三十二話 今世こそ、君を幸せに
マリアンナの顔が上がる。赤くなった頬に、目元には雫が溜まり滴り落ちる。
「……セオドール、殿下」
「アン?」
スッとドレスの布が擦れる音が鳴り、彼女の細い指が僕の手を取った。
「セオドール、何のつもりだ」
「兄上」
マリアンナの手を引き寄せ立ち上がらせる。よろりと足元をもつれさせた彼女を、転ばぬよう支えた。
「そのハンカチ、返してもらえる?」
「何を。これはマリアンナの物ではないだろ」
「マリアンナの物だよ。前に僕が彼女にあげた」
「お前が……?」
兄は訝しむように眉間に皺を寄せると、ハンカチを取り上げていた手を下げた。返す様子はない。
「手を怪我したマリアンナにね。兄上、マリアンナとの縁を切るとのことだけど」
立ち上がったばかりの彼女の傍らで、僕は片膝をつく。大広間の人々がまたざわめくのを横に聞きながら、表情が抜け落ちてしまっているマリアンナの手を握った。ぴくりと彼女の指先が震える。
「この時を待っていたよ……マリアンナ・フェルディマンド嬢。僕の婚約者になって貰えませんか」
遂に言った。長い間、ずっとこの時を待っていた。
ざわめきが一気に大きくなる。ギルバートの近くから「きゃーっ」と興奮したような声が聞こえたが、どうせミリエラだろと無視した。
マリアンナの瞳から光が溢れ、紫陽花のドレスにシミを作る。見開かれた目が、僕をじっと見つめ返した。
「セオドール殿下、あの、今のお言葉は」
「マリアンナ、将来僕と……夫婦になってくれませんか」
「わ、私は、あの……え、あの、嘘……よね?」
「嘘じゃないよ、本気だ」
僕の言葉も疑うようになってしまったなんて。
戸惑う彼女の手を振り解かれないように強めに握る。
「セオドール! こんな場所でっ……何をやっているのか分かってるのか!」
兄の怒声が聞こえるが、マリアンナを手放した奴にもう用はない。
なかなか頷かない彼女に、僕は兄を一瞥し立ち上がると、野次馬達の方に向きを変えた。マリアンナの手は握ったまま、半歩前に踏み出し群衆に微笑む。
「僕、セオドール・フォレクシアは今日より……王籍から離脱し、フェルディマンド公爵家入ることをここに宣言する!」
大広間はかつてない程の悲鳴で一杯になった。
第一王子による婚約破棄からの、第二王子による王家離脱。学園内で起こる事件にしては、なかなかに大きい。
ギルバートがつかつかと靴音を響かせ近付く。苛立ちを滲ませた鋭い目は、僕とマリアンナに向けられている。
「公爵家に入りマリアンナと婚約するだと! そんな勝手が許されると思ってるのか!」
「ああ、許されるよ。もう公爵達には話は通してある」
「お、お父様達が……?」
「そうだよ。行こう、マリアンナ」
「待て、セオドール!」
彼女の手を引き、大広間の外を目指す。観客と化していた生徒達は、僕達が進めば徐々に道を開けてくれた。
出口の扉を押しながら、軽く後ろを振り返る。
「では兄上、ミリエラ嬢も。皆、まだまだゆっくりと学園祭を楽しんでくれ」
そう言い残し、僕とマリアンナは大広間から立ち去った。
冷たい夜の廊下を、彼女の手を引いて歩く。
外の方からは賑やかな笑い声が聞こえた。ダンスパーティーに参加しない一般家庭の生徒達が、中庭で盛り上がっている。
何人かの生徒が僕らに気付き目が合うが、誰も不思議がることはなかった。見た目だけなら、僕はギルバートと変わりない。
人がいない所はどこだろう。
最寄りの階段の踊り場に彼女を連れて行く。
ステンドグラスの窓が、月明かりを通し足元を照らしていた。
絨毯こそ敷かれてはいないが、静かな階段はフェルディマンド家で今日の約束を取り付けた場所に雰囲気がよく似ている。
「ここでいいか。マリアンナ、強引にすまなかったね」
「……あの日、屋敷にいらしていたのはセオドール殿下だったのですね」
マリアンナの声が鮮明に聞こえる。まだ少し落ち込んだ声色。
「ああ、そうだよ」
「どうして……私なんかを。聞いていらっしゃるんでしょう、私に何の噂があるのか」
「何のこと?」
「とぼけないでください。ミリエラさんをおとしめ……ギルバート殿下を裏切った、悪女だと、皆がおっしゃっていたわ……。公爵家に入るのも、きっと国王陛下が貴方にギルバート殿下の代わりをさせようとして」
「マリアンナ」
名前を呼び、彼女の言葉を止めさせる。
「違うよ、マリアンナ。父上は関係ない、ギルバートも。公爵家に入る意思を示したのは僕自身だ」
「う、嘘よ、誤魔化さないで」
「嘘じゃない、マリアンナ。僕は本心から、君の元にいたいと思っている」
「っ……」
マリアンナの瞳から大粒の涙が溢れる。雫がドレスに落ちる前に、指先でそっと拭った。
「側にいるよマリアンナ……君が僕から離れようとしても、逃がさない」
ようやく手に入れたのだ。この世界に生まれ落ちてからずっと、ギルバートが君を手放すのを心待ちにしていた。
「身分を捨てた僕は、君を王妃にはしてやれない……でも、一生をかけて幸せにするよ。今度こそ」
「セオドール殿下……」
「……好きだ、生まれる前から。愛してるよ、アン」
彼女の髪に触れる。縋るように僕を見る彼女の顔は痛々しい程にか弱く思えた。
両腕を彼女の身体に回し、冷え切った彼女の体を包みこむ。
抱き寄せたの僕の腕を、マリアンナは拒まなかった。




