四.泥棒と少女
「一体何人いやがる、クソがっ!」
全速力で路地を曲がった先にも銃を構えた人影が二人。迫る追手の足音。悪態をついたところで追跡が止む気配はなく、迷った末に横の塀を越え建物の隙間へ逃げる。
「いたぞ!」
「そっちだ!」
だめだ。入り組んだ道に似たような店がいくつも立ち並ぶウィスカハルの路地裏は、他所者の彼が逃げるには不利だった。違う通りに出てもまた別の人影がいる。慌てて方向転換するも撃たれた脚がしびれるように痛む。
銃を侮っていた。狙ったところで当たらない。──狙うのではなく、大人数で一斉に放つのが正しい使い方だったとは。数の暴力に負けて食らった一発は想像以上にダメージが大きく、流れ出た血が足元にまで届いている。まずい、血痕を追われたら逃げ切れない。しかし止血する暇も与えて貰えない。
「六人、七人か……? どうなってんだよ」
果物一つ盗っただけでここまでするか。人数も装備も自警団の域を遥かに超えている。街のど真ん中での騒ぎも日常茶飯事らしく、優雅な昼下がりに似つかわしくない騒動のはずが、人々は当然のようにちらりと視線をよこすだけだ。何が街の治安のためだ、何がさすがウィスカハルの領主様だ、正義面して暴力振るうのを楽しんでるただの乱暴集団じゃねえか。
走る道が細くなり一抹の不安を覚えた矢先、悪い予感は的中した。行き止まりだ。
「構え!」
七人の追手が銃口を向ける。反対側には高い壁が無慈悲にそびえ立っている。どうする。どうする。
「おい、お前ら! ガキが見つかった! こっちだ!」
「何!」
足音が急激に遠ざかる。しばし呆然とした後で吐き出された息は安堵か、それとも呆れか。命の危機まで感じたというのに、誰かの呼びかけで自警団は一斉に去り、彼は一人、昼下がりの路地に取り残されていた。首筋に汗が流れる。まだ季節は初夏のはずが、ここの日差しはすでに夏本番のように熱い。
日陰に移動してから破れた服を裂いて脚の傷口を縛り、盗んできたリンゴをかじった。甘みと水分が干からびた身体に沁みる。数日ぶりに味わった食物のせい、だろうか。芯のぎりぎりまで食べ終わると同時に普段なら気にもしないことが心の隅に引っかかった。
──ガキ、と言ってた。泥棒をそっちのけで追うのか? 子供を?
よせばいいのに好奇心にそそのかされ、自警団の警員が駆けて行った方向を慎重にうかがう。誰もいないのを確認し、壁伝いに隠れて移動していると人だかりが見えた。
「クソガキが! 手間かけさせやがって」
「もう逃げられねえぞ。領主様の屋敷へ戻るんだ」
「ああっ」
甲高い声が上がり彼は動揺した。マジでガキ、しかも女かよ。
まだ幼い、ふっくらとした頬が印象的だ。しかし目には涙があふれ、二つに結った蜂蜜色の髪は乱れ、小さな靴も片方なくしたぼろぼろの姿だった。少女の腕をつかんだ男が彼女を投げ捨てるように手を離す。いくつもの銃口が彼女に向けられる。
「構え!」
は? 撃つのかよ!
出来心だ。決して人助けとか、そういうことに充足を覚える人間ではない。ただ、想像以上に小さく弱そうな少女だったこと、さっき同じ状況から彼女のおかげで自分が助かったらしいことが重なり、なぜか身体が動いていた。
灰色の影が少女をさらい、何もなくなった虚空を銃弾がすり抜ける。
「何だ!? ガキは?」
「あいつ! さっき追ってた泥棒だ!」
「待ちやがれ!」
何発もの銃声が追ってくる。一発が肩をかすめ冷汗が噴き出た。路地を行っては不利だ。柵をよじ登り屋根の上へと逃げたところでようやく追跡の勢いが弱まる。少女を小脇に抱えたまま屋根から屋根へと移り、隠れるのにちょうどよさそうな倉庫の上に来たところで飛び降りた。
着地の衝撃が脚の傷から全身に響き、叫びそうになるのを何とかこらえる。入り口の扉に手を掛けると内側から鍵がかかっていた。
すぐさま左手を扉の中に入れ、内側から扉を開く。
倒れるように倉庫に逃げ込み、再び鍵をかけ、彼は抱えていた少女を降ろした。耳に聞こえるほど心臓が激しく鼓動している。走ったのに加え、なぜこんな少女を助ける気になったのか自分でも理解できず、動揺が収まらない。
「あ、あの……」
少女が消えそうな声を出した。しゃべれるのか。まあ赤ん坊と言うにはだいぶ大きい。しかしながら彼女にとっては驚愕の出来事ばかりだったと思われ、次の言葉は続かなかった。彼のほうから何か言おうにも痛みと疲労で息が切れてしまい、今は呼吸するのがやっとだ。
「……お兄ちゃん、死んじゃう?」
ようやくしゃべったらそれかよ。いや、泣きそうだし、たぶん本気で心配してくれてるんだろうが、言い方ってものが──ガキにはまだないか。
「はあ、こんなんで、死ぬかよ」
やっと言葉を絞り出したが、切れ切れに答えたところで少女は全く安心しなかった。
「でも」
「二度も言わせんな。問題ねえ」
とは言ったものの、痛みと出血で彼はその場にしゃがみ込んだ。追われているときに得策でないのは百も承知だが仕方ない。脚の傷をさらにきつく縛る。銃も人手も惜しみなく使って追ってきた自警団の奴らが思い出された。
「本気で追われてたな。ガキのくせに何したんだよ」
「マーサが、逃げたから」
──マーサ? テフテン教か? 小さな子供と話すのには慣れていない。しかもレイニカ語なんざ数年ぶりだ。会話は難航し、少女の名前がマーサであり、この街の領主によってどこかから連れて来られたこと、軟禁されていたがついさっき逃げ出してきたことを理解するのにだいぶ時間がかかった。しかし納得はできる。領主の屋敷はちょうど行事か何かの準備で慌ただしい様子だった。彼がリンゴを拝借したように、彼女も好機と感じて逃げたのだろう。
そして、彼から少女に伝えられたのは自分の名前くらいだった。
「オーゼス、助けてくれてありがとう。でも」
少女の言葉に気を取られ、察知するのが遅れた。突如、衝撃とともに扉が開く――というより砕け散る。
「こんなところに隠れてやがったか」
自警団! もう見つかったか。
オーゼスの腕に刃が振りかざされる。
「だめっ」
視界が暗くなり、続いて真っ赤になる。
何が起こった……?
ナイフの先は明らかに彼を狙っていた。なのに、なぜ彼に届く直前に視界が塞がったのか。なぜ刃は当たっていないのに鮮血が散るのか。なぜ、少女の身体が赤く染まっていくのか。
──こんな小さいガキにかばわれた?
まさか。全身が理解を拒む。加えて、たとえそうだったとしても敵討ちをするような性分ではない。単に自分の身が危険だから敵は排除するだけ、少女の行動はそれを実行するのにちょっと余裕を上乗せしただけだ。
オーゼスは素早く間合いを詰めると相手のあごに一撃を入れて昏倒させた。見たところ武器を持っただけの一般人だ。殺さずとももう追ってこないだろう。
聞き覚えたばかりの高い声に肝を冷やしたのはその時だった。
「オーゼス、大丈夫?」
どういうことだ。
マーサが何事もなかったかのように彼の足元に駆け寄る。いや、目を向ければ何事かの痕跡は残っている。白いブラウスは首元が破れ、肌も服も血にまみれて真っ赤だ。しかし、彼が慌てて少女の首元を確認するも、そこには傷一つなかった。
「平気なのか!? どうなってんだよ、マーサお前、今さっき」
驚きのあまり責めるような口調になったオーゼスに対し、マーサは困った表情をして目を逸らした。およそ子供らしくない態度だ。同じことを何度も聞かれているのだろう。
「分からない。昔からなの。怪我してもすぐ治るの」
答えを聞き彼女には悪いがいろいろと腑に落ちた。領主やら貴族やらにはこういう珍獣を欲しがる輩が多い。外から追手の足音がするのに気付くと、彼は再び少女を小脇に抱えた。
「あっ、え、マーサは死なないから置いてって──」
「途中で置いていけるか、つかまってろ」
胸糞悪ィ。武器持った大人が皆して見世物のガキを追いかけ回すのかよ。どうせ暇だ、好きなように動いたところでもう誰も何も言わない。オーゼスは倉庫の反対側の壁を蹴り壊して脱出した。幸いにも少し行っただけで建物がまばらになり鬱蒼とした木々が現れる。森に入ってしまえばもう追えないはずだ。
しかし、その考えは甘かった。
「きゃっ!」
マーサの叫び声で彼女を抱えた腕を撃たれたと悟る。──だから、いくら銃でもそれだけ撃てば一発くらい当たるだろうが。
木々の隙間から漏れる光が柔らかくなり、影が少しずつ長くなっていた。いつの間にか日が傾き始めている。一対一なら相手にもならない奴らにいいようにされ、オーゼスは腹立ちまぎれに視界に入った枝を折った。そちらに逃げれば予測不可能だろうと実行するも、すぐに追い詰められ己の浅はかさを思い知る。どうやらこの森も自警団の庭の一部らしい。
彼の足がとうとう止まった。もし、その光景を外から見るものがいたならば、彼がなぜそこで止まったのか疑問に思っただろう。道が途切れたわけでもなく、木々に行く手を阻まれたわけでもない、周りと変わらない地点で突然足を止めた。しかし、不思議なことに自警団の警員たちも彼がそこで止まることに何の疑問も抱いていない。
──何かある。
何かは分からない。だが、これ以上先には進めない。彼は自然と「何か」を背にして立った。力尽きかけた腕から少女を降ろす。
「観念したか」
警員たちの後方から耳に刺さるほど冷たい声がした。見れば森の景観にそぐわない、上等な身なりの男が進み出てくる。オーゼスよりは年上だろうがまだ若い。しかし、鋭い切れ長の目や、あごの長さで切り揃えられた白銀の髪からは嫌でも風格や気品のようなものが感じられる。まるで、というかまさに貴族──ウィスカハルの領主に違いない。
「ちっ、親玉のお出ましかよ」
「コソ泥が。口を開くな」
領主はオーゼスを牽制しながら自警団に合図を送っていた。後ろに控えた警員は二十人ほどに増えている。こんなにいたのか。ガキ一人にどういう力の入れようだ?
「その子供を返してもらおうか」
「……リンゴなら返してもいいぜ」
路地裏で捨てそびれたリンゴの芯を冷淡な顔に向かって投げつける。予想はしていたが、領主は驚くどころか呆れた様子を見せることさえしなかった。
手強い。だが打開策はある。オーゼスの左手だけが認識している「何か」、彼が背にしたそれを誰にも越えることはできないと確信があった。──少女を除いて。
敵の隙を突いて少女を左手でつかみ、背中側に追いやる。片手で全身が持ち上がったかは分からない。しかし、想像した通り少女は「何か」を越え、その場にいた者たちの視界から消えた。
「!?」
「ガキは?」
「てめえ、何しやがった!?」
領主はすっと目を細め、慌てる警員たちに最短の命令を吐き捨てた。
「撃て」
あわよくば彼も少女と一緒に向こうへ逃げられないかと期待した。しかし、彼が通過を許されたのは左腕だけのようだ。「何か」を背にしたまま銃弾の雨に撃たれる。血が噴き出し全身が燃える。熱い。
──死に場所を探してたのか。
最期の瞬間にオーゼスはようやく理解した。柄にもなく必死で少女を助けるような行動をとったのもそのせいだろう。たった数日長らえて一体何の意味があったのかは分からないが、今度こそ終わったのだ。
意識がなくなるまでの刹那、何もかもが崩れ去った数日間の記憶が呼び起こされる。
いや、崩れる予兆はずっと前からあった。義賊を気取り悪政を敷く貴族にしか手を出さなかったアニキがだんだんと金に溺れ、欲にまみれ、大した悪でもない富裕層から盗みをはたらくようになったのに気付かないふりをしていただけだ。ついに押し入った先で善良な子爵に見つかり、驚いたアニキが子爵を死に追いやってしまったのが五日前だったか、十日前だったか。
「俺たちは強盗殺人犯を捕まえたんです! コイツです!」
役人に突き出されたときはまだアニキを疑っていなかった。ただの芝居、折を見て助けに来てくれると軽く考えていた。しかし、いくら待ってもアニキは現れない。とうとう石打ちの刑が始まり、頭から血が流れてようやく気付く。裏切られた、と。
──絶対に許さねえ。
かつて幼子だった彼は、物心がついたころにはもう貧民街の道端に捨てられていた。拾ってくれたアニキに恩はある。だが、どうして捨てられていたかなんてアニキは知らないだろう。
〈ヤルドゥ・スル・マイモン〉
オーゼスの口から聞こえるか聞こえないかほどの呪文が紡がれると、処刑場に暗雲が垂れこめ紫電が走った。暗雲と同じ色の髪を逆立て、妖しい紫色の目を光らせた彼の姿を映すかのようだった。
悪魔憑きの一族。命と引き換えに強大な悪魔の力をその身に宿し、暴虐の限りを尽くせる者がまれに生まれる。彼がそうだと分かるや否や、一族は幼子を遠い地に捨てたのだ。
悪魔を呼び出した彼はその力を使って処刑場から逃げ出し、盗賊団の隠れ家に向かった。
「オズ、お前……! なんでここに」
あんなに尊敬し憧れていたはずのアニキが目を見開いたまま床に倒れる。たった一発、たったこれだけか。かつて仲間だった全員を倒すのに、隠し持った小さなナイフさえ使わぬままだった。「地の王」にして金銭を貪る強欲な悪魔・マイモン。地獄にあっても大地を通り抜け金鉱を掘り出すというその力は、人が使う武器や防具に対しても遺憾なく発揮された。すなわち、相手が繰り出した武器は彼を傷付けることなく身体をすり抜け、一方で彼の拳はいかなる防具をも超えて相手に届いた。
元仲間たちのうめき声を聞きながら、ふと、もう義賊を気取る必要もないのだから殺してもよかったのだと気付く。身体に染みついた習慣は急には消えないな。とはいえもう一度全員を殺して回るのも面倒だ、終わりでいい。
轟音とともにひときわ明るい稲妻が走り、暗雲が割れた。
『──では契約通り、貴様の命をいただこう』
邪気をはらんだ声が聞こえ、視界の一部が霞んだ。左目の視力から食われたらしい。
『──うまいぞ』
首筋、左肩、左腕にじわじわと侵される感覚。
『──』
もうすぐ心臓に達するか。
『──』
……
『──気が変わった』
……ん?
『──眠い。五十年ほど寝る』
は? 何言ってんだてめえ!
虚空に向かって叫ぶが、もちろん誰にも届かない。
『──力は使わせてやるから好きにしろ』
悪魔・マイモンはその言葉を最後に、オーゼスの左腕で眠りに──
ついてんじゃねェ!
身勝手すぎる。左腕を叩きつけナイフで傷付けてみるも、反応はなく真っ赤な血が一筋流れただけだった。鮮やかな色に生きていることを嫌というほど実感させられる。いつしか雷雲も雷鳴も去り、空では小鳥が平穏そのものの声でさえずっていた。
頭が真っ白になる。どのくらい経っただろうか、我に返ったオーゼスはただその場から離れたい一心で逃げ、途中でもうベールランドにはいられないと悟って三日三晩逃げ続け、国境の山脈を越えた。隣国レイニカには行ったことがある。何とかなるだろう。
そうしてたどり着いたウィスカハルという街は異国の旅人や魔法使いのような部外者が行き交う場所らしく、簡単に入ることができた。無法地帯の街かと思っていた──あの暴力過多の自警団に追いかけ回されるまでは。まさか殺されるとは思わなかったが今となってはどうでもいい。むしろ死なせてくれたことに感謝すべきか。これでもう──
◇
「──盗む……の、は……」
「目が覚めたかしら?」
!? ありえない。どうして目が覚めるのだ。
周りを見れば死んだときと同じ森の中だった。顔の真上、木々の隙間からごく淡い光が差し込んでいる。朝日が昇るらしい。
どういうことだ。──あのガキは!?
身を起こそうとした瞬間激痛が走った。銃弾の雨にさらされた傷はどれも辛うじて塞がっているようだが、完治には程遠く全身が焼けるように痛む。しかも両手両足が縄で縛られており、オーゼスは起き上がれないまま再び地面に背を付けた。
「動かないほうがいいわ」
「……るせえ」
声を出すだけで生命力を削っている気がしたが、どうせ死んだ身体だ、どうなろうと構わない。それよりマーサを探さなければ。
「あ、ちょっと」
「……を、ガキを、見たか?」
「そうね、小さい女の子は無事とだけ言っておく」
彼の眼光に負け、女性がなだめるように少女の安否を告げる。無事を聞いた彼は、不思議なことにその一瞬だけ全身の痛みが消えたように感じた。
「分かった……無事ならいい」
返事をしながらオーゼスは少し冷静になった。起きるのは諦めて横になると、目の前の女性にもようやく関心が向く。考えてみればこの女は誰だ。ていうか、もしかして手足縛ったのこいつか?
「あなたもいろいろ聞きたいでしょうけど、まずは私の質問に答えてもらうわ」
彼の視線に気づき、女性の真っ黒な目が正面からそれに応えた。強い輝きを持つ黒曜石の目、同じ真っ黒の髪、艶のある褐色の肌。ここまでのやり取りだけでも聡明な人物だと思われるが、衣服は簡素で身分の高い者ではないらしい。よく見れば耳の先がとがっている。
「名前は教えてもらえるかしら?」
「隠すもんでもねえよ。オズ……じゃない、オーゼスだ」
女性は小首を傾げた。
「あら、オズも素敵だと思うけれど」
何気ない返事を聞いた途端、顔から血の気が引き全身が硬直する。驚いた、自分の口から出たところで何ともないが、他人からその名で呼ばれるのはまだこたえるらしい。すぐ平常に戻ったものの、オーゼスの様子を見ていた彼女はそれ以上踏み込むのをやめた。
「余計だったわ、ごめんなさい、オーゼス。私はシージャ。ここはエルフの集落の中よ」
エルフ。なるほど、どうりで耳がとがっているわけだ。一つ納得したオーゼスが態度を軟化させたのに対し、シージャの眼光は鋭さを増した。
「集落の周りには強い結界を張っているの。普通の人間は入れないどころか、結界があることさえ認識できない。あなた何者かしら?」
シージャの手にはいつの間にか弓矢があった。引き絞りこそしないが、矢尻はオーゼスの左腕に向いている。
「よく分かるな。そこ、左腕に悪魔がいる。契約したら居座ったから力を借りてんだ。結界ってのに気づいたのもこいつのおかげで俺は何者でもない。強いて言えば悪魔憑きって呼ばれることがあるらしいが」
「悪魔憑き……書物では読んだ覚えがあるけど初めて見たわ」
「確かに。普通は悪魔と契約して力を借りたら死ぬ。その後他人と会う暇なんかない」
シージャは彼の自虐を聞いてもまだ真剣そのものだった。次の言葉が重く発せられる。
「私たちを傷付けに来たわけではないのね?」
一番聞きたかったことなのだろう、黒曜石の瞳がぎらりと光る。強い視線に対抗し、オーゼスもまた目だけで肯定すると、シージャは矢じりで彼の手足を縛っていた縄を切った。
「……礼でも言えばいいのか?」
「いいえ、もう十分よ。見る目はそれなりにあるつもりだから。──あなたの左目と違って」
驚いた、この短時間で気付くのか。悪魔に食われた左目は視界が霞みほとんど見えていなかったが、外見上は鮮やかな紫色の右目とほとんど変わらないはずだ。
「次はあの女の子について教えてくれるかしら」
シージャが手を差し出す。そういえばマーサはどこだ。やむを得ず彼女の手を借りて立ち上がると、彼女はオーゼスを連れて大きな木の陰に向かった。近づくにつれかすかな呼吸が聞こえてきたが、子供にしても速すぎる間隔だった。
「そこにいるのか? どうなってる?」
大きな木を回り込む。マーサの姿が見え安心したのもつかの間、木陰に横たわった少女は明らかに苦しんでいた。色艶の失われた肌に頬だけは真っ赤に染め、大粒の脂汗が全身から噴き出している。オーゼスは触れようと手を伸ばした。
「待って」
伸ばした手をシージャが遮る。
「この子には一体何が憑いているの?」
「憑いて……って、こいつは俺とは関係ない。ただのガキだ」
オーゼスはありのままを話したが、彼女の表情はまだ信じられないと語っている。
「この子は強力なエルフの結界を越えて、死に瀕したあなたを助けた。大きな力を持っているのは間違いない。集落の皆に危険があったら困るわ」
「ねぇよ、危険なんて! それより、俺を、助けた!?」
オーゼスは銃で撃たれたとき以上の衝撃を受けた。
いや、反射的にシージャに対抗してしまったが、大きな力なら思い当たる節はある。マーサは刃物で首を斬られたにも関わらず生きていた。しかしそれ以上のことは、そもそも彼女自身については何も知らない。彼は仕方なくマーサとは会ったばかりということ、会ってから起きたことを順を追ってシージャに伝えた。
「そう」
シージャが漆黒の目でマーサを見つめる。オーゼスは居ても立ってもいられなくなり、少女の額にそっと触れた。焼け石のように熱い。
「何だよ、助けたって。どういうことだ」
彼があまりに混乱したのが伝わったのか、シージャは少し考えてから話し始めた。
「昨日、近くの結界に違和感があったから見に来たの。そうしたら結界の中にこの子がいて、結界の外にいる誰かの腕を握って引いていた。あなたを呼ぶばかりでどうしようもないから結界を少しだけ解いてあなたを中に入れたの。でも」一瞬、言いづらそうに間が空く。
「文字通り、瀕死だった。少なくとも私には助けられる状態じゃなかった」
だろうな。今こうして生きているほうがよっぽど不思議だ。
「何もできずにいたら、彼女が、あなたを助けた」
「……乱暴だろ、説明になってねェよ。マーサ、お前何したんだ」
シージャに詳しい説明を求めたところで無駄だと察し、オーゼスは少女に呼びかけた。反応はない。ただ熱に浮かされて苦しげな呼吸を続けるだけだ。ようやく警戒心を解いたらしいシージャが彼の横に来て座り、マーサの額の汗を拭った。
「マーサっていうのね。私の思いつきにすぎないけれど、彼女が治癒能力を持った魔法使いだとしたらいろいろとつじつまが合うわ」
「昔話か妄想の中にしかないだろ、治癒能力なんて。魔法一つで何でも治すって、ただの人間にそんなことできんのかよ。もし本当にいたところで世界中の王族やら貴族やらが争奪戦だろうな」
オーゼスはありえないと切り捨てたが、シージャは曖昧に首を振った。
「想像しやすいのはそういう力でしょうね。でも実際は便利な能力ばかりじゃない。書物の受け売りだけれど、相手を治すのに自分の体力が倍必要だとか、負傷者本人の力を消費しすぎてかえって悪化させてしまうとか、治癒魔法には現実的に『使い物にならない』力もたくさんあるらしいわ。彼女はおそらく自分が傷ついたときに自動で限界まで回復機能を発動させるんじゃないかしら」
実態とは合う。本当に治癒魔法なのだろうか。
「結界に入れたのも治癒魔法は先天性──生まれつきのものだからかもしれない。人間の魔法使いは普通、後天的に四属性の魔法を体得するけれど、生まれつきの魔法使いだったら人間よりエルフに近いと認識された可能性がある。だとしたら」
シージャは優しい手つきでマーサの頬を撫でた。
「この症状は無理に魔法を使ったせい、ということになる。本来は彼女自身しか対象にしない魔力をどうにかしてあなたに使った」
オーゼスの視線がマーサからシージャに移る。彼女の声は優しかった。だが、真意は別にあるのではないか。
「……裏を返せば、マーサがこうなったのは俺のせい、か」
「そうは言っていない、使ったのは彼女よ。今問題なのは原因が分かって治療薬も知っているのにその材料が足りないこと。集落にも持っている仲間は……」
マーサを撫でていた手の動きが止まる。褐色の指が小さく震えていた。
「いないのか。だったら俺が探す。何が必要なんだ」
「金貨が三枚」
「望みは金か、まあそうだよな」
「違う、薬の生成反応を進めるために使うの。だから金塊でも装身具でも構わないけれど、純度と量を考えたら一番分かりやすくて入手しやすいのが金貨なのよ。あなたが考えている通り、それでも高価で手に入りにくいけれど」
「思ったより現実的なだけマシだ。マーサを助けられるんだな?」
言うと同時に立ち上がる。全身を襲った痛みにめまいがするのは無視した。
「当てがあるの? 悪いけど私たちの集落に何かしたら許さないわよ。第一、エルフは人間の金銭を必要としないから金貨なんて持っていないわ」
オーゼスは了解の旨を伝えると、シージャが返事をする前に駆け出した。
左手を固く握りしめて使う覚悟を決める。問題は場所だ。領主の屋敷なら金貨くらいあるだろうが、昨日の今日でまた忍び込むのは危険すぎる。彼は一か八かの賭けに出た。
街から逃げて森に入るとき、少し離れて小さな村が見えた。あそこしかない。
◇
「……魔法具らしい……五十年前……、隣国と……全滅した……知ってる? ……一人で二百人……原因が……」
窓の外から様子を窺うと、部屋の中では若い男女が話をしていた。村で一番大きな屋敷に当たりをつけたものの、近づいてみれば大きいだけでしんとしており中には彼ら二人しかいない。しかも長髪の少年は旅装束で村の者ではないようだから、金髪の少女が屋敷の主か。
空振りかと思ったが、ふと少女が立ち上がり部屋にあった石の説明を始めた。はっきりとは聞き取れなかったがどうやら強力な魔法具らしい。
──ツイてる。魔法具なら可能性はある。
自警団に追われ街を逃げ回っていたときに怪しげな店をいくつも見かけた。魔法使いが集まる街ならば彼らを相手にした商売があってもおかしくない。足元にあった手頃な石を拾い次の手を考えていると、突然視界が揺れ全身が震えた。
何だ、と思う前にコツンと頭を叩かれる。見上げようとするとコツ、コツ、と頭上から無数の雹が降ってきた。マジで何だ──はっ、あいつら外を確認するんじゃ?
間一髪、オーゼスが柱の影の死角に身を隠したところで窓が開いた。少年の顔がのぞいて引っ込み、すぐに閉まる。少し間をおいて、屋敷の正面入り口の方向から走っていく足音が二人分聞こえた。
ツキすぎてるな。声には出さなかったものの、いくらか頬が緩むのは抑えられなかった。なぜかこの村の中だけ霧が立ちこめているのは不穏だが、雹はすぐに止み、目の前には無人の家と魔法具がある。
窓を確認すると鍵がかけられていた。だったら正面から堂々と入るか。オーゼスは屋敷の入り口側に回る。正面の入り口も鍵がかかっていたが、彼の左手は重厚な木の扉をすり抜け、内側から鍵を開けた。
地も壁もすり抜け金銭を掘る「地の王」にして強欲な悪魔・マイモン。もう盗賊団は壊滅したというのに、よりによってこれほど泥棒向きの力が左腕に残るとは。がらんとした廊下を進む途中、オーゼスは何度か意味もなく手を壁に突っ込んだ。目的の部屋はすぐに見つかり、中に入るや否や調度品や絵画には目もくれず木箱を目指した。直前でテーブルの上の皿に小さなパンが一切れ残っているのに気づき、考える前に口に運ぶ。
さて。オーゼスはやっと木箱に対峙し、左手を差し入れて中身をつかんだ。瞬間、手に弾かれたような感覚を覚える。取り出してみると宝石のような紅い石が手の中にあった。
「クソ、てめえ、余計なことしやがって」
窓からのぞいたとき、少女が持つ箱の中にあったのも、少年が角度を変えながらじっくりと観察していたのも、確かにただの石だった。そしてオーゼスが握る右手の中にも何の変哲もない石がある。魔法具と入れ替えるために拾ったものだが、二つは今や似ても似つかなかった。石をつかんだ瞬間の弾かれたような感覚を思い出す。強すぎる悪魔の力に魔法具が反応してしまったに違いない。
……まあいいか。
考えてみればただの石より紅い石のほうがよっぽどそれらしい。高値で売れる確率はむしろ上がったのではないか。オーゼスは紅い石を頂戴し、ただの石を木箱に入れてウィスカハルの街へと急いだ。
◇
店に入る直前、青い看板が目に入る。文字は読めないから店名は分からないが、いかにも魔女がかぶっていそうなとんがり帽子が描いてあるから間違いない。思惑通り、左手に行き先を委ねたおかげで魔法具の店にたどり着いたようだ。
扉を叩く。返事がない。
オーゼスは迷いなく取っ手に手を掛けた。なぜか鍵はかかっておらずカチャリと音を立てて扉が開く。一体どんな場所かと身構えて侵入するも、中はただの雑貨屋のように見えた。壁に沿って並んだ棚には大小様々な品物が陳列され、中央には一枚板の立派な勘定台が置かれているが、その向こう側には誰もいない。
ツキを超えて恐ろしさすら覚えながら彼は勘定台を乗り越えた。わざわざ売り物を調達するまでもなく、最初からここに来ればよかったか? しかし金貨が三枚もあるだろうか。金庫の類を探そうとしたとき、背後で扉が開く音がした。
!? 閉めたはずだ。
オーゼスが振り返った瞬間、カチャリと大きな音がして鍵が外れる。開いていたのではなく壊れていたのか。急いで勘定台の外へ出たのと同時に、二人の男が店に入ってきた。
……鳥だったか、虫だったか、オスとメスでこういう見た目のやつがいた気がする。先に入ってきた男は目がくらむほどの色彩といびつな形の上着を身にまとい、大きな帽子にこれまた大きな羽根飾りを付け、奇妙な細工の杖を手にした派手な姿。対して後に続く男は髪も目も服もさえない薄茶色で地味な姿。何に似ているか思い出せないのはもやもやするが考えている場合ではなかった。先に入ってきた男の奇抜な出で立ち、まさに魔法具店の店主に相応しい。
「……」
派手な男と目が合った。ちなみについ派手なほうに目が行くからであり、地味な男もオーゼスを見ている。
「君がそうか」
男はつまらなそうに言った。勝手に店に入ったオーゼスをとがめるどころか、中に彼がいると知っていたかのような態度だ。まさか、客が来たのを離れた場所から察知できるのか?
「どうした、早く石を出したまえ」
!?
派手な男が発した言葉に驚愕する。こいつ、本当に心が読めるのかもしれない。
オーゼスは一瞬ためらったが、さらにとんでもないことに思い至った。ここはレイニカだというのに、男は平然とベールランド語で話しかけてきたのだ。何もかも見透かされている。小細工は無駄だと悟って紅い石を取り出した。
「ふむ、これはなかなか……」
石を受け取った男は白手袋を外して素手で感触を確かめ、握る手に力を入れた。
オーゼスの左手が反応する。やっぱりこいつ、魔法使いだ。
魔力を込められた石の様子に変化はなかったが、男はそれで構わないといった顔をし、最後に光にかざして色を見てからゆっくりとうなずいた。
「確かに」
それを聞き地味なほうの男が進み出る。
「ではこちらを」
小さいが見た目よりもずっしりと重い布袋を受け取る。中から金属がこすれ合う音がする。オーゼスが半ば呆然としているうちに、派手な男が手袋を付け終わると二人はさっさと店を出て行ってしまった。
どういうことだよ……
奇しくも袋の中には三枚の金貨が入っていた。
何が起きたか全く理解できないが、とにかく目的は達せられたのだ。奴らが誰であったにせよマーサが助かるならどうでもいい。オーゼスは深く考えることはせず、再びエルフの森へと向かった。
◇
「やめろ、それ以上は腹が裂ける! あ、おい、まだ足も全部入ってな……」
森へ戻ると再びシージャが迎えてくれたが、非常に狭い穴から無理矢理結界内に引っ張られて身体がちぎれる寸前だった。文句を言おうとしたものの、彼女の顔にそれ以上の大事があると書かれていたため踏みとどまる。
「悪いけど結界のほころびは最小限にさせてもらったわ。あなた、本当に、本当に、私たちの集落へは行っていないわよね?」
オーゼスはうなずき、三枚の金貨をシージャに渡した。彼女が少しだけ表情を和らげる。
「すごい、手に入るなんて。すぐ薬を作るわ」
シージャが近くにあった木の家に向かったのでオーゼスも後に続いた。決して大きいとは言えない部屋の中に様々な道具や書物、薬草類が所狭しと置かれていたが、すべてがきちんと整頓され散らかった箇所は一切ない。部屋の一角、これまたきちんと整えられたベッドにはマーサが寝かされていた。
近づいたが彼女は苦しそうな呼吸のままで、呼びかけても相変わらず反応しない。悪化したようにも見えないのは一つ救いだが、単にこれ以上悪くなりようがないだけかもしれない。
「少し待ってて」
シージャは早速作業に取りかかっていた。三枚の金貨を白い土のようなものが入った鍋に放り込み、別の鍋ではあらかじめ並べてあった薬草や植物を手際よく煎じていく。独特の香ばしい香りが部屋に満ち、オーゼスをつかの間の眠りに誘った。
「マーサ……?」
「よく眠れたかしら?」
はっとする。そうだ、マーサはどうなった。シージャへの返事もそこそこにベッドをのぞくと、少女はまだ荒い息で呼吸を続けていた。大粒の汗も真っ赤な頬も変わっておらず、顔に触れると焼けるように熱いままだ。
「結構経ったはずだ、薬は!? まだなのか?」
「飲ませたわ」
「ふざけんな、じゃあどうして」
「薬はちゃんと効いてる」
「これのどこが!? 効かなかったんじゃ」
爆発しそうになる感情を、シージャの淡々とした答えが辛うじて止めてくれていた。オーゼスの疑いもあっさりと否定される。
「魔力の流れが戻ったから間違いないわ。あなたも左手なら分かるんじゃないかしら」
地の悪魔は生物を掘ることはしない。害はないと分かっていてもオーゼスの左手は少しためらってからマーサに触れた。確かに魔力を感じる。だが彼にとっては悪い知らせだ。
どうして、と声にならない声でつぶやくと、シージャが複雑な表情で彼を見つめた。
「マーサはあなたを助けようと魔法を使ったの。だから、薬が効いても治らないってことは、つまり……」
黒曜石の目が長いまつげの下で曇る。先を言おうか言うまいか迷っている様子だ。
その時、外から茂みをかき分ける音が聞こえた。エルフのとがった耳が素早く反応する。
「! 誰か来る。ごめんなさい、これ以上いてもらうのは困るわ」
クソ、マーサがまだこんな状態なのに。しかし、助けてもらったシージャに迷惑をかけるわけにもいかない。
「安心して、魔法の反動はもう治っているから。あとは……」
オーゼスがマーサを背負うと彼女は少女に毛布をかけてくれたが、今度も言葉の続きを口にすることはなかった。薬と金貨を渡される。マーサのために薬だけ預かり、金貨は突き返した。
「エルフには必要ないかもしれないが、取っといてくれ」
「? あなたが持っていれば使い道はあるでしょう?」
「手当てしてくれた礼だ。助かった。他にやれるもんもないんでな」
「そう。だったら受け取っておくわ。二人とも元気で」
シージャは彼を急かしながらも温かく見送る。結界を出た瞬間、オーゼスは木々しかない森の真ん中にいた。シージャの姿も彼女の家も幻だったかのように消えてもう認識できない。
「ん……」
「あっ、マーサ! 気付いたのか?」
「オーゼ……? なん……で」
どうしたらいい。
マーサの意識が戻ったのに喜ぶことはできなかった。呼吸は苦しそうなまま、背中からは火でも背負っているかのような体温が伝わってくる。しかも自然に治ることはないと左手の悪魔が確信していた。
とにかくその場を離れようと歩き出す。歩みはだんだんと速くなる。
ああ、何日か前にも同じようなことをしたな。あの時は自分一人だからどうでもよかった。三日三晩逃げ続けて知らない街へ行けたし、金や食い物は盗んだ。だが背負った少女は違う。彼女には逃げる必要も、泥棒なんかに身を落とす必要もない。
──だったら、正々堂々こいつを連れ出してやる!
折しも足元が道らしくなり、まばらに家屋を見るようになった。遠く視界に入る建物の姿がだんだんとはっきりしてくる。ウィスカハルの街に戻ってきたのだ。オーゼスはあえて街の中心部へ向かった。自警団に見つかればかえって好都合、目的地まで連れて行ってもらうつもりだった。
こいつらの──というか指示している領主の──異常なまでの攻撃性を思い出すまでは。
「下がれよ! 話を聞けって言ってるだろ!」
「問答無用! 領主様は犯罪者がどうなろうとお構いなしだ」
自警団の一人が広場の近くで彼を見つけるや否や、あっという間に近くにいた警員たちが集まった。オーゼスは交渉を試みるも、返答は明後日の方向に放たれた銃弾だ。街行く人々は相変わらず銃声を気にも留めていない。
「聞けって……うわっ、てめえ、ガキに当たったらどうすんだ!」
「そのガキは何しても死なねえよ」
背後から聞こえた別の声にそうだったと思い出す。しかし、シージャの見立てによると彼女の能力は治癒魔法だ。いくら一瞬で治るとはいえ、傷を負った事実は、感じた痛みは、なかったことにはならないはずだ。
マーサのことを思った隙をつかれた。
真正面から銃で額を殴られ、倒れそうになるのを何とか耐える。怒りと出血で視界が赤く染まっていく。彼が振り返って受けなかったら、これをマーサに当てる気だったのかよ?
警員を蹴り飛ばして距離を取る。背後は危険だ。オーゼスは少女を前に抱きかかえた。話が通じないならこいつらに足止めされている場合じゃない、一刻も早く元凶のところへ行かなければ。全速力で目的の方向へ駆け出した。
「はあっ……う……」
「揺れるけど我慢してくれ、少しだけだ」
マーサがオーゼスの服をぎゅっと握る。震えていた。
悪ィ、怖いよな。彼女を抱く手に力を込める。広場の向こうの豪華な屋根を見やった。見えているのだ、もう少し、なのに。
気付いた時には自警団に囲まれ、オーゼスはやむを得ず建物の陰に身を潜めた。こっちは全速力で走ったってのに、どこまで道を知り尽くしたらそうなる。それとも新手が来たのか? 飛び出す機会をうかがっていると足元にぽたぽたと赤い雫が落ちるのに気づき、額を拭おうと腕を上げたが、ひどい痛みに途中で止まった。体中どこが痛いのかもよく分からない。マーサが怪我をしていないかと少女の身体を確かめる。傷はないがひどく震えたままだ。だるそうに閉じていたまぶたが半分だけ開き、蜂蜜色の潤んだ瞳と目が合った。
「ね……マーサは、死なない……から。守らなくて、いい……」
小さな涙がこぼれた。なんでだよ。死にそうに苦しいだろうに、泣きながら言うことが、それか?
「目ェ閉じてろ。次起きたときは自由にしてやる」
「で、も……」
「見たくねえんだよ! もう人が傷つくとこなんて!」
図らずも発せられた大声に一番驚いたのはオーゼス自身だった。
間違えたんだ。
アニキが貴族を殴っちまったとき、倒れた直後はまだ生きてた。アニキがとどめを刺すのを止めなきゃいけなかったんだ。後悔は抱えていくしかないが、あれで最後だ。これからは助けたいものがあれば命をかけてでも挑んでやる。
しかし、少女の意志も強固だ。大人しく従ってはくれなかった。
「でも……オーゼスが、痛いこと……し、な」
「死んでるからどうでもいいんだよ、俺は! もう二回も、それも一回はマーサに助けられた。お前に借りを返せるならどうなっても……」
「マーサなんて、何回も死んでるよ?」
なんてことを言うのか。しかし、これでオーゼスの心は完全に決まった。
分かったよ。まだ間違ってた。
初めて、自ら使うためにナイフを抜く。
マーサの身体から伝わっていた熱が引き、ナイフの刃にぱっちりと開いた少女の目が映った。辛そうだった呼吸も元に戻っている、高い声を上げられるほどに。
「きゃあっ!」
つかまってろ、と言う前に駆け出したせいでマーサが悲鳴を上げた。もちろん落とさないようしっかり抱いている。驚く彼女の声も実はちょっと楽しげだ。
自警団に囲まれていたが、振り下ろされた剣をナイフでいなして先へ進む。銃で撃たれても関係ない、そんな精度の低い武器の攻撃などまず当たらないのだ。運悪く向かってきた弾丸だけをこいつで斬ってやればいい。目の端に捉えた影にナイフを向けると鉛玉は真っ二つに割れ、オーゼスが行く道を開くように左右へ飛んで行く。
「やったあ!」
彼が腕に抱えた少女は身を乗り出して完全に楽しんでいた。危ないんだが……苦しんでるよりはずっといいか。
「まずい!」「早く止めろ!」背後から聞こえる声に焦りが混じり始める。ついに領主の屋敷まで来たのだ。
庭園を突っ切る。きれいに刈り込まれた植木の緑が初夏の日差しに映え、所々に赤や橙の花がつき目にも鮮やかだ。マーサが何かつぶやいたが観賞している余裕はない。一目散に建物へ向かうオーゼスの前を白い蝶がひらりと横切り、わずかに気を取られた。
「オーゼス、ちょうちょ……」
「領主様!」
はっとする。ここに領主がいるの──
「何事だ」
ウソだろ。オーゼスの眼前に剣が、その先に領主の姿があった。一体どこから。
「貴様、昨日の……? その子供を」
領主の言葉を待たず、わざと大きな音を立てるようナイフを思いきり剣にぶつけた。一瞬だけできた隙をついて距離を取る。領主があえて隙を見せたようにも思えたが知ったことではない。敵をあなどり油断するのは自由だ、最大限利用させてもらう。
マーサを下ろして後ろにかばいながら、こっそりと武器を左手に持ち替えた。
「遠慮はしねえ。てめーを倒してマーサは連れてく」
領主はただ剣を構えてオーゼスを睨んだ。鋭い銀色の視線が受けて立つと言っている。
先手必勝。領主が彼を見極める前に仕掛けた。
首を狙うふりをする。読んでいたとばかりに剣が動く。本当の狙いはそこだ。ナイフを受けようと構えた剣を、オーゼスの刃がすり抜けた。
「!」
殺す気はない。ナイフを寸止めする。
しかし、領主の首はすでにそこになかった。
避けられた!?
左側から殺気を感じたときにはすでに反撃を食らっていた。左腕だから剣がすり抜けたものの、他の部位だったら斬り落とされていただろう。
「おかしな腕だ。魔法使いか?」
どっと冷汗が流れる。こいつ、強え。
だが魔法と言われて思い出した。シージャから貰った隠し玉──マーサに何かあったときの薬と一緒に、一つだけ渡された魔法具を。エルフが得意とする結界魔法の古典にして頂点、煙玉を投げつけるとオーゼスも領主も一瞬にして五色の煙に包まれた。
「オーゼス!」
マーサまで見えなくなる前に素早く少女の手を引き煙の中を逃げる。すげえなこれ。魔力からして領主は彼の気配すら追えないだろう。残念なことに効果はあまり長くないようだが、それでも助かった。
マーサを連れて屋敷の中に飛び込む。すっかりよくなったらしく、彼女は自分の足で走ってオーゼスの後ろをついて来てくれた。
「マーサ、どうしたらいい?」
どうする。悪魔の力を使ってでも領主を倒そうと思っていたが、当てが外れた。
答えられない代わりに左手の拳を握る。できることは何でもやるしかない。
屋敷内を移動してたどり着いた先は大広間だった。使用人たちが慌ただしく物を運びテーブルを整えている。考えてみれば昨日から行事か何かの準備をしている様子で、昨日オーゼスが盗みに入れたのも、マーサが逃げられたのも、そしてさっき外から簡単に屋敷内に入れたのもこのせわしなさのおかげだ。何か使えるものがないかと観察して瞬時にそれを見つけた。広間の脇に大きなガラスケースが二つ置かれ、一つには剣、一つには盾が飾ってある。見張りらしき者はいるが、ケースに取り出し口がないからか油断しきっている。
背後からケースに忍び寄り、左手を入れて剣を盗った。重厚感のある長剣だ。手によく馴染む柄、さりげなくあしらわれた宝石、丁寧に磨かれ鈍い光沢を帯びた鞘、第一級の名品に違いない。
「あっ、どろぼう!」
思いがけない非難の声にオーゼスは慌てて後ろを、というか斜め下を振り返った。まあ当然か。彼女の手を引いて弁明を試みる。あのなマーサ、領主ってのは金も物も人よりたくさん持ってんだ。ちょっと借りるくらいいいんだよ……
逃げようとしたオーゼスだったが、広間を出る前に自警団や使用人たちに囲まれていた。どこからか再び領主が姿を現す。予想通りだ。
「最後だ。その子供を渡せ」
「人を物みたいに言うな。こいつはお前のじゃねーよ」
刃を向けられたオーゼスはマーサをかばいながら、さっき盗った剣を鞘のまま領主に見せつけた。
「もしまだ手ェ出す気ならこれで相手するぜ?」
柄に手をかける。
「何!? なぜそれを貴様が!」
思い付きでやった脅迫は想像以上に効果的だった。領主は真っ青になってガラスケースを見、割れていないのに中が空なのを確認すると驚きに目を見開いた。気をよくしたオーゼスは追い打ちをかけるため剣を顔の前で真横に掲げ、少しだけ抜いてみる。
ほんのわずかに鞘から刃がのぞいた瞬間、視界を奪うほど強い光があふれ出た。
眩しい! 何だこれ。
「剣を収めろ!」
領主が声を荒げる。どうする。光がオーゼスやマーサを害する感じはしない。一か八かだ。彼は光の向こうの領主を見据えてからゆっくりと、剣をさらに鞘から出した。
「!」
放たれる光がますます強くなる。暴れているかのようだ。
領主は眩しさにか悔しさにか、きつく目を細めてとうとう叫んだ。
「剣を戻せ! 戻せば子供は好きにしろ!」
「! 宣言したな? 約束は守れよ」
オーゼスは半分まであらわになった剣を鞘に戻し、できるだけ雑に領主の足元へ放った。光る剣なんて珍しいうえ、柄にあしらわれた宝石類は手放すのがちょっと惜しいくらいだったが仕方ない。マーサと交換なら安いものだ。
領主は投げ捨てられた剣を優しい手つきで拾い、優しさとは程遠い声をオーゼスの背中にぶつけた。
「もしその子供が私の仇なら再び追うだけだ。覚悟しておけ!」
はあ。仇って何だよ、もう会うことはないな。行こうぜ。
小さな手を引く。少々番狂わせはあったが、自分が死ぬことなしに正々堂々マーサを連れ出すという目的は達成した。十分だ。初夏の日差しにみずみずしく光る緑を楽しみながら庭園を抜け、二人は屋敷を後にした。
◇
「オーゼス、これおいしい!」
橙色の小さな果実は確かにとても甘くて美味しかった。ホレン……何だったか、さすが店主のおすすめだ。もっと持ってくればよかったか。まあ領主の金で食べた料理ですでに満腹だ、デザートは腹八分でもいいだろう。
オーゼスとマーサはウィスカハルの街外れを歩いていた。街からは早く出るべきだろうが行く当てもない。曖昧な彼らを映すかのように黄昏の空もまた曖昧な色に染まり、空の色を透かしておぼろげな満月が昇るところだった。行き先はこの剣に決めてもらうか──などと考えたわけではないが、オーゼスはふと例の剣を取り出してみる。
「えっ! どうして持ってるの!」
素直に驚き蜂蜜色の目を見開いたマーサを見、思わず口角が上がった。ふっ、泥棒をなめてもらっては困る。屋敷内で似たような剣をもう一本盗んでおき、返す寸前にすり替えるくらい造作もなかった。剣を少しだけ抜くと再び鞘との隙間からまばゆい光が漏れ出す。彼は刀身をすべて鞘から抜き放った。
「わあ、きれい」
あふれた光はオーゼスとマーサを強く照らした後、ようやく行き先を見つけたと言わんばかりに一直線に伸び、天空と地底を繋ぐ柱のようにそびえ立った。左手の悪魔が反応した気がする、思ったより凶悪な代物かもしれない。少々弱気になり彼は剣を鞘に納めた。
「すげェ剣も手に入れたし、何でもできるな。マーサはやりたいことあるか?」
「えー、えっとね、まずはちょこれーとが食べたい。おいしいんだって」
ちょこれーと? 初めて聞いた、食い物だろうな?
「あとはね、宝石ウサギさんとお友達になってね、ユニコーンも仲間にして角にお花を飾ってあげるの。どこにいるかな」
どこって、どっちも架空の動物だな。
「オーゼスは? 何したい? あっ、でもちょっと待って……」
そうだな、俺は……
「また聞くね。……眠くなっちゃった」
ん?
マーサのまぶたが半分閉じ、小さな手がオーゼスの腕をつかんだ。そのまま彼に寄りかかる。預かる体重がどんどん増える。抱え上げると少女はすでに小さな寝息を立てていた。どんな力を持っていようとあどけない寝顔はただの子供だ。微笑ましく彼女を抱く。
と同時に彼の中で何かがざわついた。
既視感。
つい最近、同じ体験をした気がする。視線が少女から彼女を抱く左腕へと移る。そこには眠ったものを起こそうと躍起になって自分でつけた傷跡が残っていた。
地の大悪魔・マイモン。こいつまさか──
オーゼスは反射的に左腕から目をそらした。前を向く。そう、王都だ、王都へ行こう。大きい街ならマーサが楽しめることもあるはずだ、剣を売るにも遠くて大きな街がいい……悪魔の本当の姿を想像しまいと必死になるオーゼスの背で、不思議な剣はゆっくりと輝きを強め、今や鞘から抜かなくとも光が漏れ出すほどになっていた。天と地を一直線に繋いで光の線がきらめく。目立つが、暗くなり始めた道を行くにはちょうどいいか。彼は光る剣と少女とともに一歩を踏み出した。自由への旅路の始まりだ。
光の線を追って剣を取り返しに来た領主がその旅路に加わるのは、また別のお話。




