第17話 不死身の少女と初仕事
テントの布越しに、薄い朝日が差し込んだ。
光は柔らかくアンジュの頬を撫で、まだ夢の続きにいた彼女を現実へと引き戻す。
「ふぁあああ〜」
欠伸混じりの声が、静かな草原の空気に溶けていった。
アンジュは大きく背伸びをすると、寝袋の縫い目が鳴る。
眠気の残る目をこすりながら、ゆっくりとテントの外へ出る。
朝の風が頬を撫で、草の香りが鼻をくすぐった。
「あら?おはよう!アンジュちゃん」
「おはようフライヤさん」
テントの外では、フライヤが手際よく朝食の準備をしていた。
淡い魔力の光がまな板代わりの岩を照らし、彼女の金髪をきらめかせている。その眩しさに少しだけ目を細めながら、アンジュは水袋を抱えて洗顔に向かった。
すると背後の茂みが、バキバキと音を立てて揺れた。思わず振り返ると、木々を押し分けて巨大な影が現れる。
「起きたか、では朝食にしよう」
低く響く声とともに、サカキが姿を現した。
片手には、彼の巨体をも凌ぐほどの巨大な卵。
それを軽々と持ち上げると、ブゥンと放り投げた。
宙を舞う卵を見て、すかさずコマが双剣を抜く。
すると音もなく、卵が真っ二つに割れた。
ドロリとした内容物が溢れ出した瞬間、フライヤが魔法でそれをすくい上げ、淡い光の膜で包み込む。
「はいは〜い、いい感じ〜♪」
杖が軽くしなり、空中に小さな雷光がいくつも灯る。
卵の中身が、そのまま魔法で宙で回転しながら混ざり合い、静かに岩の上に着地し、電熱で熱され、香ばしい音を立て始めた。
アンジュはその光景をちらりと見て、特に驚くでもなく顔を洗い続ける。
常人にとっては異様な光景でも、アンジュにとっては、もはや慣れ始めた“日常”だった。
周囲に、湯気と香りが漂い始めた頃、サカキとコマが無言で出来上がった料理に食らいつく。フライヤはその隣で、いつものように上品にフォークを構えた。
朝の空は高く澄み、アンジュの新しい旅路は、今日も豪快で賑やかに始まった───のだが。
「はあああぁ〜………」
唐突に深いため息が、湯気の立つスープの香りを切り裂いた。
その様子に気ついたサカキの低い声が響く。
「どうしたアンジュ?食わないと力が入らんぞ?」
「ん?んぅ………」
だが返ってきたのは、アンジュの曖昧な相槌だけ。
匙を手にしたまま、彼女の視線はどこか遠くの空を漂っていた。
アンジュが、モンスター・パニック・サービスの一員となって数週間。
朝が来て、依頼をこなし、夜にテントを張る。
そんな単調な日々が続いていた。
———だがアンジュ自身は、何もしていない。
正しくは、何もできず、いつも一歩後ろからついていくだけだった。
敵が現れれば、サカキとコマが一瞬で片付ける。
フライヤは鮮やかな魔法でサポートを完結させる。
(たただた、後ろからついて回る日々………これって)
火の鳥を探す旅のはずなのに、目標への進捗も成果も、何一つ変わってはいなかった。
(限りなく………停滞?)
焦燥が胸の底で渦巻く。
誰も自分を責めない優しさが、かえって息苦しい。
「もう無理………限界」
唐突に呟いたのは、フライヤだった。
彼女は眉間に皺を寄せ、深刻そうにうなずく。
「朝から酒の話か?」
サカキが首を傾げる。その瞬間、フライヤの目がギラリと光った。
「そう………もう限界なの………今の私に足りないのは魔力でも魅力でもなく酒力!!!」
声に力がこもる。まるで自分の生存理由を宣言するかのように。
「嗚呼、何を通しても満たされないこの孤独な食道を、ゴキンゴキンに冷やしたビールで甘美なパレードを…………って違うわ!!!」
自分で乗りに乗った末に、自分で否定して怒鳴る。
「バギーよ!バギー!!!」
「ばぎー?」
アンジュがぽかんと聞き返す。だがフライヤの怒りは止まらない。
「いい加減!毎回毎回サカキの無茶なジャンプで国を渡るなんて不条理だわ!」
「私がそんな簡単に撃ち落とされるわけが───」
「だれがそんな心配してるのよ!!!」
テンポよく繰り広げられる言葉の応酬に、朝食の湯気が立ち昇る。その中で、コマが珍しく口を開いた。
「大将………やめておけ」
呆れ半分、諦め半分の声。
だがこの一言が、フライヤの熱量をさらに上昇させる。
「もうこれ以上、テントでの寝泊まりは………うんざりよ!!」
フライヤは髪をかき上げ、まるで悲劇のヒロインのように嘆いた。
「ねぇフライヤさん、バギーって何?」
アンジュは目をぱちぱちと瞬かせ、少し遅れて問いかける。
「アンジュちゃんがウチに来る前に、私たちが旅に使っていた住居兼、移動手段に使っていた乗り物があったんだけど………」
フライヤは両肘をテーブル代わりの木箱に乗せ、遠い記憶を懐かしむように目を細めた。
その仕草はまるで、過ぎ去りし恋を語る乙女───のようだった。
「《《コイツ》》が派手に壊しちゃってね」
フライヤの言葉と親指がコマへと突き刺さる。その瞬間、コマの片眉がピクリと上がった。
「あれに関しては俺は悪くな───」
「んん?なにか───」
「言ってないです」
朝の冷たい風よりも早く、コマの主張は飲み込まれた。彼の視線は皿の上の卵料理に固定され、二度と上がらない。
「そうだな、そろそろ本格的にバギーを回収しなくてはな」
黙って話を聞いていたサカキが、淡々と口を開いた。理屈の鬼とも言える彼にしては珍しく、フライヤの主張に頷いている。
「でしょ!?ガストンのジジイもこの前連絡したら『支払うモノを支払わないとワシャやる気が起きんのじゃ〜。これ以上支払いが遅れるなら、主らのバギーを解体して部品を売ってしまいそうなのじゃ〜い』って言ってたわ」
フライヤは顔中の筋肉を総動員して、その“ガストンのジジイ”なる人物の声色を真似た。
その口調に、サカキは眉間を押さえ、深い溜息を漏らした。
「あんのジジイ、腕は確かだからって足元見やがって………」
フライヤは物真似したままの顔で怒りを燃やし、そのままタバコを咥える。火をつける杖の先端は、まるで銃口のように震えていた。
「………フライヤさん怖い」
アンジュは思わず距離を取る。サカキとコマは、もう慣れたのか無言で食器を片付け始めた。
「だから!ささっと修理費用回収して、日常と利便を取り戻さなきゃならいの!!」
拳を握りしめて、フライヤは空に向かって高らかに叫ぶ。その情熱が煙草の煙ごと青空に昇っていった。
「そのバギー?それの修理費用って………どれくらいなの?」
おそるおそる尋ねるアンジュに、フライヤは無言で一枚の紙を突き出す。
それはバギー修理請求書。そこに記された桁数を見た瞬間、アンジュは「ピエッ!」と雛鳥のような声を漏らし、息を呑んだ。
「───私の回復する臓器を、大量に販売するってのは?」
「アンジュちゃん………ちょっとビークワで」
恐る恐る放ったアンジュの言葉に、フライヤは吸っていたタバコを逆手に持ち替えたまま、低い声で却下した。
「でも確かに一発、でかいヤマをこなしたいのは確かなのよね〜」
フライヤは肩をすくめながら、懐から小さな紙束を取り出す。
それは縮小魔法で折りたたまれた依頼書の束だった。指先の魔力で軽く叩くと、紙束がふわりと膨らみ、原寸大の山となって地面に落ちる。
サカキが腕を組み、コマが小さく溜息をつく。
アンジュもその輪に加わり、紙の山を囲んだ。
風がひと吹き、数枚の依頼書が舞い上がる。
その中の一枚が、アンジュの足元に落ちた。
彼女はしゃがみ込み、静かにそれを拾い上げる。
「ねぇ?《《これ》》は?ここから近いよね?歩いていける距離だよ」
何気なく顔を上げ、依頼書を皆へ差し出す。
その瞬間、三人の顔が、同時に強張った。
「絶対に───」
「ダメよ───」
「死ね」
「死ねって言った!?」
最後のコマの一言に、アンジュの叫びが見事に朝の静寂をぶち壊した。
「この依頼は未だ明確な解決案が出ていない、故に我々の手にも余る」
サカキの低い声には、普段の冷静さに加えてほんのわずかな警戒が混じっていた。
彼が“手に余る”と言うことは、すなわち並大抵の災厄ではない。
「アンタ達でも手が出せないの!?」
アンジュの目が見開かれた。
彼女にとってモンスター・パニック・サービスとは“対生物最強の何でも屋”
そんな彼らが尻込みする依頼など、想像すらしていなかった。
「そういうことだ、とにかくこの案件はダメだ」
サカキが淡々と結論を下す。
フライヤもコマも、口を挟まず黙ってうなずいた。
重い沈黙が落ちる。だが、その沈黙の中で───。
アンジュの瞳だけが妙に輝きを増していた。
「ふぅ〜〜〜〜〜〜ん」
その長い息のあとに浮かんだのは、あまりにも静かな笑み。
まるで何かを思いついた子供が、次の悪戯の準備をしているような。
アンジュが何を考えているのか、誰も気づかない。
その日の彼らは、いつも通りの一日を過ごした。
そつなく依頼をこなし、笑い、食べ、夜を迎えた。
ただの、いつもの日常として───。
* * *
───さらに翌日。
小鳥の囀りと、遠くで鳴く草食獣の声。
彼らのキャンプ地は、いつも通りの平和な朝を迎えていた、だが───。
「起きろーーーーーーーーー!!」
テントが震えるほどのフライヤの絶叫が、平穏を粉々に打ち砕く。
「う〜んよせ………お前、娘の目の前でそんな………グフッ」
焚き火のそばで巨大な丸太を抱きしめ、頬を緩ませて寝ているサカキ。
その口元には、どこか幸せそうな笑みが浮かんでいた。
「元嫁の夢見てんじゃないわよ!!!」
フライヤの杖が一直線に飛び、サカキの頬をぐいっと突く。鈍い音と共に、丸太がごろりと転がった。
「んだよ………騒がしい」
頭をかきながら、コマが起き上がる。
まだ寝癖が跳ねており、目は半分も開いていない。
「アンジュちゃんがいないのよ!!」
フライヤが鼻息荒く叫んだ。
その言葉で、コマの眠気がさらに増していく。
「朗報だな」
軽口を叩いた次の瞬間———。
「しばき引きちぎるわよ?」
「しば………え?」
フライヤの杖が刀剣のように振り抜かれ、コマの頬を掠めた。
そのまま大地を割るかのような鋭さに、彼の背筋が凍る。
「尿意じゃねぇのか?」
「何言ってんのよ!?アンジュちゃんのおしっこ周期は完璧に把握してんだから!!」
「………悪かったから、もうやめてくれ」
コマは顔を覆って小声で呻いた。
フライヤの発言は、眠気を吹き飛ばすどころか倫理感までも削り取っていく。
「とにかくアンジュちゃんがいないのよ!!」
「…………拐われたのなら、我らが気づくな」
のそのそと起き上がったサカキが、眠たげな目で周囲を見回す。風の音、鳥の声、どこにも異変はない。
「それが問題なのよ!!もしあんた達の甲斐性のなさに嫌気がさして、去ったのとしたら。私………わだじいい!!」
フライヤはハンカチを取り出し、顔を押さえて号泣した。「オーイオイオイ!」と大袈裟に泣き叫びながら地面に崩れ落ちる。
「───ないな」
「ない」
即答。
サカキとコマの無慈悲な一言に、フライヤの泣き声がピタリと止まる。涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくり上げ、二人を見上げた。
しかしその瞳の奥には、烈火のごとき情熱が燃えていた。
「とにかくすぐに捜索よ!コマ君!!!」
「………なんだ」
鋭い指先がビシィ!と突きつけられる。
コマは嫌な汗をかきながら、そっぽを向いた。
「アンジュちゃんの匂い………追えるわよね?」
フライヤの顔がじりじりと近づく。
瞳孔は開いている、まるで尋問官のようだ。
「御免蒙る」
「拒否は求めてないわ!」
「拒否は求めるものじゃねえ!!」
焚き火の火がボンと跳ね、煙が空へ立ち昇る。
「コマ、頼む」
「………ッチィ」
サカキの静かな一言。短く、重い。その一声に、コマは小さく舌打ちをした。
肩をすくめ、彼は背を向け、目を閉じる。
彼の嗅覚が空気をかすめた瞬間、コマの眉がぴくりと動いた。
「あいつはアレに向かっている」
短い言葉とともに、後方を指差す。
その方角を見たサカキの表情が、一瞬で引き締まった。
「まさか………グツラドニウトを?」
焚き火の音がやけに大きく聞こえた。
さっきまでの賑やかさが嘘のように消え、風の音が重たく響く。その名を聞いた瞬間、フライヤの表情も凍りついた。
あの“禁忌の両性種”の名が空気そのものを濁らせたように。
* * *
《両生種調査依頼》
依頼番号:No.021依頼区分:調査
対象生物:グツラドニウト
確認区域:ゴウライ大陸/沼地帯
危険度:★★★★☆
依頼内容:近年、ゴウライ大陸の湿地帯にて確認されている大型両生種の異常行動について、原因の特定および生態調査を求む。
当個体群は従来の報告にない異常行動・同族捕食を確認。
複数の探検家が消息を絶ち、また、接触者の一部に幻覚・興奮・自傷行為などの異常行動が見受けられた。
備考:当区域は過去に複数の密猟者の侵入が確認されており、やはり異常行動による死亡例が見受けられる。精神耐性の低い者、もしくは単独行動は推奨されない。
◆スカイ・ファーム:化学班リゼによる直轄依頼。
本件は“調査依頼”に分類されるが、事実上の危険種対応任務と見なすこと。
◆報酬:金貨25枚(報告書・現地標本提出を条件とする)
◆発行:スカイ・ファーム:科学班
* * *
木々の合間から差し込む光が、彼女の髪を照らして揺らめいた。
「やってやる!!!」
一人きりの道を、朝日を背に、アンジュは拳を突き上げた。
その声は森の奥へと吸い込まれていく。
「このままだと、いつか見切りをつけられて、追い出されるかもしれない!」
腰にかけたポシェットから、ゴソゴソと一枚の紙を取り出す。
そこから覗くのは、フライヤのテントからこっそり拝借した依頼書。
“グツラドニウトの調査”と、太く赤い文字が踊っていた。
「だからワタシがこの依頼をファエッ!!と解決すれば………あの顔面凶器は歓喜に震え、フライヤさんはいっぱい褒めてくれて、あの眼帯男は───」
言葉の途中で、アンジュはむすっと頬を膨らませた。
「あんなに毛嫌いしなくたっていーじゃんね!」
脳裏に浮かぶのは、いつも冷たい視線を投げてくるコマの顔。
同じチームなのに、まともに言葉を交わしたこともない。それを思い出すたび、なんだか胸の奥がムズムズしていた。
「確か、依頼書に書いてあった地域は、この先のハズ………」
気を取り直し、アンジュは森の奥へを足を進めた。
草を踏みしめ、木々の合間を抜ける。
やがて視界が開け、朝靄の中に木製の看板が、ぽつんと立っているのが見えた。
「これは………看板?」
アンジュは首を傾げながら近づき、手で埃を払い、そこに掘られた文字に目をやる。
《この先、正気で帰れた密猟者は未確認、すぐに引き返せ。あと堅実に働け。当てがないなら空の牧場を目指せ。“モンスター・パニック・サービス”かしこ》
「………これは《《アイツら》》が建てたのか?」
経年で色褪せ、端が風に削られたその看板は、あのチームが残した書き置きだった。
きっと、かつて彼らもここに来たのだろう。
アンジュは腕を組んで唸った。
けれど、すぐにある違和感に気づく。
「《《密猟者》》宛への看板………?なんで?」
小さく呟いた声が、風に攫われて消えた。
森の中の空気がひんやりと変わる。
葉擦れの音さえ遠く、まるで森が息を潜めているようだった。
「や、やっぱり………グヅラドニウトってスンゴイ化け物なのかな?」
アンジュが恐る恐る一歩を踏み出した、その瞬間———。
バチィッ!!!
鋭い閃光と共に、強烈な衝撃が彼女の全身を打ち抜いた。
その衝撃にアンジュは弾かれ、土煙を上げながら地面を転がる。
「────ッつう!?」
衝撃の痛みに顔をしかめつつも、どこか“馴染み”を感じていた。
肌の表面がじりじりと焼けるようなこの感覚、どこかで味わったことがある。
「この感覚、覚えが………」
立ち上がり、アンジュは慎重に空間へ手を伸ばす。
見えない“何か”に触れた瞬間、再び指先にバチッと火花が散った。
「これは、フライヤさんの魔法?」
魔力の残り香が、確かに彼女のものだった。
かつて遺跡で見た防御魔法。
それと同じ性質の“障壁”が、この森を覆っていた。
触れた者を弾き、内部を守る透明な壁。
その強度は落ちているが、触れた瞬間に拒絶される特性は健在だ。
看板による警告、魔法障壁による強制封鎖。
二重の封印。それだけ、この先にある存在が危険だとという証。
アンジュは唾を飲み込み、眉を寄せる。
普通なら、ここで引き返すべきだ。
だが、彼女の心の中には、別の見立てがあった。
(………この先に行けるのは、ワタシだけ?)
静かに息を吸い、両手を握る。
そして、思い切り目を見開いた。
「ええい!ままだ!!!」
掛け声と共に、アンジュは障壁へ両手を向け、突っ込んだ。
———バチィ!バチバチバチバチッ!!!
閃光と煙が弾け、火花が明け方の暗い森を照らす。
強烈な圧力が両手を押し潰し、皮膚が灼けるように熱くなった。
「ぐいいいいいいい!」
呻めきながらも、アンジュは前に進む。
全身が研磨され、霧のように散っていく感覚。
肉片は飛び散り、周囲に血が撒き散らされる。
しかし───不死身の身体は、ゆっくりと修復を始めていた。
光の壁を抜けた瞬間、骸になりかけたアンジュの肉体が地面に叩きつけられるように落ちた。その瞬間、再生の光がぱっと弾け、彼女の体が完全に戻る。
「…………限りなく!無事!!」
誰もいない森の中で、アンジュは一人、勝ち誇ったようにピースサインを掲げた。
けれどすぐに自分の姿を見下ろし、顔が真っ赤になる───彼女の力は、服だけは再生することはできない。
「まずい、服が…………」
両腕で慌てて身体を隠しながら、そそくさと、森の奥へ進んでいった。
そのまま、アンジュは森の奥へと進んだ。
木漏れ日が少しずつ減り、代わりに濃い影が地面を覆い始める。
草木のざわめきも次第に遠のき、彼女の足音だけが響いていた。
しばらく歩いたその先で、アンジュは思わず息を飲んだ。
「───これは」
視線の先にあったのは、いくつもの———人間の亡骸だった。
湿気で腐りかけたそれらは、武器を手にしたまま折り重なっていた。
しかし、争いの痕跡にしては、どこか違和感がある。
「仲間同士でやり合ったのか?それにしても何かヘンだな………」
全員が、笑っていた。
アンジュは膝をつき、腐敗臭に表情を歪めながらも、慎重に一人一人の死体を観察する。
まるで踊り明かしたまま力尽きたかのように、笑顔のまま倒れている。
ぞくりと背筋に冷たいものが走る。
しかし、彼女の目は別の方向に向いていた。
————服。
血と泥にまみれた衣服が、彼女の目に映る。
サイズも合いそうだ。
「メッチャなんまいだ!全てに対してごめんなさい!」
アンジュは合掌し、全力で祈りを捧げると、遺体から服を丁寧に剥ぎ取り、身につけた。袖口を通すと同時に、どこか背筋が伸びる。
森の空気が、妙に重たくなっていた。
そのとき———ふわりと、甘い香りが鼻をかすめた。
「なんか臭うな、すごく甘ったるくて………なんか、楽しい気持ちに───」
アンジュの瞳が一瞬、焦点を失う。
頬が緩み、足取りがふらりと揺れた。
「うふへへへへひっひひひぃ!」
喉の奥から笑い声が漏れる。
理性の糸が、ぷつんと切れたように。
だが、すぐに彼女は意識はすぐに戻る。
「うぅん!?なに今の………テンション」
呼吸を整え、周囲を見渡す。
木々がざわめき、遠くで何かが水を弾くような音がした。
アンジュは慎重に一歩を踏み出した。
枝を踏む音が響いた瞬間、視界の奥———。
光を吸い込むように黒く沈む闇の先に、何かがゆっくりと、蠢いていた——。
アンジュは立ち止まり、息を呑む。
「あれが………グツラドニウト?」
* * *
《グツラドニウト》
【両生種】サラマンダー型
体長:六メートル/体重:四百キロ
生息地:ゴウライ大陸/沼地帯
制御難度:クラスD
召喚獣適性:なし
◆ゴウライ大陸の沼地に生息する大型両生種。
全身を覆う黒褐色の鱗は湿気を帯びるほど光沢を増し、夜間ではほぼ姿を視認できない。本来は温和で、縄張り争いすら稀な種であったが、近年異常な興奮状態や同族捕食行動が頻発。消化液は強酸性を示し、短時間で対象を溶解させる性質を持ち、魔獣素材の分解・精製に応用可能。
* * *
沼の奥から、ぬめる音と共に現れた巨体。
全身が黒と灰色のまだら模様で覆われ、肌は湿った岩のように滑らかだった。
背中には苔が生え、瞼の裏から泡のような呼吸が漏れている。
「ドゥララララ………」
低く湿った鳴き声。
グツラドニウトはアンジュに興味を示すこともなく、のそり、のそりと歩を進めていた。
その姿を前に、アンジュの背筋が自然とこわばる。
「へ、変な鳴き声、でもそれよりも………限りなく怖ええええ〜」
旅の中で巨大な生物に出会うことは何度もあった。
だが、こうしてたった一人で、真正面から“怪物”と向き合うのは初めてだ。
それでもアンジュは勇気を奮い起こし、観察を始めた。
「確かに、でっかいし怖い………でも、大きいだけで、危なそうには見えないけど」
彼女の目に映るそれは、ただの鈍重な両生種。
危険な気配はあるが、サカキたちが恐れるほどの脅威には見えなかった。
やがて、その巨体がゆっくりと振り向く。
どこか間の抜けたほど大きな瞳が、アンジュと合う。
その瞬間───。
「………グゥ」
「ぐう?」
その珍妙な鳴き声に、ついオウム返をしてしまうアンジュ。
次の瞬間、グツラドニウトの喉が膨らみ、空気が震えた。
「グェァアアアアアアアアアア!!!」
周囲に鳴り響くグツラドニウトの鳴き声。
それと同時に、口内から大量の紫色のガスが噴き出した。
ガスから発する甘ったるい匂いが辺りに広がり、靄のように視界を包んだ。
「なんだこれは!?さっきの煙………いやガスか?」
思わず声を上げたその拍子に、アンジュは息を吸い込んでしまう。
「───ッゲホッ!?ま、まずい!」
咳き込み、目を擦る。
だが、その視界は急速に歪み始めていた。
色が滲み、木々が奇妙に鮮やかに見える。
「────グヒハ………ヘヒハ………」
喉の奥から勝手に笑いがこみ上げる。
ヒクヒクと体を小刻みに痙攣させ、呼吸が早まる。
アンジュの眼球はぐるりと上がり、口元は崩れるように歪む。
そして何かが、脳の中で弾けた。
「うっひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
地面に転がり、腹を抱えて笑う。
大量の涙が溢れ、頬を伝う。
「村が滅んだからって!みんな死んじゃったからってなんだってんだ!ワタシは自由だぁ!ひぃーっひっひっひっひ!!不死バンザーイ!!」
歓喜と狂気の区別がつかないほど、無邪気にアンジュは走り出した。
飛び跳ね、スキップをし、地面に寝転び、再び立ち上がる。
その周囲で、グツラドニウトは静かに呼吸を続けていた。
長い舌をゆっくりと伸ばし———。
その舌先が、ゆっくりとアンジュの笑い声の方角へ向かっていた。
「────ってアレ?」
不意に、アンジュの笑いが止まった。
頬の筋肉が引き攣り、口角がカクンと落ちる。
「なに今の?なんか………気持ちよくなって………」
自分の呼吸が妙に浅くなっている。
胸の奥がくすぐったく、思考の端がふわふわと浮くようだった。
それはアンジュにとって、ある意味“いつものこと”だった。
彼女の身体には、不死の再生力が宿っている。
その力は外傷だけでなく、精神や神経の損傷までも勝手に“元に戻して”しまう。
痛みも、狂気も、錯乱も———。
身体が治るように、心も勝手にリセットされるのだ。
「………ふぅ」
アンジュは息を整え、あらためてグツラドニウトを見つめた。
(さっきのは、このガスを吸い込んだから?)
吸い込んだ瞬間、理性が弾け飛んだ。
思考が鮮明になるにつれて、先ほどまでの異常な高揚感が恐ろしく思えた。
あの看板と障壁の厳重さを考えれば、このガスこそ“封印の理由”だ。
そして、昨夜の光景が脳裏に蘇る。
真剣な顔をして依頼の遂行を懸念した三人。
(これをもし、アイツらが吸い込んだら………)
“ノリで世界が終わる”
脳裏に浮かんだその未来図に、アンジュの背筋が凍った
「ドゥル………」
「────ん?」
「ドゥルルルルルルルルルルル!!!」
「うわあ!な、なんだ?」
背後から聞こえた、グツラドニウトの鳴き声。
見ると、グツラドニウトが地面を転げ回っていた。
その巨体が木々をなぎ倒し、泥をまき散らす。
「アイツも………混乱している?自分のガスで?」
どうやら自身が吐いたガスを、自身で吸い込んだらしい。
グツラドニウトは身体をくねらせ、痙攣し、どこか楽しそうに“笑っているような”動きを見せていた。
「ドゥラ!ドゥラ!ドゥラ!ドゥラ!ドゥラ!」
「や、やっぱりへんな鳴き声………ん、鳴き声?」
アンジュは眉をひそめる。
(あれ?なんか違和感が………)
その瞬間、グツラドニウトの目がぱちりと開いた。
瞳孔が収束し、視線がアンジュに固定される。
“あの類の視線”には見覚えがる。明らかに狙われている時の目つきだった。
「っげ!やばい!」
「ドゥラララララ!!!」
「うわああああああ!」
アンジュは反射的に身を翻し、全力で駆け出した。
泥と水が一斉に跳ね上がり、飛び出した巨体が轟音と共に迫ってくる。
木々を掻き分け、滑る足元を踏みしめながら、ただ必死に距離を取る。
「ドゥラッ!」
「うわあ!危なッ!?」
足元を巨大な舌が通過した。
舌が地面をだけで掠めただけで、周囲の木々がバキバキと折れ、根が露出する。
「つ、強い───ケド」
アンジュは息を切らしながら呟いた。
その表情には恐怖と同時に、観察者の目が宿っている。
(やっぱり“ただの生物”だ。刺激しなきゃ、害はない……)
そして、あの看板の警告文が脳裏をよぎる。
《この先、正気で帰れた《《密猟者》》は未確認、すぐに引き返せ。》
(密猟者………そうか、あの連中が狙ってたのは………このガスか)
彼女の脳裏で点と点が繋がる。甘く危険な香り、陶酔をもたらす煙。
それを“売る”ことを考えた瞬間、世にもたらす影響は容易に想像ついた。
「グェァアア!」
(まずい!)
アンジュは咄嗟に衣服の袖で口を覆う。
空気が白く濁り、甘い刺激が鼻を刺した。
「ドゥーーーラ!ドゥララララ!」
グツラドニウトは自らのガスを吸い込み、再びその巨体をよじらせて暴れる。
地面を転げ、木を薙ぎ倒しながら、意味もなく笑っているようだった。
(ガスを吐く度、《《あんな》》になって、エサを取るためには効率も体力の消耗も悪すぎる)
アンジュは茂みに隠れ、額に汗を浮かべながら観察を続けた。
(それにガスを吐く時、鳴き声が変わってる)
通常の鳴き声と、ガスを吐く時の声のトーンはまるで別物。
(というか………あれって鳴き声なのか?なんか………こう)
アンジュは首を傾げ、しばし考え込んだ。
(…………下品だ)
アンジュはグツラドニウトが煙を吐く際の鳴き声に、不快感を感じていた。
(ガスを吐く原因がわかれば対処できるかも………でも)
冷静な思考が戻る。
観察を続けるほど、この生物の特徴が浮き彫りになっていく。
だが核心を知るには、体の中を見なければならない。
(生きたまま、アイツの中を調べるためには───)
恐らく“この方法”は、サカキたちにも真似できない。
だが───自分にならできる。
恐怖と高揚が混じり合う。
口の端がゆっくりと歪む。
アンジュは、舌で唇をなぞり、獣のような笑みを浮かべた。
次の瞬間、アンジュは茂みから飛び出し、対峙するグツラドニウトが咆哮した。
「ドゥラァアア!!」
「ほりゃああああああ!!」
アンジュは自ら、伸びてきた舌に飛び込んだ。
全身が巻きつかれ、あっという間に巨体の口内へと吸い込まれる。
———バクンッ!
響く重い音と共に、森は一気に静まり返った。
* * *
魔法障壁の境界線が見えてきた。
空気がひどく淀んでいる。
白く霞む森の中、サカキたちは慎重に足を進めていた。
フライヤが張った魔法障壁は、侵入防止だけでなく、グツラドニウトのガスを漏れ出させないことも目的にしている。
簡単には通り抜けられない───少なくとも、普通なら。
「────これは」
サカキが立ち止まり、地面に視線を落とす。
そこには鮮やかな赤色が飛び散っていた。
木の根にまで染み込むほどの、夥しい血痕。
フライヤはすぐさま屈み込み、指先でそれを掬い上げた。
薄く伸ばして、ペロリと舐める。
「アンジュちゃんの血よ」
「なんでわかるんだよ」
コマの突っ込みもどこ吹く風。
フライヤの表情は、冗談ひとつない真剣そのものだった。
「匂いは残っている」
コマが鼻を鳴らし、辺りの空気を探る。
生温い血と、腐敗が始まった肉片の混ざった異臭。
その方向に目を向けると、かすかに歪む障壁の層が見えた。
「やはり、ここを通過したのか」
サカキの声に、三人の間で短い沈黙が流れた。
遺跡の時もそうだった。
アンジュはフライヤの魔法結界を“物理で突破した”唯一の人間だ。
その光景を思い出し、サカキの顔に苦笑と不安が入り混じる。
「中はガスで満ちてる。入れば意識が持たん」
サカキが低く言いながら、目を細める。
すでに魔法障壁のすぐ近くにまで、ガスが近づいているのが見えた。
「すでに始まってるか、フライヤ感知できるか?」
「言われなくても」
フライヤは即座に杖を構える。
魔力が杖の先で共鳴し、澄んだ鈴の音のように空間へ広がっていく。
魔法の波が森の奥へと走り、反射して戻ってくる。
フライヤの尖った耳がその反響を受け止め、微かに震えた。
そして、彼女の表情はみるみる青ざめていく。
「───ッ!?まずいわ!」
「どうした!?」
問いかけるサカキに、彼女は息を詰まらせて答えた。
「飲み込まれてる」
* * *
「ぎいいいいいいいい!」
粘液の渦に飲まれながら、アンジュは胃の中で必死にもがいた。
視界は濁り、身動きが取れない。
壁という壁が生きているかのように波打ち、
彼女の体を押しつぶしては、また弾き返す。
「ぐへぃやひっひっひぃ気ン持ちぃいい〜」
そして胃の中は、ガスで充満し尽くしていた。
だがそれ以上に───。
「ギイヤアあああ!痛い!痛い!痛い!溶ける!体が溶ける!!」
身体のあちこちが焼けるように痛い。
強力な酸が肌を溶かし、全身が跡形もなく消えていく。
だが、そのすぐ下から新しい皮膚が再生を始めていた。
絶叫と笑い声が混ざる。
激痛があまりにも鮮烈で、理性が笑いに変換されていく。
「あはははははは!すっごく早く溶ける!そしてすぐに治る!不死史上最高におもしろい!!」
痛みと快楽の境界が曖昧になり、アンジュの意識は極限のトランス状態に近づいた。
しかし、再生が進むにつれて、すぐに冷静さを取り戻す。
「はぁはぁはぁはぁ!やっと落ち着いた………痛いのは平気だけど、このガスは非常にまずい、早く原因を調べないと」
胃の中は、思っていたよりも広い。
弾力ある壁が一定のリズムで収縮しており、
アンジュが動くたびに、ぬるぬると押し返してくる。
空気はまだ濃く甘い匂いを放ち、時折、胃の奥から泡が上がっては、ぷつりと弾けた。
「でも思ってた通り、ガスは肺じゃなくて胃の中に溜まってた」
アンジュの頭の中で駆け巡った、違和感が一つの結論に繋がった。
外で聞いたグツラドニウトの鳴き声。
あれは鳴き声ではなかった。胃の中に溜まったガスを吐き出す噯気だったのだ。
「ゲップで吐き出してたんなら、胃の中でガスを作っているハズ」
アンジュは頬を引き締め、分析を始めた。
「それとも、もっと奥から?でもガスをお尻から出している感じはしなかったし」
ブツブツと独り言を呟きながら、
ぬかるんだ肉壁を踏みしめ、慎重に奥を覗き込む。
「とりあえずもうちょっと奥へ───」
———そのとき。
ギチギチギチと、音を立てて、胃壁の影が不自然に盛り上がり、暗闇の中から“何か”が覗いた。
円らな複眼が光を反射し、節のある灰色の体がギシギシと音を立てて動く。
体表は金属質に輝き、腹部には無数の吸盤のような口器が蠢いている。
ぬるぬるとした脚が蠢き、胃壁を這いながら───ドパカソクムシがこちらを見つめていた。
「…………………」
沈黙の後、至近距離で完全に目が合い、そして───。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
アンジュの悲鳴が、胃の中の空間に響き渡った。
* * *
《ドパカソクムシ》
【等脚種】フナムシ型
体長:八十センチ/体重:五キロ
生息地:グツラド二ウト体内
制御難度:不可能
召喚獣適性:なし
◆大型両生種の胃腔内に寄生する等脚型生物。
外見はフナムシに酷似するが、体表は金属質の灰色で覆われ、腹部には無数の吸盤状口器を持つ。寄生対象の胃壁に吸着し、消化活動を利用して生存。体内で発生する有機酸を代謝し、副産物として幻覚性ガスを生成・放出する。全に宿主へ依存しており、単独では数時間しか生存できない。宿主から引き剥がすことは極めて困難で、無理に除去した場合は両者の体内構造に深刻な損傷が発生する。
* * *
「ギィ………ギギギ」
いやな震えを伴う音が、寄生虫の節から漏れる。
全身に鳥肌が走るほどの気色悪さに、アンジュは全身をすくめた。
「ヤだ!ヤだ!ヤだ!キモイ!キモイ!キモイ!キモイ!キモイ!」
「───ッギィイイイ」
ドパカソクムシは、体中の微細な孔から覚醒作用を持つ白いガスを噴き出した。
ガスは泡混じりにプチプチプチと音を立て、甘ったるい臭気を放ちながら胃腔を瞬時に満たし、粘液の波に乗ってグツラドニウトの口へと押し出される。
「グエエアアアアアア!!!」
アンジュはそこで、ハッと気づく。
(コイツがガスを?)
つまり、ガスを放っていた張本人はグツラドニウトではなく、胃の中にいるこの寄生体———ドパカソクムシが放つガスだった。
「ギギギィ………ジュルルルル」
ドパカソクムシは、胃の中で消化されたアンジュの肉液をズズズと吸い上げる。
(なるほど………)
その様子を見て、アンジュが点々と抱えていた謎が頭の中で繋がっていく。
(コイツが出したガスを吸った獲物を、外のあのオオヤモリが無理やり食べて、胃の中で溶けたエサを食べるってワケか)
様々な違和感がアンジュの中でまとまり腑に落ち始めたそのとき───。
『ンジュ…ちゃ…………聴こえ……』
「ん?声が聞こえ───」
かすかに、外部から声が割れ込んできた。
粘膜越しに伝わるような、微かな声量で。
『アンジュちゃん!聴こえる!?』
「うわぁ!?こ、この声………フライヤさん?」
声は確かにフライヤのものだった。
魔法障壁の外からフライヤが更なる魔法を使ってアンジュに直接語りかけていた。
続けざまにフライヤの歓声が割れ、森の外からのやり取りが胃壁を通して届く。
『良かった!無事とは思ってたけど無事だったのね!無事!?』
「ハイ!んえ?んんん?どの無事の何が!?」
* * *
その後、フライヤから伝えられた話───。
サカキたちが昨夜、この案件を頑なに拒んだ理由───。
混乱しながらも、アンジュの頭は即座に整理を始める。
ドパカソクムシとグツラドニウトの共生関係があるため、ドパカソクムシを回収するにはグツラドニウトを解体するしかないということ。そして、それが人為的な殺処分に等しいから彼らは手を出せなかった、という事情。
アンジュは小さく息を吐いた。
「つまり寄生虫を引き剥がすことができれば、依頼は達成ってことになるのか………」
その認識は冷たい現実と同時に、彼女の顔に微かな決意を浮かばせた。
アンジュは小さく息を吐きドパカソクムシを掴む。
「ぐぬぬぬぬぬ!」
「ギィイイイイイ!!」
「離れないいい〜〜」
アンジュは力任せにドパカソクムシを引き剥がそうとする。
だがドパカソクムシは、ガッチリと胃壁に捕まっていて離れない。
「ドゥララララ!」
「うわああああ!?」
体外から響く叫び声。強くしがみつくドパカソクムシの爪が胃壁に食い込み、痛みでのたうち回るグツラドニウトの振動が地震のように伝わってきて、アンジュの体が跳ね上がる
「無理に引き剥がせばコイツが傷ついちゃう、どうしたものか」
寄生虫と宿主の関係は完全な状態。
強引に引き離すことは、ほぼ不可能。
再びドパカソクムシがガスを噴き出した。
酸と泡の匂いが充満し、胃壁全体が収縮する。
「グエエエエエエエ!!」
(ま、また吐いた…………ん?吐いた?)
アンジュの思考が閃光のように走る。
* * *
一方その頃───。
フライヤの結界の外側で、サカキたちは救出方法を模索していた。
湿った風とガスの匂いの中で、焦燥が漂う。
「ったく!あいつはどれだけ時間を溶かしてやがる!」
コマが苛立ち混じりに吠える。
その言葉にサカキが腕を組み、真顔で呟いた。
「溶かす…………排泄されるのを待つか」
普段なら即座にフライヤのツッコミが飛ぶ場面だったが、
今は彼女も集中していた。杖を構え、魔力でアンジュの状況を探っている。
すると突然。フライヤが顔を歪め、声を震わせながら叫んだ。
「ちょ、ちょっとアンジュちゃん!?何をしてるの!?」
「どうした!?」
サカキがフライヤに問い詰める、
「飲んでる」
「飲んでる………?何を?」
呼びかけるサカキの言葉に、フライヤは凍りついた表情でゆっくりと振り返った。
「─────胃液を」
「胃液ヲォ!?」
サカキの素っ頓狂な叫びが、森の静寂を突き破った。
* * *
「ドゥラララララアアア!」
グツラドニウトが突如として大きく暴れ出した。
体外からも伝わるその振動の正体は、胃の中で起きていた異常だった。
胃の中心部に溜まっていた酸の湖———。
その液面に顔を突っ込み、ごくごくと喉を鳴らしながら、アンジュはその“胃液”を飲み干していた。
(ぐああああああああああああ!)
声にならない悲鳴があがる。
彼女の顔はみるみるうちに溶け、頭蓋だけを残して崩れ落ちる。
食道から胃にかけての通り道は泡を立てながら穿たれ、飲み込んだ酸が体内を逆流し、アンジュの体のあちこちから、こぼれ出していく。
(顔が溶ける!内臓も溶ける!これは………思ったよりいいい!)
狂気と理性が同居する声が頭の中で響く。
少しずつ減っていく胃液に比例して、周囲の内臓が痙攣を起こしはじめた。
壁が収縮し、粘膜が痙攣し、胃全体が大きく蠢く。
「ドゥラア!ドゥルルルァアア!」
体外では、突如始まった激しい胃痙攣にグツラドニウトがのたうっていた。
(ワタシの回復力と、お前の吐き気………勝負だぁあーーー!!)
徐々にアンジュの身体は、溶解よりも再生のほうが速くなっていた。
痛みが快感に変わるほどの速度で、生命活動が暴走する。
一方、胃の内部環境は激変し、強烈な蠕動と痙攣が発生し続けている。
「ギィイイイイ!?」
背後で、胃壁にへばりついていたドパカソクムシがその収縮波に押し出される。
節足が滑り、爪が外れる。
「ギイ!?」
(────ッ!?今だ!!)
アンジュは酸にまみれた拳で、全力で胃壁を叩いた。
その衝撃が臨界を超えた瞬間————。
「ドゥオロロロロロロロロロ!!」
グツラドニウトの全身がのけぞり、巨大な喉から轟音が響く。
胃の内容物が一気に逆流し、アンジュと寄生虫をまとめて吐き出した。
「出ったぁああああ!!」
アンジュは地面に叩きつけられながらも、すぐさま立ち上がる。
周囲を見渡すと、寄生虫ドパカソクムシが体をビクビクと痙攣させていた。
「ギギギギギギギギ!」
拠り所を失ったそれは暴れるようにのたうち、もはや栄養も尽き、ガスを放つことすらできなくなっていた。
「とりゃあああああああ!!」
アンジュは素早く衣服を脱ぎ、その布を使ってドパカソクムシをぐるぐるに包み込み、動きを封じた。
「はぁはぁはぁはぁ………やった、成功した」
血と胃液にまみれながら、アンジュは酸に焼けた歯を見せて笑った。
その笑顔には、疲労と興奮、そして久方ぶりに感じた“生き延びた実感”が混ざっていた。
視線を上げると、グツラドニウトがゆっくりと体を揺らしていた。
どうやら胃の中の異物が消え、すっきりした様子らしい。
「ドゥルルルルルル♪」
満足げに一鳴きすると、巨大な両生種は茂みの奥へと消えていった。
その背中を見送りながら、アンジュはようやく胸を撫で下ろす。
『コンッッッグラッチュレーション!!!』
耳をつんざくような叫び声が、空気を震わせた。
あまりの勢いにアンジュは思わず肩をすくめ、尻もちをつきそうになる。
「ひゃああ!?な、なに!?」
『スゴイ!スゴイ!スゴイ!アンジュちゃん素晴らしいわ!まさかあんな方法でドパカソクムシを吐き出させるなんて!!』
通信の向こうで、フライヤの声が弾んでいた。
その声はいつもの軽口ではなく、純粋な賞賛に満ちている。
「い、いやぁ〜必死だったもんで」
アンジュは頬をかきながら、思わず笑う。
胸の奥が少しだけ温かくなり、照れくささに口元が緩んだ。
だが───次の声が、その空気を一瞬で引き締めた。。
『無茶をしすぎだ』
低く、腹の底から響くようなサカキの声。
その響きに反射的に背筋を伸ばすアンジュ。
「ご、ごめんなさい!」
反射的に謝罪の言葉が口を突く。
『だが、グツラドニウトの寄生問題に光明が見えた………』
魔法越しのサカキの声は、怒気よりも静かな安堵を帯びていた。
『アンジュ、よくやったぞ』
「い、いやあ〜!それほどでも!!」
耳まで真っ赤になりながら、アンジュは苦笑した。
自分の無茶が認められたことが、こそばゆくも嬉しかった。
『せっかくの君の初仕事だ、最後まで、君にやってもらうことにしよう』
「う、うん!わかった!任せてよ!」
『茂みの奥に去ったグヅラドニウトの後を追うんだ』
「え?でもコイツを吐き出したら問題解決なんじゃ?追いかけてどうするの?」
『おそらく───その先に沼地がある筈だ』
サカキの声が、湿った森の空気に重なる。
『グヅラドニウトは元々沼地に生息する寮生種だ、君が遭遇したのは《《群れ》》から逸れた個体だろう』
「─────群れ?」
その単語を聞き返した瞬間、嫌な予感が背筋を走った。
『ああ。フライヤの検知によると───』
一拍の沈黙。そして、サカキが静かに告げる。
『ドパカソクムシに寄生されたグツラドニウトは………ざっと百匹以上はいる』
「……………………はい?」
そして、アンジュの視界の先———。
茂みの向こう、靄のかかる湿地帯に———。
ぬるりと、巨大な影がいくつも動いた———。
「グゥエエエエエ!」
一体。
「ゴエエエエエエ!」
もう一体。
「ドゥエエエエエ!」
さらにもう一体。
見渡す限りの群れ───。
数十、数百。闇の沼が生き物で蠢いていた。
頭が真っ白になり、アンジュはその場で崩れ落ちる。
『頼むぞ、アンジュ』
『ガンバレーー!アンジュちゃん!』
遠くから聞こえる二人の声が、半分夢の中で響いていた。
気が遠くなりながら、アンジュは、深く息を吸い込んだ───空気ごと、“ガス”まで。
「ぐっひゃぎゃっぎゃぎゃっぎゃっ!任せろおおおおお!」
叫びとともに、彼女の理性をテンションごと吹き飛ばし、ヤケクソ気味に叫んだ。
* * *
数時間後───。
湿地帯は静寂を取り戻していた。
その後アンジュは、気が遠くなるほどの時間をかけて、百匹すべてのグツラドニウトからドパカソクムシを吐き出させた。
ガスの発生源は枯渇し、空気は澄み、湿地はようやく“危険区域”から解放された。
結界が解除されると、アンジュはようやくサカキたちと合流した。
「────これでよし!」
フライヤが杖を一振りすると、捕獲したドパカソクムシたちは、光の粒となって次々と縮小されていく。小型の保護カプセルに収められたそれらは、百匹以上いても手のひらほどのサイズにおさまった。
「このサイズならエサも最小限に済むわね」
フライヤはカプセルを軽く放り投げ、キャッチして満足げに微笑む。
焚き火のそばでは、コマが鍋をかき混ぜ、サカキが火加減を見ていた。
湯気の向こう、彼がふと口を開く。
「そろそろだな、アンジュはどうした?」
辺りを見回しても、アンジュの姿はない。
コマが肩をすくめる。
「流石に参ったか───」
「違うわよ」
フライヤが杖の先で上を指す。
サカキが目をやると、木の上に腰を下ろすアンジュの姿があった。
夜風に髪を揺らしながら、どこか満ち足りたような笑みを浮かべている。
「“いつもの”よ」
フライヤの言葉に、サカキは静かに頷いた。
今は声をかけずにおこう───そう思えるほどに、彼女の背中は穏やかだった。
* * *
『うん、それで………どうなったの?』
木の上でアンジュは指に嵌めた銀の指輪を口元に近づけていた。
「100匹分の胃液を飲み干して全部吐き出させたんだ」
『そ、それは………凄いね』
「あぁ、参ったよ。まだ胃液で胃もたれしている」
木の枝に背を預け、月明かりを見上げながら笑う。
指輪の向こうから、ミコトの声が柔らかく響く。
『ふふっ』
「どうしたの?」
『アンジュちゃん、いつもよりなんだか嬉しそう』
「…………バレた?」
初めて“誰かの役に立てた”という実感が、胸の奥でじんわりと温かく広がる。
アンジュの頬が、ほんの少し赤く染まった。
『でもあんまり無茶しないでね』
「わかってるって!…………ニアは元気?」
『うんちょっとまってね…………』
そして───。
『ミィーーーー!』
「ニアーーーー!ちゃんとご飯たべてるか〜!?」
指輪の向こうから響く愛らしい鳴き声に、アンジュは満面の笑みを浮かべた。
まるで遠方で勤めるの父親のように。
しばらく楽しげなやり取りが続いたあと、ふとアンジュは呟いた。
「まぁ少しずつだけど、ワタシにできることを探してみるよ」
『────うん』
ミコトの短い返事。
その一言には、確かな信頼が込められていた。
「ところでそっちはどうなんだ?転送士にはなれたのか?」
『い、いや、それはまだ、でもね────』
風に揺れる木の葉が、焚き火の明かりを受けてきらめく。
遠くでフライヤたちの笑い声がこだまする。
こうして、彼女たちの夜は、少しだけ静かに、更けていった。




