第三章 二十万円
引き出しの中の封筒は、翌日も翌々日もそこにあった。
ゆうとは朝起きるたびに引き出しを開けて、封筒があることを確認した。確認する必要はなかった。どこにも行かないとわかっていた。それでも開けた。開けて、閉めた。それだけだった。
ATMに入れようとしたことが一度あった。
コンビニに入って、ATMの前に立って、封筒を出した。カードを入れて、暗証番号を押した。「入金」のボタンを押そうとして、止まった。
何が止まらせたのかは、わからなかった。
カードを抜いた。封筒をポケットにしまった。コンビニを出た。
アイスを買えばよかった、と歩きながら思った。入ったのにアイスも買わなかった。ついでに買えばよかった。そのことだけが、少し頭に残った。
八月の終わり。
夏休みも残り少なくなってきた。
彩花から「今週末、予約したよ」とLINEが来た。
彩花 20:14
駅前に新しくできたイタリアンがあってね
口コミよさそうだったから予約した
土曜の19時
ゆうと 20:16
いいじゃん
何食べれる?
彩花 20:17
パスタとかピザとか
コースもあるよ
ゆうと 20:18
コースでもいいよ
彩花 20:18
え、まじで?
太っ腹じゃん
ゆうと 20:19
たまにはいいかなって
彩花 20:20
やった
じゃあコースにしよ
ゆうとはスマホを置いた。
コースというのがいくらするか、調べた。八千円と書いてあった。二人で一万六千円。引き出しの中には、まだ十九万円以上あった。
問題なかった。
土曜日の夕方、ゆうとは着替えた。
クローゼットを開けて、持っている服を眺めた。どれも似たようなものだった。今日くらいはもう少しまともな服を着てもいいかもしれないと思った。
百貨店に寄った。
メンズのフロアをうろうろした。値段を気にせずに見るというのが、初めての感覚だった。いつもは値札を先に見た。高ければ見なかった。今日は値札を後で見た。それだけで、見える服が変わった。
シャツを一枚買った。六千円だった。着替えてから彩花と会おうかと思ったが、荷物になるのでやめた。袋を持ったまま待ち合わせ場所に行った。
彩花がいた。
いつもと少し違う服を着ていた。ワンピースだった。
「シャツ買ったの?」と彩花は袋を見て言った。
「今日着ようかと思って」
「今日? ここで着替えるの?」
「違う違う」
「なんで今日持ってきたの」
「思いつきで買った」
彩花が笑った。「ゆうとっぽい」
「ぽい?」
「なんか思いつきで動くじゃん、たまに」
ゆうとはそれに何も言わなかった。思いつきかどうかはわからなかった。ただ買いたくなったから買った。それだけだった。
店に入った。
照明が落とされた店内だった。テーブルに花が一輪挿してあった。彩花が「きれいじゃん」と言った。ゆうとも見た。白い花だった。何という花なのかはわからなかった。
コースを頼んだ。
前菜から始まった。小さな皿にきれいに盛られたものが出てきた。彩花が「おいしい」と言った。ゆうとも食べた。おいしかった。
「なんか、いつもと違う感じがする」と彩花が言った。
「店が?」
「ゆうとが」
「俺が?」
「うん。なんていうか……余裕がある感じ?」
「そんなことないと思うけど」
「あるよ」と彩花は言った。「バイト、うまくいきそうなの?」
「まあ、一回分は入ったから」
「一回でこんな使えるの?」
「まあまあ入ったから」
「すごいじゃん。どんなバイト?」
ゆうとはパスタを口に運んだ。
「説明が難しいやつ」
「難しいって」
「いろいろ動く感じの」
「なにそれ」と彩花は笑った。「まあ、稼げてるならいいか」
「そうそう」
ゆうとも笑った。
笑いながら、何も考えなかった。
食事が終わって、外に出た。夜の空気だった。夏の終わりの夜は、昼より少しだけ息がしやすかった。
「ありがとね」と彩花が言った。「おごってくれて」
「いいよ」
「でもほんとに。嬉しかった」
彩花が少しゆうとに寄った。ゆうとは自然に歩調を合わせた。
「プレゼントも何かほしい?」とゆうとは言った。
彩花が立ち止まった。振り返った。
「え、なんで急に」
「余ってるから」
「余ってるって言い方がなんか雑だけど」と彩花は言って、でも目が笑っていた。「ほんとにいいの?」
「いいよ」
「……じゃあ、ここ入っていい?」
彩花が指差した先は、雑貨と服が混在した小さな店だった。ショーウィンドウにアクセサリーが並んでいた。
「いいよ」
二人で入った。
彩花はゆっくり店内を見て回った。指輪を手に取って、また戻した。ネックレスを首に当てて、鏡を見た。ゆうとはその隣に立っていた。
「これ、どう?」と彩花がネックレスを持って言った。
シンプルな細いチェーンに、小さな石がついていた。
「似合うと思う」
「ほんと?」
「うん」
値段を見た。一万二千円と書いてあった。
「買う」とゆうとは言った。
「え、いいの? 高くない?」
「いい」
「……ありがとう」
彩花の声が少し変わった。ゆうとはそれを聞いた。
レジで払った。一万二千円。店員がきれいに包んでくれた。
外に出て、彩花が「つけていい?」と言った。
「どうぞ」
彩花が自分でネックレスを首にかけた。うまくいかなくて、ゆうとが留め金を止めた。彩花の首筋が近かった。
「ありがとう」と彩花がまた言った。今度は声が少し小さかった。
「どういたしまして」
「なんかあった? 急に」
「別に何も」
「そっか」
彩花が正面を向いた。ネックレスを手で触った。
「大切にする」
ゆうとは「うん」と言った。
それ以上何も言わなかった。
帰り道。
電車を待ちながら、ゆうとはスマホを見た。
特に何も来ていなかった。田中からゲームの話が来ていた。既読をつけた。後で返そうと思った。
彩花がゆうとの腕に少し触れながら「楽しかった」と言った。
「よかった」
「またこういうの行こうよ」
「いいよ」
電車が来た。乗った。
車内は空いていた。二人並んで座った。
彩花がスマホを出してネックレスの写真を撮った。
「SNSに上げていい?」
「いいよ」
彩花が写真を加工して投稿した。
@hashimoto_ayaka
今日のディナーごちそうになっちゃいました
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ゆうとはその投稿を彩花のスマホ越しに見た。
コメントが来ていた。「かわいい」「どこで食べたの?」「ネックレス素敵!」
彩花が「みんな反応してくれてる」と嬉しそうに言った。
ゆうとは「よかったな」と言った。
スマホが振動した。
ゆうとのスマホだった。
画面を見た。
ニュースアプリの速報通知だった。
【速報】練馬区の住宅強盗事件で男性が意識不明の重体
都内の住宅に侵入した強盗グループが住人の70代男性に暴行
警視庁が捜査
ゆうとは通知を一秒見た。
スワイプして消した。
「何の通知?」と彩花が言った。
「ニュース」
「何かあった?」
「知らない」
「ふうん」
彩花はまた自分のスマホに目を戻した。コメントに返信していた。
ゆうとは窓の外を見た。
夜の街が流れていた。
何も考えなかった。
考えるべきことがあるとは、思わなかった。
家に帰ったのは二十二時過ぎだった。
リビングを通ると、母親がいた。テレビを見ていた。
「遅かったね」
「彩花と飯食ってた」
「そう。楽しかった?」
「うん」
「よかった」
ゆうとは二階に上がった。
部屋に入って、鍵を閉めた。
着替えた。さっき買ったシャツをハンガーにかけた。
ベッドに横になった。
スマホを出した。
ニュースアプリを開いた。
消した通知のことを、少し思い出した。
練馬区の強盗事件、と書いてあった。
アプリを開いて検索した。
【速報】練馬区住宅強盗 70代男性が意識不明の重体
8月9日深夜、練馬区の住宅に複数の人物が侵入し、居合わせた70代の
男性住人に暴行を加えて金品を強奪した事件で、男性が意識不明の重体
であることが警視庁への取材でわかった。
妻は当日、親族の見舞いのため不在だったとみられる。
警視庁は強盗致傷の疑いで捜査を進めている。
ゆうとは記事を読んだ。
読み終えた。
スマホを置いた。
天井を見た。
八月九日、と記事に書いてあった。
それが何の日だったかは、わかった。
わかったが、それ以上のことが、なかった。
記事を読んで、わかって、それだけだった。
スマホをもう一度手に取った。
別のニュースを見た。芸能人の話題だった。どこかの球団が勝ったという話だった。誰かが何かを言ったという話だった。
流れていくだけだった。
ゆうとはスマホを充電器に挿して、電気を消した。
目を閉じた。
彩花の「大切にする」という声が、少しだけ残っていた。
それがどういう意味で残っているのかは、わからなかった。
眠った。
翌朝、ゆうとは起きて、顔を洗った。
朝ご飯を食べた。母親が「昨日はどこ行ったの」と聞いた。「イタリアン」と答えた。「おいしかった?」「おいしかった」。それだけだった。
航太が「お前最近金持ちじゃん」と言った。
「なんで」
「彩花さんに飯おごってたって言ってた」
「彩花が言ったのか」
「LINEで見た」
「見るなよ人のSNS」
「タイムラインに流れてきたんだから仕方ないじゃん」
母親が「仲良しね」と言った。
ゆうとは「別に」と言った。
朝ご飯を食べ終えて、ゆうとは部屋に戻った。
スマホを開いた。
彩花のSNS投稿に「いいね」が増えていた。ネックレスの写真に、七十四件。
@hashimoto_ayaka
今日のディナーごちそうになっちゃいました
[いいね 74 / コメント 18]
ゆうとはその数字を見た。
それから、昨夜のニュースのことを少し思った。
七十代の男性。意識不明の重体。
ゆうとはニュースアプリを開いた。
更新されていた。
【続報】練馬区住宅強盗 被害男性は70代の会社員OB
近隣住民への取材によると、被害男性は地域のコミュニティ活動にも
参加していた温厚な人物だったという。妻は「夫が帰ってくると思っていた
のに」とコメント。警視庁は引き続き強盗グループの行方を追っている。
ゆうとは記事を読んだ。
「妻は」という部分で、少し目が止まった。
止まって、また動いた。
スマホを閉じた。
それだけだった。
九月になった。
二学期が始まった。
田中と西村と、いつもの席に戻った。夏休みの話をした。田中はバイトをしていた。西村は塾に行っていた。ゆうとは「海に行った」と言った。それは本当だった。
「彩花ちゃんと?」と田中が聞いた。
「うん」
「リア充じゃん」
「別に」
「ネックレス買ったって彩花ちゃんのSNSで見たぞ」
「お前も見てたのか」
「見てたよ。高そうだったけど」
「まあ」
「バイト代?」
「そう」
「どんなバイトしたの」
「いろいろ動く感じの」
「なにそれ」と田中が言って笑った。西村も笑った。ゆうとも笑った。
笑いが教室に漂った。
先生が入ってきた。みんな席に着いた。
二学期が始まった。何も変わらなかった。
その週のうちに、ニュースの続きが出た。
ゆうとは学校から帰って、スマホでニュースアプリを開いたとき、通知が来た。
【速報】練馬区住宅強盗 被害男性が死亡
意識不明の重体だった70代の男性が、搬送先の病院で死亡が確認された。
警視庁は強盗致死の疑いで捜査を切り替えた。
ゆうとは通知を開いた。
記事を読んだ。
「死亡が確認された」と書いてあった。
読み終えた。
スマホを置こうとしたが、置けなかった。
置けなかった、というのは、何かが引っかかったということではなかった。ただ、置く動作が一瞬遅れた。なぜ遅れたのかはわからなかった。
もう一度、記事を読んだ。
「死亡が確認された」
同じ言葉だった。
スマホを置いた。
机の前に座った。
何かが来そうな気がした。感情のようなものが、どこかから来ようとしている気配があった。
来なかった。気配だけがあって、何も来なかった。
ゆうとは椅子に座ったまま、少しの間、部屋の中を見ていた。机と、本棚と、クローゼットと、壁。何も変わっていなかった。
彩花からLINEが来た。
彩花 17:43
練馬の事件、死んだって
怖いね
ゆうと 17:51
そうだね
彩花 17:52
こういうの聞くとゾッとする
近所だし
ゆうと 17:53
うん
彩花 17:53
気をつけないとね
鍵とかちゃんとかけないと
ゆうと 17:54
そうだね
ゆうとは返信を送った後、スマホを伏せた。
「気をつけないとね」という彩花の言葉が、少し残った。
どういう意味で残ったのかは、わからなかった。
残った、というだけだった。
〔母親断片 ②〕
ゆうとが夏の終わりに彩花さんにプレゼントをしたらしい、と橘美穂は航太から聞いた。
ネックレスだったらしい。SNSに上がっていたと航太が言った。美穂はSNSをあまり見ないので確認しなかったが、彩花さんが喜んでいるだろうと思った。いい子だと美穂は思っていた。
バイト代から出したとゆうとは言っていた。夕飯に、前に買ってきた少し高いお菓子のことも思い出した。最近そういうことが続いているなと思ったが、それくらい稼いでいるのだろうと思った。何のバイトかは聞いていなかった。聞きそびれていた。
今度聞いてみようと思いながら、夕飯の支度を続けた。
九月の末。
ゆうとはある夜、タイムラインを眺めていて、事件のことを検索した。
特に理由はなかった。
ただ、気になった。気になった、というのは、罪悪感があったということではなく、何かがそこに引っ張っているような気がした。引っ張っている、という感覚も正確ではなかった。ただ、指が動いた。
検索すると、続報がいくつか出てきた。
「強盗致死 練馬区」で検索した。
練馬区住宅強盗致死事件 警視庁が複数犯を示唆
目撃情報では、実行犯は複数人。
周辺の防犯カメラ映像を解析中。
練馬区強盗致死 被害男性の葬儀に地域住民多数参列
「いつも挨拶してくれた」「こんなことになるなんて」
近隣住民からは怒りと悲しみの声
ゆうとは記事を読んだ。
「防犯カメラ映像を解析中」という部分で、少し止まった。
止まって、また動いた。
「地域住民多数参列」という記事は、途中まで読んで、閉じた。
検索画面に戻った。
別のことを検索した。
好きなアーティストの新曲のことを調べた。
出てきた。聴いた。
よかった。
スマホを置いて、ゆうとは眠った。
十月になった。
衣替えをした。夏服をしまって、秋服を出した。
クローゼットを開けたとき、八月に買ったシャツが目に入った。
一度も着ていなかった。
そのままクローゼットを閉めた。
引き出しを開けた。封筒はまだあった。八万円以上残っていた。食事とシャツとネックレスで、十一万円ほど使っていた。
封筒を見た。
閉めた。
特に何も思わなかった。
ある日の放課後、田中が「文化祭の出し物どうする」と言った。
「何があるの」
「模擬店かお化け屋敷か演劇か」
「どれがいい」
「模擬店がいい」
「じゃあ模擬店でいいんじゃないか」
「お前それでいいの?」
「どれでもいい」
「西村は?」と田中が西村に聞いた。
「なんでもいい」
「二人ともそれかよ」
田中が苦笑いをした。
ゆうとは田中の顔を見て、笑った。
笑ったが、少しだけ遅かった。
田中は気づかなかった。
西村は少し顔を向けたが、何も言わなかった。
その夜、ゆうとはまた検索した。
前回より少し詳しく調べた。
練馬区住宅強盗致死 被害者は74歳の元会社員
趣味は庭いじりで、近所に花を配るほど穏やかな人物だったという。
妻(72)は「夫はただ家にいただけなのに」と語り、
犯人への厳罰を求めている。
ゆうとは「趣味は庭いじり」という部分を読んだ。
あの家の庭に植木があった。夜だったからよく見えなかったが、あった。
そういうことか、と思った。
「そういうことか」が何なのかは、言葉にならなかった。
ただ、「そういうことか」という感覚だけがあった。
記事を閉じた。
彩花からLINEが来た。
彩花 22:08
明日一緒に帰ろう
ゆうと 22:21
いいよ
送信した。
スマホを充電器に挿した。
眠った。




