・対象生物が指示・声・魔力指令に応答するかを確認。

・反応速度・理解度・情動変化を記録し、意思疎通率を算出。

・応答拒否や命令無視が顕著な場合、精神干渉班による再調整を実施。

・命令実行時に自発的判断を示す個体は、知性体区分への再審査を行う。

◆転送経路の確認

・転送士による分解式を確認し、召喚先へのプロセスを特定。

・未登録ルートまたは異常干渉が検出された場合、科学班へ即時報告。

・転送記録および魔力残渣データを中央保管庫に登録。


第5項【学術登録・正式命名】

◆命名手続き

・スカイ・ファーム全班長による合同会議を開催。

・所長の承認後、スカイ・ファーム内のアーカイブスに正式登録され、国際共通名称として認定される。


第6項【育成地区の判別・運用段階】

◆安定期観察

・上記事項で作成されたデータから適応域の推定を行う。

・生体が安定した後、平原区/樹海区/海洋区/寒冷区のいずれかに試験移送。

・3日以内に異常がなければ、飼育班へ引き継ぎ。

・魔力過剰・消滅傾向があれば即座に保護。再調査とする。

◆公開可否審査

・一般公開は繁殖個体が確認されるまで禁止。

・公開時は「教育展示」扱いとし、“未知との共存”をテーマに広報を行う。


第7章 記録・保全・後続調査

◆データ保存

・生体情報を「召喚獣データベース」に登録。

◆継続観測

・成長速度・進化傾向・融合反応を定期的に評価。

・不死身種・転生型種の場合は永続観察指定を付与。

◆スカイ・ファーム指定召喚士へ共有

・全項目で作成された資料を各召喚士へ告知。

・またスカイ・ファームへの帰還方法として化学班作成の帰還備品の提供を実施。


          * * *


「────よしッ!」


 ミコトは勢いよく顔を上げ、資料の束を両手で握りしめた。

 その目は燃えている。わずか数秒で「新種受け入れ手順書」を読み切ったのだ。


(完璧………全部覚えた!)


 彼女の脳裏には、グレンの地獄の座学訓練が蘇っていた。


 一年間の修行で開花された“暗記力”

 それは確かに成長の証ではあるが——─。


 部屋の隅では、ニアが丸くなりながら尻尾をぱたぱたと振っている。ミコトはそんな相棒を見つめて、勢いのままに言い放った。


「あくまで参考程度にと言われたし、私たちなりにやってみようか!」


 暗記と理解というのは、また別の問題なのであった。


「ミィ〜」


 小さく首を傾げるニア。

 その純粋な反応を“賛成”と受け取ったミコトは、満足げにうなずいた。


「とりあえず、まずはニアのご飯だよね!」


 ミコトは支給された機材の山をひっくり返し、取扱説明書の束から目的のものを探した。


 やがて手に取ったのは、哺乳瓶のような形状にライトを合体させた奇妙な装置。


 付属のメモには、リゼの丸い文字が並んでいた。


 “この装置はイデア・コアから回廊帯を抽出して、アンジュちゃんから生気を吸い取った時に似たエネルギーへと変換し、少しずつニアちゃんに与えることができるんだ!ご飯の時間以外は充填器にセットしておけば自然にチャージされるよ!根本のダイヤルで出力を調整できるから、いい感じにバランスとってね!

──—リゼより♡”


 ほぼ手紙のような説明書をよんだミコトは早速、手元にとる


「ええっと、ここをこうして────」


 ダイヤルをひねると、先端にふわりと淡い光が灯った。そのままミコトはニアをそっと抱き上げ、乳児にミルクを与えるように光を近づける。


「ニア、どう?いける?」

「……………………」


 一瞬の沈黙のあと、ニアの体がふるりと震える。

 そして、半透明の体内へ光が吸い込まれていく。


「ミッミッミッミッ」


 口のない幼体の“口元と思われる部分”から、まるで呼吸のようにリズムを刻みながら、光が穏やかに取り込まれていく。


「よかった!上手く行ったわ!」


 ミコトは胸の奥から安堵の息を吐いた。

 生きるものとして、生気を安全に与えられる環境を作れたことが、何よりも嬉しかった。


「リゼさん………ありがとうございます」


 思わず装置を両手で包み込み、感謝の言葉をつぶやく。


          * * *



「───ッはううぅう!?」


 計器の光に照らされながら、リゼは椅子に深くもたれ、試験管を片手にぼんやりしていたが、突然、胸を押さえて身をよじる。


「なんだ!唐突に愛おしい感情が!?なんか、なんでもいいから抱きしめたい!!」



          * * *



 ふと力が抜け、緊張の糸がゆるむ。

 彼女は小屋の中を見渡した。生活必需品はすべて揃いすら程に揃っており、壁には観測機材、棚には試薬、床には寝具と書籍の山。


 外に出ると、風が頬を撫でた。

 観察区の周辺は、まだ開拓途中の自然が残り、草木がやわらかく揺れている。

 一角には浅い池があり、水面が金色に光を返していた。


 遠くには中央棟と、大樹《シャーマン・デボン》のイデア・コアが見える。


 一人と一匹が暮らすには広すぎるほどの場所。

 けれどその広さが、どこか自由で、少しだけ誇らしく感じられた。



「───育成班」


 その言葉を胸の中でそっと繰り返す。

 この一年、雑用係として過ごした日々。

 雑務と格闘し、自主練に明け暮れ、失敗しては落ち込んだ。


 ようやく、自分の力で誰かを支えられる場所に立てたのだ。


「よ〜し!頑張るぞ!!」


 気合とともに小屋の中へ戻る。

 だが、室内を見渡すと、ニアの姿が見当たらない。


「あれ?ニア、どこに行ったの!?」


 机の下、ベッドの影、棚の裏。

 どこを探しても、透明な身体の小さな竜は見つからなかった。 


「ニア………ニア!」


 慌てて外に飛び出すミコト、すると───。


「ミィ〜ミィ〜〜♪」


 涼やかな鳴き声が風に乗って届く。

 見ると、ニアは外のため池でぷかぷかと浮かび、尻尾で波紋を作っていた。


「な、なんだぁ………もう………」


 力が抜け、ミコトはその場にへなへなと座り込む。

 冷たい地面が安心感を与えるほどに、心臓がまだバクバクしている。


(私が………しっかりしないと!)


 ぎゅっと拳を握り、気を取り直す。


「ニア!ちょっとおいで!」

「ミ?」


 きょとんとした顔のまま近づいてくるニア。

 その様子に少し笑いながら、ミコトは小屋の中へと戻った。

 正座するミコトと、ちょこんと向かい合うニア。


「いい?これから私たちはここで暮らすの」

「ミィ」


「でものんびり暮らすって訳じゃないのよ?」

「ミィ」


「貴方が安全だってことを証明して、正式にスカイ・ファームに認められる必要があるの」

「ミィ」


「だから貴方のことを、たくさんたくさん調べなきゃいけないし」

「ミィ」


「教えて欲しいこともあるし」

「ミィ」


「教えなきゃいけないことがいっぱいあるの!」

「ミィ」


「だから、その、あの………えーっと」


 ニアはただ尻尾を揺らすばかりで、話を理解しているかは怪しい。

 それでもミコトは懸命に言葉を重ねる。


「とっ、とにかく!いっしょに頑張ろうね!」

「ミィ〜!」


 両手をぎゅっと握りしめ、頼りにならない鼓舞を送るミコト。

 次の瞬間、机の上に置かれた分厚いノートを手に取る。


 育成班としての初仕事。


 (グレン班長への初報告を、立派に果たしてみせる!!)


 それでも彼女の胸の中には、確かな熱が宿っていた。



          * * *


 ───数日後。


「はぁあああ〜〜〜」


 机に突っ伏し、ミコトは深くため息をついた。

 開いたノートはほぼ真っ白。

 ページの隅には、小さな丸文字で書かれた三行だけ。


・よく食べる。

・よく遊ぶ。

・よく寝る。


 その横には、デフォルメ気味に描かれたニアのスケッチ。


 ───どう見ても落書きだった。


「うう………これじゃ観察記録というより、絵日記だよ………」


 ぼやきながらペンを転がす。

 ミコトの進捗は、ほとんど振り出しのままだった。


 ニアはミコトに懐いてはいる。

 だが、それは主従でも研究対象でもなく、まるで友達のような距離感だった。


 食事のときは素直に回廊帯を吸ってくれるが、少しでも目を離すと、池で泳ぎ、木に登り、しまいには島の縁で日向ぼっこをしている。


 そのたびに駆け回るミコト。

 日中は世話に追われ、夜は生物学の勉強に没頭する。

 目の下の隈は日増しに濃くなっていった。


(どうしよう………観察するってことが、こんなに難しいなんて)


「せめて………何かとっかかりが見付かればなぁ〜」


 チラ、と視線を横にやる。

 そこではニアが、気持ちよさそうに寝息を立てていた。


(まだ子供だもんね………)


 ミコトは微笑みつつも、どこか寂しげに息を吐く。

 自分の性格が、強く押せないことも、無理を言えないことも、よくわかっている。


 その優しさが、かえってニアを自由にしすぎている。


(私に、アンジュちゃんみたいな行動力があったら)


 ミコトは左手に光る指輪へ視線を落とす。

 それはアンジュと交わした“絆”の証。

 通信の魔術を通せば、今すぐにでも彼女に話を聞いてもらえる。


(ダメダメ!アンジュちゃんに余計な心配はかけられない!)


 頭をぶんぶんと振り、頬を軽く叩く。

 その拍子に、机の上のペン立てがカタンと音を立てた。


 ミコトは深呼吸をして、もう一度ノートを開いた。

 けれど、白いページは相変わらず彼女を見返すばかりだった。


 沈黙の中、もうひとつの不安が胸の奥をかすめる。


 中央棟から―――いや、グレンからの連絡は一通もない。


 “あの事件”の日以来、グレンから転送士の修行について一言も話がなかったのだ。


 忘れられているとは思わない。

 けれど、何か理由があるのではないかという不安が、静かに心を侵食していく。


「まさか………ここに配属されたのって、厄介払い?」


 ぽつりと漏れた呟きは、思いのほか重たく響いた。


 途端に───この島が監獄のように思えてくる。


 外の風の音さえ、まるで遠い世界のざわめきのようだった。


 それでも、目の前のニアだけは手放せなかった。

 転送士としての夢と、目の前の命を守りたい想い。


 ふたつの気持ちがせめぎ合い、思考はぐるぐると混乱していく。


「あれ?私は転送士になるためにここに来て、そのためにこの牧場の仕事を頑張ってて、この子の観察も転送士になるための………?あれ?」


 言葉にするほど、糸がもつれる。

 やがて思考は途切れ、ミコトは布団へもぐり込んだ。


(だめ………こんなこと考えちゃダメ!)


 枕を抱きしめ、ぎゅっと目を閉じる。


 そうして眠りについた彼女の頬には、乾ききらない涙が光っていた。



          * * *



 夜が更け、静けさが島を包む。

 ため池の水面が月を映し、虫たちの鳴き声が遠くでこだまする。


「ミィィイ〜〜〜」


 日中ぐっすり眠っていたニアが、のそのそと起き上がった。

 お腹のあたりから「グゥゥ〜〜」と音が鳴る。

 キョロキョロと辺りを見回し、ベッドの上で眠るミコトに近づいた。


「ミッ?」


 ミコトは、涙の跡を残したまま穏やかに眠っていた。

 その姿を見て、ニアは首をかしげる。

 ―――なんとなく、起こしてはいけない気がした。


 ニアは部屋の隅をうろうろと歩き回り、やがて見覚えのある装置を見つける。


 あの“ごはんマシン”だった。


「ミィイイイイ」


 小さな手でダイヤルをつまみ、カチカチと回す。

 けれど力加減を知らないニアは、うっかりメモリを“最大”にしてしまった。


「ミィ〜〜〜〜〜〜♪」


 次の瞬間、眩い光が放たれ、回廊帯のエネルギーが一気に放出された。


 ニアは歓喜の鳴き声を上げながらそれを吸収する。

 身体が淡く輝き、浮かび上がった。


「ミッミミィ〜〜〜!?」


 あふれ出る力に、喜びを隠せない。

 戦闘体制ではないため巨大化はしなかったが、身体中が活性化しているのが分かる。


「ミィ!」


 ニアは勢いよく跳ねた。

 開け放たれた窓から夜風が吹き込み、カーテンが揺れる。


 小さな龍の子は、空へ───。

 満月の光の中、きらきらと尾を引きながら、小島を飛び立っていった。



          * * *


 ───翌朝。

 眩しい朝陽が差し込む小屋の中に、甲高い悲鳴が響いた。


「ニア!ニアァ!!!」


 ミコトは顔面蒼白で島中を駆け回っていた。

 ため池、木の上、裏の小屋の影───どこにもニアの姿はない。


「そんな………どこ行っちゃったの………?」


 風に揺れる草木の音が、やけに遠く聞こえる。

 昨日までの静かな空間が、今はやけに広く、冷たく感じた。


「ま、まさか………ここから落ちたの………?」


 小島の周囲には、落下防止用の高い柵が巡らされている。


 飛び跳ねた程度で越えられる高さではない。

 けれど、想像した瞬間、喉の奥がきゅっと締め付けられた。

 そのとき───ふと視界の隅に違和感が走る。


「………あれ?」


 机の上、ごはんマシンが置かれた台。

 装置の先端が焦げたように黒ずみ、ダイヤルは“最大”のまま止まっていた。


「まさか………これ………?」


 ミコトは震える手で機械を持ち上げた。

 内部には、空っぽになったエネルギータンク。

 軽く振ると、カラカラと乾いた音だけが返ってくる。


「ニア………自分で、使ったの………?」


 ───息を呑む。

 全身が冷たくなる。


 ニアが回廊帯を摂取してはいけない量を吸い上げた可能性がある。

 その上でどこかへ行ってしまったとしたら───。


 ミコトはニアがサカキと対峙してた日を思い出す。

 ニアの、あの破壊力を────。


「だ、だめ………早く探さなきゃ………!」


 ミコトは慌てて無線機に飛びついた。

 スイッチを押す指が震えている。


「リゼさん!応答お願いします!リゼさんっ!!」


 数秒のノイズのあと、明るい声が返ってくる。


『はいは〜い!おはようミコト!ニアと仲良くやってる〜?』


 その気楽な声に、ミコトの焦りが爆発する。


「リゼさん!ニアが、ニアが!!」

『ど、どうしたの?落ち着いて!何があった?』

「それが………朝起きたらいなくなっちゃって!ごはんマシンが空になってて!」

『………わかった!!落ち着いてちょっと待って』


 受話器の向こうでリゼがミコトを落ち着かせる。


『万が一の為にスカイ・ファームのすべての生き物には特殊な“マーキング”をしてあるんだ、もちろんニアにもね───今、探すから!』


 パネルを操作する音が続く。

 短い沈黙、だがミコトには無限にも感じた。


『………見つけた!けど、これは………樹海区?』

「樹海区!?」


 ミコトの背筋が凍りついた。

 樹海区、スカイ・ファームでも最も危険な場所。

 獰猛なモンスターが群れを成し、職員ですら単独での侵入を避ける区域。


『まずいね………すぐに訓練班を向かわせる!ミコトはそこから動かないで!いいね!?』


 だが、その呼びかけに返事はなかった。


『ミコト?おーい、ミコト!?』


 通信の向こうで、リゼの焦った声が響く。

 しかしミコトはもう、受話器を離していた。


 彼女の体は反射的に動いていた。


 足で地を蹴り、小屋を飛び出す。

 飛空艇の操縦桿を握り、アクセルを開ける。


「お願い……お願いお願いお願いお願い……!!」


 繰り返す祈りとともに、飛空艇は空を切り裂いた。

 風が頬を叩き、目の奥が熱く滲む。


 ただ朝の青空の中に、白い航跡だけが伸びていった。



          * * *



 スカイ・ファーム樹海区―――。


 濃密な魔素と湿気が混じり、光は木々の上で遮られ、地上には昼なお暗い陰が広がっている。そこに棲むモンスターたちは、どれも凶暴で野性のまま。


 通常、この区域に立ち入ることを許されるのは、訓練班でも熟練者だけだった。


「ボアアアーーーー!!」


 その鬱蒼とした森の中を、地鳴りのような咆哮が駆け抜ける。


 樹木をなぎ倒し、地面をえぐるように突進する巨体───アックス・ボア。


 その名の通り、鼻先から両脇に伸びた斧のような牙は、あらゆるものを両断する。


 アックスボアは、何かを追っていた。

 怒りに満ちた瞳をぎらつかせ、地を蹴るたびに森が揺れる。


          * * *


【スカイ・ファーム個体記録】


《アックスボア》【哺乳種】猪型

体長:四メートル/肩高:百九十センチ

体重:三百キロ

生息地:スカイ・ファーム/樹海区

制御難度:クラスC

召喚獣適性:戦闘/突撃系


◆スカイ・ファーム樹海区の食物連鎖における中位種。

◆その名の由来は、頭部左右から伸びる二本の巨大な牙、斧の刃のように湾曲し、振るうたびに風圧で樹木を薙ぎ倒す。

◆通常は群れず、単独で縄張りを巡回する習性をもち、外敵と見なした対象には、容赦無く攻撃を行う。

◆毛皮は厚く、表層に微量の魔鉱質が含まれており、物理攻撃を軽減する性質を持つ。

◆訓練班の中でも特に経験豊富な者しか制御を許されず、「樹海区の門番」とも呼ばれる。


          * * *


 巨獣の前を、軽やかに舞う小さな影───ニアだった。


「ミィー♪」


 ニアはまるで遊び相手を見つけた子どものように、アックスボアの周りをくるくると飛び回っている。


 その動きはあまりにも速く、まるで森の中に光の尾が走っているようだった。


「ボァアアアアーー!!」


 アックスボアが大地を踏み鳴らす。

 その衝撃で土煙が上がり、衝撃波が周囲の木々を斬り倒していく。


 それでもニアはひらりと身をかわし、まるでそれを楽しむかのように跳ね回った。


「ミィーー!」


 怯えるどころか、笑っているような声をあげる。

 ニアにとって、これは“鬼ごっこ”。

 しかし相手は、れっきとした殺人級の魔獣だった。


「ボルァアアアアアアアーーーー!」


 標的を捉えられない怒りが、アックスボアの中で駆け巡る。


 次の瞬間、巨体が弾丸のように突進した。

 木々も岩も、地面ごと抉りながら一直線に。


 ニアは楽しげに逃げ続ける───だが、やがて行き止まりに当たった。


 目の前には、巨大な岩壁。

 進むことも、飛び上がることもできない。


「ミィー……」


 背後で、地鳴りが響く。

 振り返れば、アックスボアが鼻息を荒げながら迫っていた。牙の先からは、鋭い光が走る。


「ボルルルルル…………」


「ミ、ミィ〜〜〜」


 威圧の咆哮が森を震わせる。

 ニアは恐怖で体をすくませ、声も出せずにその場で固まった。


 次の瞬間、彼女の体が淡く輝き始める。

 それはアンジュの生気を吸収したときと同じ光。

 内側から力が湧き上がり、光が滲む。


 ────そこへ。


「ニアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」


 爆音とともに、森の天蓋を突き破って飛空艇が突っ込んできた。


 枝を薙ぎ倒し、地面を滑る。それは着地というより───墜落だった。


 衝撃で煙が立ちこめる中、ミコトが飛空艇から飛び出す。肩には擦り傷、息は荒い。


「ミィーーー!」


 助けが来たと思ったニアは、嬉しそうに声をあげる。

 だが次の瞬間、ミコトの叫びがそれを打ち砕いた。


「ニアッ!!貴方、何をしているの!!!!」

「───ッミッ!?」


 見たことのないミコトの叱責。

 その迫力に、ニアの体がびくりと跳ねる。


「貴方、いま生気を吸収しようとしたわよね!?そんなことしたら、どうなるかわかってるでしょう!?」


「ミ!ミ、ミィ?」


 たたみかけるような声。

 怒鳴られた経験などないニアは、混乱のあまり涙目になりながら後ずさった。


 だが、ミコトの背後に迫る影があった。

 怒りを頂点まで燃やしたアックスボアが、土を蹴り上げながら突進してくる。


「ボォルルルルルルルルルアアアア!!!」



 ───ミコトは静かに、息を吸った。


 その瞳が、ゆっくりと色を変えていく。

 黒い瞳の奥に、淡い光が差す。


 その瞳に宿したのは、夜明け前の森に差し込む“翡翠の色”。


 風が止まり、森が息をひそめる。

 アックスボアの足音さえ、ぴたりと止まった。


 ミコトの紫色の髪が、見えない風にそよぐ。

 周囲の空気が、柔らかな緑の粒子に包まれていた。


 アックスボアの前脚が、わずかに震える。

 その目が、ミコトの瞳を捉えた。

 濁っていた獣の視線に、ほんの一瞬、理性のような光が戻る。


 ミコトは、静かに言葉を放つ。


「───ごめんね、後にしてくれる?」


 その声音は不思議なほど穏やかで、

 怒りを吸い取るような温かさがあった。


 アックスボアの全身を覆っていた怒りが、ふっと消える。

 呼応するように周囲の木々の葉が揺れ、緑の粒子がゆらゆらと舞った。

 そして、あれほど凶暴だった獣はただ一歩、下がる。


「ボル……ルルル……」


 唸り声が低く、静かに森へ溶けていく。

 その背はゆっくりと森の奥へと消え、やがて完全に姿を消した。


 残されたのは、翡翠の光を宿した少女と、小さく震える龍の子だけ。


 ミコトはふっと息を吐いた。

 その瞳の色が、少しずつ元に戻っていく。


「………ありがとう」


 その言葉は、風と共に優しく森を撫でていった。

 そしてミコトはニアへと顔を向けて。


「ニア!周りを見なさい!」

「ミィ!!!」


 凛とした声が森に響く。

 その表情は、先ほどまでとはまるで違う、母親のような厳しさを帯びている。


 その様相に、ニアは思わず背筋を伸ばす。


「アックスボアも、周りの子達も、そして貴方も………怪我で済まなかったらどうするの?」


 ミコトの声は次第に震え始めていた。

 怒りというよりも、恐怖と安堵が混じったような震え。

 彼女自身が、どれほどニアを心配していたかが伝わってくる。


「貴方とアンジュちゃんが出会った時の話は聞いたわ………」


「“大きかった時”の貴方は、誰も傷つけたくなくて、悲しんで、迷ってたって………」


 ミコトは拳を握りしめたまま、目を閉じる。

 声の奥に、アンジュへの想いが滲んでいた。


「お願い………アンジュちゃんを悲しませないで」

「─────ミ、ミ」


 ニアの小さな瞳が潤む。

 その光景に、ミコトの表情もわずかに揺らいだ。


「こんなになるまで、気が付かないなんて………」


 俯いたまま呟いたミコトの声、続く叱責が来ると思ったニアは、身を縮める。


「───ごめんね」


「…………ミ?」


 唐突な謝罪に、ニアが顔を上げる。

 ミコトは地面に膝をつき、同じ目線まで降りてきていた。


「貴方の不満に気がついてあげられなかった。あの島でも貴方にとっては狭すぎたよね、私しかいなくて退屈だったよね………」


「ミ、ミィ」


 静かな声。ミコトは涙を堪えながらも、ひとつひとつ言葉を選ぶように話す。


「牧場《わたしたち》の都合で貴方を閉じ込めて………本当にごめんなさい」


 ミコトは震える手でニアをそっと抱き上げた。

 小さな体を胸に押し当て、両腕で包み込む。


「ミ………ミィイイイイイイイ!!」


 ニアの涙腺が決壊した。

 小さな体が震えながら、ミコトの胸に顔を埋めて泣きじゃくる。


 ミコトはその頭を優しく撫で、ただ静かに抱きしめ続けた。


 森の中には、もう怒号も咆哮もなかった。

 代わりに聞こえるのは、嗚咽と、それを包み込むような風の音だけ。


 少し離れた場所で、バジル率いる訓練班が遅れて到着した。


「バジルさん、どうします?介入を───」

「いや、必要ねぇ」


 バジルは無線を取り出し、短く報告する。


「あぁ、いま到着したが……解決したみたいだ」

『…………そうですか』


 受信機の向こうから、グレンの穏やかな声が返ってくる。バジルはふっと笑みをこぼした。


「引き上げるぞ」


 バジルの一言に、部下たちは頷いた。

 誰も声を上げず、誰も笑わず、ただ静かにその場を離れていく。


 朝霧がゆらりと立ちのぼり、葉擦れの音が優しく森を包み込む。


 その中心で───。


 一人と一匹が、ようやく心を通わせていた。



          * * *



 ────それから数日後。


 ニアはすっかりミコトに素直になり、今では小屋の中でのんびりと過ごすことが日課になっていた。


 違うのは、互いに“信頼”が芽生えたことだ。

 以前のような焦りや戸惑いはもうない。


 空いた時間があれば、ミコトは必ずニアと全力で遊んだ。ニアもまた、ミコトが帰ってくるまで小屋でおとなしく待つようになっていた。


 穏やかな日々。

 一人と一匹の共同生活は、ようやく“暮らし”と呼べるものになっていた。


「いただきます!」

「ミィ〜♪」


 朝の光が差し込む食卓。

 ミコトは焼き立てのパンを手に、ニアはごはんマシンの前に並んで“食事”をとっていた。


「今日は、育成班のお手伝いをしてくるの、少し遅くなるから大人しく待っててね」

「ミィ!」


 そんな他愛のないやり取りをしていると、小屋の扉が軽くノックされた。


「失礼します」

「グ、グ、グ──レン班長?」


 突然の来訪者に、ミコトはパンを喉に詰まらせそうになった。慌てて立ち上がり、姿勢を正す。


「邪魔でしたか?」

「そ、そんなことありません!」


 慌てて部屋を片付けようとしたが、既に整然としているため、結局ソワソワとその場で手をもじもじさせるだけ。グレンは一通り部屋を見渡し、頷く。


「先日───《《少々》》トラブルがあったみたいですね」


 視線がミコトへと向けられた。

 ミコトは思わず背筋を伸ばす。


「留守番程度はできるようになったみたいですね───意思の疎通は?」


「えぇと───」


 ミコトはおずおずとニアの前に立ち、手を差し出す。


「お手!」

「ミィ!」


 ポンッと、小さな尾がミコトの掌に乗る。


「こ、これぐらいなら───」


「結構」


 グレンは小さく笑い、眼鏡の位置を整えた。


「今日は伝達事項があります」

「えっ、はっはい!」


「貴方の修行におけるプロセスが完了したのでその報告に来ました」

「はい!…………え?」


「連絡が遅くなり申し訳ない。明日より修行を開始します、指定した時間に私の所へ来なさい。遅刻はしないように」


 それだけを言い残し、グレンは踵を返して小屋を出て行った。


「わ、わかりました───」


 扉が閉まる。

 ミコトはしばらくその場に立ち尽くしたまま動けなかった。

 ぽかんと口を開け、思考が追いつかない。


「……………や……た」

「ミ?」


 聞き取れなかったニアが首を傾げ、そっと近づく。


「や、やったーー!」


 爆発したようにミコトが跳ね上がった。

 嬉しさのあまり、両手を上げてその場でくるくる回る。


「ニア!お祝いしよう、いっぱい食べて!」

「ミ、ミィーーー!?」


 テンションのまま、ごはんマシンのダイヤルを思いきり回すミコト。


 ダイアルの位置は“最大”を更に超えた“サカキ”になっていた。


 機械がブウウウゥゥン!と激しく音を立てて過剰出力を始め、ニアが慌てて止めに入る。


「ミィ!ミィィィィーーー!!」

「わっ、ご、ごめんっ!つい!!」


 笑い声と光が、小屋いっぱいに溢れた。



          * * *



 ───同じ頃、中央棟・研究室。


 壁一面に設置された巨大なモニターが、淡く光を放っていた。

 リゼは白衣の袖をまくり上げ、膨大なデータと睨めっこしている。

 足元では複数の機器が低く唸り、ケーブルが床一面に這っていた。


「……さて、今日の分はっと」


 リゼは、スクリーンに映し出された映像に視線を移す。そこには、あの夜───訓練区でのニアの行動記録が映っていた。


 レガシー・ギフト。

 その正体を突き止めるため、リゼはここ数日間、休みも取らずに分析を続けていた。


 ───そこへ、先日とはまた異なる“助手”の声が響く。


『リゼ様、レガシー・ギフトのスキャニング結果ですわ』


「あぁ、それで………結論は?」


 リゼは眉をひそめ、データを拡大する。

 幾何学的な線が螺旋を描き、中央には何も存在しない空白―──。


『はい、グレン様の推論通りでしたわ』


 スクリーンが切り替わる。

 そこには───アンジュとサカキの模擬戦の際に介入したニアの映像と、先日“健康診断”の名目で行われた幼体ニアの内部スキャン結果が並んで表示される。


「そうか………」


 リゼの目が細く光る。

 画面の中、ニアの姿が静かに瞬きをした。


『レガシー・ギフトの内部は…………空洞でございます』




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