五.陰陽師
「僕を弟子にしてください!」
やっと言えた。絶対にこの異国の地で強くなって帰る。少年は頭を下げたまま、左手に持った水晶玉をぎゅっと握りしめた。
◇
祖国、先明国からここベールランド王国まで海路で三月。美しく広大な異国の港に感動したのもつかの間、水晶玉の製作者を探し回り、彼の居場所を見つけるのにさらに三月。隣国レイニカとの開戦が噂され情報収集もままならない中、なんとかここまでこぎつけたのだ。まだ冷たい春風に吹かれて町外れの家を訪ね、叩いたドアが開くや否や、間髪入れずに頭を下げた。
「僕を弟子にしてください!」
「……。あの、兄にご用でしょうか? 呼んできます」
鈴を転がすようなかわいらしい少女の声がし、遠ざかっていく。恥ずかしさに顔が熱くなり閉まる扉がぼやけて見えた。
「お兄ちゃん、お客さんが来てるよ」
「客? 呼んでない、誰だ」
「外国の人だと思う。怪しい人」
漏れ聞こえた声にショックを受ける。確かにいきなり弟子にしろは怪しかったかもしれないけど……と少女の言葉を反芻してはっとする。彼女はきっと「見知らぬ人」と言っただけだ。語学力が不十分なのは仕方ない、でも間違った解釈をして落ち込むのは時間の無駄だ。
再び扉が開く。今度は背の高い男性が現れたのを確認してから頭を下げた。
「僕を弟子にしてください!」
「はあ。……子供?」
「違います!」
少年は短いおかっぱの髪をひるがえし、さっと顔を上げる。この国に来てからというもの子供に間違われてばかりだ。それで聞き込みがはかどらなくては困るため、訂正する速度と声量はなかなか鍛えられたのではないか。濃紺の目に力を込めて相手を見据える。
「僕は折塚宙之介、十五歳です! 貴方の弟子になるため先明国から来ました!」
「……えーと」
未来の師匠は何一つ呑み込めていない顔で頭をかいた。無造作に結んだ髪が一層乱れるのもお構いなしだ。
「悪いが弟子を取る気はない」
閉まりかけた扉を、宙之介は慌てて引き止めた。
「そこを何とか! お願いします。弟子がだめなら他はどうですか? 見習い、部下、奴隷、何でも構いません! せめて一度だけでも貴方の仕事を見せてください、ケルターさん!」
あまりの剣幕に未来の師匠は一歩下がったが、話してみる気にはなったようだ。
「お前、俺を知っているのか?」
「ここを訪ねるときにお名前はツヴェン・ケルターさんとお伺いしました。それより僕が知っているのはこれです!」
宙之介は扉を引いていないほうの手から水晶玉を差し出した。
決して大きくない彼の手にすっぽり収まるほどの水晶玉。しかし、祖国の陰陽寮にあった宝具の中でこの玉の力がずば抜けていた。魔力の透過と反射が計算しつくされていて、陰陽術の力を何倍にも増幅し、一点に集め、凄まじい一撃を放つことができる。
「水晶!? ちょっといいか」
ツヴェンが水晶玉を目にした瞬間、彼の金色の目と宝玉の双方が輝いた。製作者だと確信した宙之介は大切な水晶玉をあっさりと彼に渡す。職人の力強い手が水晶玉を確認した後、金色の目が宙之介の顔を見た。
「驚いた、確かに俺が磨いた石だ。どっから来たって?」
「先明国……あ、えっと、サーキ、です。大陸の東にある島国です」
「サーキ……よく知らないが、知らないほど遠い国か……」
水晶玉をじっくりと眺めてツヴェンは何やら考え込んでいた。石を回しながら、石が世界を回った旅路に思いを馳せたのかもしれない。
しばし沈黙が続いた後、家の中から少女の声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、お客様なら入れてあげたら? 扉を開けたままだと部屋が冷えちゃう」
「あ、ああ。……そうだな、遠くから来たみたいだし、とりあえず話くらいなら」
「本当ですか! ありがとうございます!」
宙之介はもう一度深く頭を下げてから師匠の家に足を踏み入れた。
「俺はツヴェン・ケルターだ。名前はもう知ってたみたいだが」
「はい、師匠! 僕は折塚宙之介と言います。宙之介と呼んでください」
「ソラ、ナ、シュ……ケ?」
「……ソラ、でいいです」
招かれた部屋はごく普通の居間だった。もちろん畳や襖がなく、高いテーブルと椅子があり、壁にレンガが積まれているのは異国文化という意味では物珍しいが、魔法具を生み出しているのは別の場所のようだ。
「ソラ、妹のサクリアラだ」
「こんにちは」
家を訪ねたとき最初に現れた少女がティーセットを持って立っていた。
「こんにちは。先程は失礼しました。あなたの兄上に弟子入りしました、ソラです。よろしくお願いします!」
「おい、まだ弟子にするとは」
「ふふっ、いいじゃない、可愛い弟子ができて。私はサクリアラと言います。よろしくお願いします、ソラ」
「サク、ラ?」
そう言った瞬間、隣から大きな手で頭をはたかれた。
「妹はサクリアラだ。二度と間違うな」
「お兄ちゃん!」
「いえ、違うんです!」
理不尽だ、宙之介の名前を全然言えなかったのは師匠のほうじゃないか。対して、ある程度ベールランド語を習得してきた彼はサクリアラの名が聞き取れなかったわけでも、発音できなかったわけでもない。
「僕の国にサクラという木があるんです。ちょうど今頃、春に花を咲かせる木で、満開になると辺り一面を桜色──えっと、とても淡い紅色──に染め上げて、散るときは一斉に散って、それはそれは美しいんです。あなたの名前と姿からその花を思い出しました。だから、サクラとお呼びしてもいいですか?」
「まあ! 喜んで」
彼女――サクラはぱっと頬を染めて微笑んだ。ああ、桜だ、と思う。柔らかい薄茶色の髪が光に透けるとほんのりした桜色に見えるところも、新芽のような淡い若草色の瞳も。
「サクリアラ、何か勘違いしているかもしれないが、ソラはお前と同い年だそうだ」
「ええっ!」
危うく落としかけたティーセットを宙之介とツヴェンが支える。その後で、少し落ち着いてからサクラは紅茶を淹れてくれた。果実のような華やかな香りがしてとても美味しい。
「さっきはごめんなさい、てっきり……その、年下かと」
「いえ、もう慣れました。それよりお茶をありがとうございます。美味しいです」
「ありがとう」
「サクリアラのお茶は絶品だからな」
「はい。師匠もありがとうございます。明日楽しみにしています」
ツヴェンは明日仕事の様子を見せると約束してくれた。今すぐにでもお願いしたいところだが、どうやら今日は週に一度の休日らしい。宙之介の真っ直ぐなお礼に対して、彼は照れたように目を逸らす。
「あー、そのシショーってのは続ける気なのか?」
「そうですね、師匠は師匠ですから」
小さなため息が漏れたが、ツヴェンの表情は呆れ半分、残りの半分は柔らかい笑みだ。宙之介はティーカップに残った紅茶をゆっくりと飲み干す。ここまで来た達成感に満ち、ほんの雑談のつもりでツヴェンに尋ねた。
「ところで、師匠はどんな魔法を使うんですか?」
「魔法って、また大げさだな。ただ石の声を聞いて磨くだけだ」
「? 土属性、の一種でしょうか?」
「土? いや石だぞ。何の話だ?」
「ですから魔法です。僕の国では『陰陽術』と言いますが、こちらでは『魔法』と言って風、火、水、土の四属性に基づいていると」
「待て待て、だから何の話だ。俺は魔法なんか使えない。ただの宝石研磨の職人だ」
「ええっ!?」
宙之介はそこで初めてツヴェンが本当に魔法を使えない可能性に思い至り、あまりの驚きに叫ぶと椅子から立ち上がった。
「魔法使いではない、ということですか……? でも、そんな! だってこの水晶、魔法具としてものすごい力を持っているんですよ! 魔力が完璧に透過して反射して、強力な術を発動することができて……魔法使いでもなければこんなもの作れません!」
ツヴェンの水晶玉を本人の眼前に突き付ける。
「そう言われてもな。その水晶が丸くなりたいっつうからしてやっただけだ。魔法じゃなくて技術で」
「そんな……!」
目の前が暗くなる。はるばる異国まで来て、やっとの思いで探し当てたというのに。
弟子入りした相手は魔法使いではなかった。
◇
「どうする、ソラ。見るだけ見てくか?」
翌朝、朝食を食べ終わるとツヴェンが声をかけてくれた。昨夜の宙之介の落胆ぶりを知っているから、できるだけ負担にならないようにと軽い言い方で誘ってくれたのだろう。宙之介はその気遣いを心から申し訳なく、そしてありがたく思った。
「はい! 昨日一晩考えたんです。魔法なしでこれだけの魔法具を作れるなら、むしろ学ぶべき技術であると。弟子になりたい気持ちは変わりません。よろしくお願いします!」
改めて深く頭を下げる。昨夜一睡もせずに出した結論だ、嘘はない。
「それに、昨日は結局泊めてもらいましたから。一宿一飯──正確には二飯とお茶まで──その恩はお返しします」
宙之介はサクラにも頭を下げた。
「そんな、私は大したことはしてないよ。口に合ったならよかった」
「じゃあ行くか。仕事はともかく、工房の奴らにも魔法使いを知らないか聞いてやるから。あんまり期待はできないが」
「はい!」
工房はツヴェンとサクラの家のすぐ近くにあった。聞けば彼らの家はもともと職人たちの仮住まいとして建てられたもので、近年では泊まり込むような仕事は減ったため、ツヴェンが身一つで工房に来たときに当時の工房長が貸してくれたそうだ。
「おはよう」
「おはようございます!」
ツヴェンのあいさつを追った聞き慣れない声に、職人たちが一斉に顔を上げた。七、八人はいるだろうか。何やら大きな装置を回していた者、刀鍛冶が使いそうな工具を扱っていた者、作業台に向かっていた者など、皆がそれぞれの手を止めて好奇の目で宙之介を見た。
「何だソイツは。隠し子か、ツヴェン?」
豪快な笑い声が響く。
「こいつはソラ。しばらく見学するからよろしく頼む」
「師匠の弟子のソラです。よろしくお願いします!」
「おう、よろしく」
「あー……、それから」
ツヴェンは言いづらそうに仲間の顔を見回した。隠し子とからかわれても動じなかったのはもっときつい冗談が後に控えていたからだ。
「誰か、魔法使いに知り合いはいないか?」
全員がぽかんとしたあと、どっと笑いだす。
「どうしたんだよツヴェン」
「ガキ連れてきたと思ったら魔法使いって」
「子守は大変だな」
ツヴェンは野次には答えず宙之介のほうに向き直る。
「すまん、ソラ。この通りだ」
「い、いえ……皆さん、どうぞよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた彼を、ツヴェンが奥の作業台まで引っ張った。機械の中に泥水と大皿のような円盤がある。
「これが研磨機。研磨剤はコールの店のA400」
彼はあっという間に準備を整えて円盤を回すと、どこからか小さな緑色の石を取り出し、泥水にくぐらせてから円盤に押し付けた。シューというか、ザーというか、形容しがたいが石が削れていると分かる音がする。しかし、長い指と泥に隠れて様子はよく見えない。
「あの、師匠の機械だけ泥だらけで汚れてませんか?」
宙之介は周りを見回した。似たような円盤に向かっている者もいるが、手にも機械にも泥は付いていない。
「これは手で研磨するための機械だ。他は違う」
ツヴェンはそれだけ言って作業を続ける。指先が繊細に動き、時々ちらりと見える小さな石が角を落とした四角形に整えられ、緑の色味を増していた。
「できた」
石の形を確認し、ツヴェンがつぶやく。
「もうできたんですか! 早いんですね」
「ああ、いや、できたのはこの工程だけで、まずは大まかな形をだな……まあ見てれば分かるだろ」
隣の研磨機に移動して作業を続ける。さっきより削る音が弱く、同じくらいの時間削っていても石の形はさほど変わらない。代わりに、磨かれるたび緑色の輝きが増していく。途中、何度か円盤や研磨剤を変えるのを手伝った。
「これで二十四面」
どれだけ経っただろうか、ようやくツヴェンが泥、もとい研磨剤の中から石を取り出すと、美しい長方形の宝石と化していた。
「わあ、きれいです! これは?」
宙之介の口から思わず感嘆の息が漏れる。このときばかりは目的も何も忘れ、ただただ深い緑色の輝きに心を奪われた。
「エメラルド。こいつはちょっと小さいが色はいいな」
「だけどさっきはここまでの色ではありませんでしたよ。こんなに変わるなんてすごい、まるで魔法みたいですね!」
子供のように興奮して師匠を褒める宙之介に、ツヴェンはまんざらでもない様子だったが、すぐに切り替えて職人の顔に戻った。
「次。続けるぞ」
「え」
「まだ形ができただけだ。全面傷一つなくなるまで磨く。こいつは特に滑らかな表面をご所望だ、研磨剤変えてくれ」
「は、はい」
まだ完成していなかったのか。それに作業が進むほど宙之介に手伝えることは減っており、研磨剤を変えた後はおそらく見ているだけだろう。どうしたものかと思案していると、顔に出したつもりはないのに、すぐツヴェンに見抜かれた。
「ん、まあこの後は見ててもほとんど変わらない作業の繰り返しだな。そろそろサクリアラが来るから午後はそっちを手伝ってもらうか」
「えっと」
何と返すべきか分からず答えに詰まる。
「あいつには消耗品の買い出しとか道具の手入れも頼んでる。仕事と無関係じゃない」
「なるほど、それなら喜んで。あ、いえ、もちろんそうでなくても手伝いますが」
「決まりだな、こっちにいても眠くなるだけだろうから」
「そんなことはありません!」
「昨日寝てないのにか?」
「えっ、どうして……いえ、だとしても師匠の前で寝たりは……」
「今朝自分で言ってたぞ。お、噂をすればだ。もう昼だな」
宙之介が首を振っていると、聞き覚えのある声が工房に響く。
「皆さん、お疲れ様です。お昼の準備ができましたよ」
サクラだ。助かった。自然に師匠との会話を切り上げて食堂へ向かう。
「サクリアラ、午後の仕事はソラと一緒にやってくれるか?」
「うん? いいけど、ソラはお兄ちゃんの仕事を見たいんじゃない?」
ツヴェンの申し出に、サクラは昼食の鶏肉を薄いエールで喉に流しながら答えた。兄は付け合わせのジャガイモをフォークで刺したまま困り顔になる。
「磨いてるのエメラルドでな。午後は仕上げだけなんだ」
サクラはエールをもう一口飲んでそれは大変と苦笑した。
「お兄ちゃん、仕上げのときは周りも時間も忘れてずっと磨いてるもんね。分かった、ソラ、午後は私と一緒でいい?」
「もちろん、よろしくお願いします!」
「じゃあ早速、皆が食べ終わったら片付けね」
昼食の片付けから始まり、掃除、買い出し、備品の手入れや補充をこなしているとすぐ夕方になった。
「ソラ、お料理もできるんだね」
「はい、少し。サーキにいたときにやっていました。もう半年ぶりですが」
夕食の準備を手伝っていると祖国の陰陽寮での生活が思い出される。
「僕たちの仕事は基本夜にやるんです。だから昼間手が空いているときは料理や掃除を自分たちですることもあって」
「へえ、すごい」
「サクラのほうがすごいと思うよ。工房の生活面をほとんど全部一人で支えていて」
今日一日彼女はずっと忙しく動き回っていたが、今も疲れた素振りを全く見せない。素直に称賛すると彼女はありがとうとはにかんだ。
こうして、ツヴェンやサクラの仕事を手伝っているうちに目まぐるしく一週間が過ぎた。
その日ようやく研磨機に触らせてもらい、明日は何をするかと期待していた宙之介だったが、週に一度の休日は工房も休みらしい。サクラと翌日のための買い出しをして帰路につく。
「火を使うのもだめなんだ」
「そう、明日はお仕事もお料理もお休み。ソラの国は違うの?」
町からの帰り道は人がまばらで、まだ冷たいが優しい春風が穏やかに吹いている。サクラと他愛もない話をしながら歩くこの時間を早くも気に入っていた。
「火を使っちゃいけない日はなかったかな」
「そっか。最近は町でも厳密に守らずにお店を開ける人とかいるんだけどね」
「じゃあ僕はそっちの仲間に……」
「もう、お兄ちゃんみたいなこと言わないで。ソラだってお休みの日はあったでしょ」
「うん、でもいつ仕事になるか分からないから……ここで言うと、工房そのものはずっと開けてたよ。職人は順番で休んでた」
「ふうん? 大変なんだ、どんなお仕事なの? あれ? 魔法使いがお仕事なんだっけ?」
サクラは混乱したように小さく首を傾げた。夕焼けに染まり始めた光が彼女を照らし、柔らかい髪が桜色に光る。眩しいほどだ。
「ねえサクラ、宝石職人になるにはどれくらいかかる?」
「えっ、うーん、五年くらいかな? お兄ちゃんがアンベルさんに、あ、亡くなった工房長さんなんだけど、認めてもらったときは十年経ってやっとって言ってたような」
「……」
「ソラ?」
ふいに立ち止まった彼に合わせて、サクラも足を止めて振り返った。
「たった数日だけど、師匠たちを見て薄々思ってた。僕はそんなにここにいられない」
「えっ……? えっと、遠慮せずにいてくれていいよ。ソラのおかげで私すごく助かってるし、お兄ちゃんだって言わないけど本当は弟子ができて嬉しいって思ってるんだから」
「ありがとう、でも、そうじゃなくて。僕の国には妖っていう怪物がいて、こうしている今もきっと人や町が襲われてるんだ。僕たち陰陽師の仕事は妖を退治すること。一刻も早く魔法具を作れるようになって帰らなきゃ」
宙之介の言葉を聞き、サクラは目を見開いて絶句した。宙之介ははっとして、買い物袋をちぎれるほど握りしめていた手を緩める。
「そ、それで相談なんだけど、師匠にどう伝えたらいいかな。無理矢理押しかけて弟子入りしたのに何年もいられませんなんて言い出しにくくて」
宙之介は笑ったがサクラは真顔で黙ったままだ。
「ごめん、事情を話すつもりはなかったんだ。ただ、師匠の仕事を見て間に合わないと感じてた矢先に、明日は休みだって言われて……焦ったみたいだ。忘れて。僕の国の話はサクラには関係ないから」
彼女はまだ何と言ったものか分からない様子だったが、最後の言葉を聞くとゆっくりと首を横に振った。
「確かに、関係はないかもしれない。でも、考えてみれば、ソラが何か目的のために来たのは最初から分かってたはずで」
今度は彼女が紙袋をつぶれるほど強く抱いた。
「こんなことしてる場合じゃなかったよね、ごめんなさい」
「なんで、サクラが謝る必要なんて何も……」
宙之介が慌てたのを見て、サクラはかすかに笑うとゆっくりと歩き出した。彼が付いてくると分かっている歩調に、思わず後を追う。
「お兄ちゃんには全部ありのまま話したらいいよ。きっと力になってくれる」
そう言った彼女の声はいつもの優しい響きに戻っていた。聞くだけで不思議と心が落ち着く。
「そうかな?」
「うん。もしかしたら五年分をひと月でできるように悪魔みたいな計画を立ててくれるかも」
「ええー」
「そうだ! 魔法で時間を止めたら?」
「いくら魔法でも時間を止めるなんてできないよ」
二人の間に他愛もない会話が戻り始める。
「うーん、残念。どんな魔法なら使えるの? 見せてくれない?」
ところが話題が魔法に移ると、若草色の目を輝かせたサクラに対し、宙之介は気まずそうに目を伏せた。
「ごめん、陰陽師は妖退治以外で魔法を使っちゃいけないんだ」
「え、ああ、そっか。そうだよね」
彼女の目に宿った好奇心の光を消してしまい申し訳なく思ったが、それでもサクラは笑顔のままでいてくれた。
「だから、僕の話はこれで終わり。師匠に話すよ。サクラに相談してよかった、ありがとう」
「役に立ったのかな?」
「すごく。次はサクラの話を聞かせてよ。サクラは将来何がしたい?」
「私はね――」
春風の中、二人の弾んだ声が続く。家に着いてからもサクラは楽しそうに仕事を終わらせ、食事の準備に取り掛かった。明日の分も作るからと張り切っている。
「何だ、今日はやけに豪華だな」
工房から戻ったツヴェンは食卓を見るなり笑ってサクラの頭に手を置いた。
「ソラが手伝ってくれたから。それにお休み前の準備するの初めてなんだって。仔牛と弓豆のシチューと、ニリハル草のサラダは欠かせないよ」
「それだけか?」
「……もしかしたら、窯の中に、パイが入ってる、かも」
「はは、よっぽどだ」
バレちゃった、と台所に戻ってきたサクラに宙之介も笑った。
サクラが腕によりをかけた夕食はいつにも増して美味しく、皿もグラスもすぐ空になった。危うく翌日の分の料理にまで手を出しかけたほどだ。
「師匠、お話があります」
片づけを終えたサクラが部屋に戻り、ツヴェンと二人になると、宙之介は改まって話を切り出した。
「何だ?」
穏やかな笑みを返される。一見、グラスに残った最後のワインを味わっているかのようだったが、話を待っていた表情だと分かった。
「実は――」
どこまで読まれていたかは分からない。だが、少なくとも彼が不安を抱えていたことはお見通しだったらしい。ツヴェンは宙之介が事情を話す間一切口を挟まず、魔法を見せることはできないと断っても、サクラが予想した通り力になると申し出てくれた。
「一年でどうだ。一年で俺の水晶より──『強い』『魔法具』って言えばいいか? それを作れるようになって帰る。作るだけならもっと短くていいが、技術を学ぶなら一年は欲しい」
師匠の顔は真剣そのものだ。さすがと言うべきか、彼の口から出てきたのは宙之介にとって申し分のない提案だった。かえって困惑するほどに。
「それは……僕にとってはすごくありがたいです。でも、師匠には何の得もないですよね? 弟子にしろと無理を言ったのは自分なのに」
「もちろんタダでとは言わない。ここにいる間は仕事を手伝ってもらう」
「当然です」
未だ困惑したままの彼にツヴェンはふっと力を抜き、穏やかな声で続けた。「それから」
「サクリアラの話し相手になってやってくれ」
「サクラの……?」
「最初に言ったろ、弟子なんか取る気はないって。悪いがお前を受け入れたのはあいつの話し相手にちょうどいいと思ったからだ。あいつにはもっと外のことを知ってもらいたくてな」
それを聞いて宙之介はようやく腑に落ちた。妹思いの兄が考えそうなことだ。
「サクラの話し相手ならいくらでも。だけど、彼女の好きなところはここみたいですよ。今日だって師匠や皆さんの腕なら工房は将来もっと大きくなるから、自分が支えるんだって楽しそうに話してました」
師匠が喜ぶと思いサクラの言葉を伝えた宙之介だったが、予想に反してツヴェンは苦い顔をした。
「あいつ、まだそんなこと言ってるのか。ソラ、残念だがそれは叶わない。隣の国との関係が不安定なのにわざわざ国境の町に来る奴はいないだろ。ここが発展することはないって、前に教えたんだけどな」
深いため息が漏れる。
「それは……その、分からないと思いますが」
言いつつ、宙之介はつい辺りを見回した。当然外は見えず、どちらを向いても平凡で平和な部屋があるだけだ。ツヴェンはトンと音を立てて空のグラスをテーブルに置いた。
「裏手の山がもうレイニカとの国境だ。まあ、昔、その山で栄長石が採れたおかげでここに工房ができたんだから一長一短ってやつだな」
「師匠はここが好きなんですよね。でしたらサクラを止められません」
「はは、別に止めろとは言わない。ソラは好きな話をしてくれればいいんだ。一年しかないんだろ、退屈な話をしてたら時間がもったいない」
その時、ツヴェンはふと何かに気付き、昼間サクラが見せたのと同じ顔で笑った。「そうか、魔法が使えるなら時間を止めたらどうだ?」
「できませんよ。……ですから、一年間よろしくお願いします、師匠」
宙之介はもう一度深く頭を下げた。
◇
宝石商がやって来たのは、宙之介が一月ほど工房で過ごし春風が温くなったころだった。
「はい、ただ今!」
音を立てた呼び鈴に返事をし、研磨機を掃除する手を止めて工房の扉を開ける。仕立てのよい服を着た、気品あふれる初老の紳士に見覚えがあった。
「あなたは」
「おお、東洋の少年。ここにいるということは、やはりツヴェンだったか」
「はい! その節はありがとうございました!」
よく通る紳士の声に、ツヴェンが仕事の手を止め、不思議そうな顔で寄ってきた。
「お久しぶりです、ロイスフェルトさん。ソラを知っているんですか?」
「ああ、ツヴェン。そう、一月くらい前だったか、この少年が水晶玉を持って訪ねて来てね、きっと君が磨いたと思ったんだ。だからここの住所を教えた。また腕を上げたな、いい仕上がりだった」
「とんでもない。水晶なんて磨いたのが俺くらいだったというだけでしょう」
「そう言うな。君と一緒に世界を回る未来も捨てがたかったが、まさか職人としても才能があるとはな。ヴィルとカトリーヌもあの世で喜んでるだろうよ。妹は元気か?」
ツヴェンがうなずくと、ロイスフェルトはまるで小さな子供を見るかのような温かい視線を彼に向けた。
「それで、私に何か御用かな。君が会いたがっていると聞いたよ」
「はい、実は半貴石の原石が手に入ったらいくつか持ってきてもらえないかと」
「ほう」ロイスフェルトは大きな指輪をいくつも付けた手であごひげを撫でた。「ちょうどよかった。実は最近、半貴石を探している客が増えてね、石に力があるとか何とかで、そこそこの値が付くようになったから、君に研磨を頼もうと思っていたところだったんだ」
「もちろん、喜んで。ただし一番良い石は俺が──というか彼が買わせていただきますが」
ツヴェンが目で宙之介を示す。ロイスフェルトは愉快そうに笑った。
「はは、もちろん構わないよ。私は残りで商売をしよう。もとより半貴石は片手間だからね」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます!」
宙之介からも礼を述べると、ロイスフェルトはにこやかに微笑み片手を上げ、豪華な四頭立ての馬車で工房を去った。
「サクラのお父さんって宝石商だったの?」
その日の夕方、サクラと買い出しに行った帰り、宙之介はロイスフェルトの話で気になったことを彼女に尋ねた。鈴を転がすようなきれいな声が返ってきたが、内容は予想と違った。
「ううん、お兄ちゃんみたいな宝石職人だったよ。どうして?」
「あれ、そうなんだ。実は今日──」
宙之介がロイスフェルトと会ったことを話すと、サクラは合点がいった顔になり、それからいたずらっぽく笑った。
「あのね、お兄ちゃんのお父さんは宝石商だったの。ロイスフェルトさんとも仲がよくて、一緒に世界中を回って仕事したって」
「えっ。待って……師匠の、お父さんは?」
「うん」
「師匠のお父さんはサクラのお父さんじゃ……」
「お兄ちゃんとは血は繋がってないの」
「ええっ」
あまりの驚きに立ち止まった宙之介を、サクラはくすくす笑いながら置いていくふりをした。途中から気づいて楽しんでいたようだ。分かってると思ってた、と振り返ってまた笑う。年が離れてるし、あんまり似てないでしょ、と。
「確かに見た目は違うけど……他はそっくりだから気付かなかった」
「そう?」
サクラが小さく首を傾げた。宙之介は彼女に追いつこうと歩きながら、兄妹のことを思い浮かべる。
「うん。ほら、にんじん嫌いだし、嫌いなものを僕の皿に入れるし、仕事のとき絶対に手を抜かないし、道具にありがとうって言うし、考え事するとき髪をくしゃくしゃにするし」
「え、そ、そうかな」
「教会には一番乗りするし、でもマーサの祈りの第八節をよく間違えるし、小さい子がいたら手を振るし、秘密だって言ってときどき棚のお菓子つまんでるし」
「砂糖菓子まで!? 最近減りが早いの、ソラと一緒に食べてるからだと思ったら」
「師匠もくれるから」
「もう、お兄ちゃん……」
彼女の頬がだんだんと桜色に染まる。言われてみれば、と独り言のようなつぶやきが漏れ、若草色の瞳が上目遣いに宙之介のほうを向いた。
「ソラ、よく見てるんだね」
「それだけ似てるんだよ」
二人で目を合わせて笑った後、サクラは初めて自分と兄の過去を語ってくれた。
ツヴェンが宝石商の両親を亡くしたのは十三のときだったらしい。子供から宝石を買う者はいない、親の背中を追って宝石商を目指すのでは独り立ちまでの期間が長すぎると、ロイスフェルトや当時の工房長だったアンベルが便宜を図って工房で働くことを勧めたそうだ。
「私のお母さんは私が生まれてすぐ死んじゃって、八歳のときにお父さんも病気で……そうしたらお父さんと仲良くしてたアンベルさんが、工房で私の面倒を見るって言ってくれたの」
でも、と続けたサクラの笑顔が少しだけ曇る。
「反対されたみたい。私は職人にはなれないから。だけどアンベルさんがお兄ちゃんと兄妹になって暮らせばいいって」
「師匠だったら断らないだろうね」
「……うん、だからお兄ちゃんには本当に感謝してる。本人にはいくら言っても、アンベルさんの最期の頼みを断り切れなかっただけだってはぐらかされちゃうんだけど」
サクラとツヴェンのやりとりが目に浮かぶようだった。
「たまには外も見たらって言われるし、お兄ちゃんも本当は迷惑なのかな」
「それは絶対にない。たぶん、師匠は師匠で、自分が恩を着せてサクラを工房に縛りつけてるって勘違いしてるんだと思う」
「私はここにいるのが好きなんだけどな」
「大丈夫、そのうちきっと分かってくれるよ」
「ありがとう。ソラに聞いてもらってよかった」
サクラは晴れやかな笑顔を浮かべた。咲き始めたばかりのライラックの香りが春風と一緒に宙之介の鼻腔をくすぐる。この温かな時間が永遠に続いたらどんなにいいだろうか。
彼の願いもむなしく夕日は少しずつ沈んでいく。けれど、春の優しい太陽はその姿が見えなくなってもなお、二人の周りに温もりを残してくれた。
◇
「ドルナーズさん、C600とLN1000の研磨盤追加しました! ハンスさん、研ぎ直したタガネここに置きますので試してください!」
大きく開いた窓から、からりとした熱気が入り込む。夏を迎え、工房は気温と張り合うかのように活気づいていた。
「おうソラ、助かった」
どういたしまして、と額に浮いた汗を拭う。宙之介はツヴェン以外の職人たちの仕事も少しずつ覚え、手伝いに忙しい毎日だ。
「ソラ、紫水晶の切削頼む」
「はい、師匠!」
研磨前の作業を任せてもらえるようにもなった。大まかに切り出された原石を削り、少し完成形に近づける。紫水晶は平たい円柱から楕円にするようにとの指示だ。一番粗い研磨剤を準備していると、工房の扉がばんと開き、眩しい夏の光がなだれ込んできた。
「ツヴェン、いるか!?」
「ロイスフェルトさん?」
宝石商は数か月ぶりに再訪したあいさつすら惜しんでつかつかと工房に踏み入った。顔中ににじんだ汗は暑さのためだけではなさそうだ。工房の皆が手を止めて彼に注目した。
「もう君しかいない。五日間でこれを磨いて指輪に仕立てられないだろうか」
「……これは?」
ロイスフェルトが懐から取り出したものを見て、全員が息を呑む。美しい。
ちょうど今日の空と同じ、突き抜けるように鮮やかな青色の石だ。そして驚くべきことに、石の中に閉じ込められた液体が石とともに光を浴びてちらちらと輝きを放っている。
内包物。宙之介にもはっきりと分かるほど魅力的な原石に一同が高揚する中、ツヴェンと、目利きをしているエドモンドがいち早くそれに気づき怪訝な顔をした。
「何の石です? 初めて見る」
「ああ、おそらく新種だ」
職人たちがどよめく。ロイスフェルトはあごひげに手をやって早口で告げた。
「ガイガルよりさらに南の地方で採れたそうだ。ただ、三つに分けた原石は研磨に失敗して割れてしまった。ここにあるのは内包物があるからと原石を切り出すときに取り除かれた部分だ。見ての通り研磨の難易度は高い。だが君なら」
「いえ、他にも──」
ツヴェンが別の職人を挙げる前に、ロイスフェルトが手で制した。
「この石はおそらく固定用の蝋と相性が悪いんだ。三つのうち二つは研磨の最中に固定棒から外れたせいで割れてしまった。君なら手で磨けるだろう?」
「……。触らせていただけますか?」
「もちろんだ」
ツヴェンが青い石を受け取る。内包物で揺らめく青い光が職人の目にだけ何かを訴えかける。意外にも、沈黙はすぐに破られた。
「やってみましょう」
「師匠! もしかして、何か分かったんですか?」
「いや。──だからロイスフェルトさん、保証はできません。でも、こんなに胸が躍る仕事を断れるわけがない」聞いていた他の職人たちが、だよな、と苦笑する。「全力を尽くします」
ロイスフェルトもまた、満足げな笑みを浮かべた。
「ああ。五日後の朝七時に取りに来るよ。その後は任せてくれ。必ずその日の夜、フランツ・ローデルグ卿の成婚パーティーに間に合うようダンフォルトまで届けよう」
宝石商の言葉に対し、ツヴェンは驚きと敬意をもってゆっくりとうなずいた。ダンフォルトなる場所がどこにあるのか宙之介には分からなかったが、師匠の様子から察するに通常は一日ではたどり着けない距離にあるのだろう。
それから、五日間の大仕事が始まった。
「ソラ、サクリアラとコールの店に行って研磨剤全種類買って来い!」
「はい!」
最初の二日間は研磨剤の検討だけであっけなく過ぎた。粗いと傷になり、細かいと全く削れない。何とか中間を探し当てたと思いきや、石が傷つかない速度で研磨していては完成までに一月以上かかる計算だ。ツヴェンが経験と勘を総動員して思いつく限りの配合を試す。
R200を五、LB300を三、C800を一、JY800を一。
三日目、やっとの思いで調合した研磨剤は蒼輝石――いつしかツヴェンがそう呼んでいた――を順調に削っているように見えた。
「くそっ……これでもだめか」
「師匠!?」
「欠けた。この角度に力を入れるとだめみたいだ」
宝石になり損ねた小さな小さな欠片をそっと手に取り、ツヴェンは黙々とカットの図面を修正した。この三日間ほとんど寝ていないせいで横顔には疲れがにじんでいる。にも関わらず、宙之介の視線に気づくと彼を安心させるためにふっと表情を緩めた。
「ソラ、今回使った研磨剤の組み合わせ、十八段階全部確認して準備しといてくれ。たぶん次はいける。大丈夫だ」
「は、はい!」
「ジェズレー、悪いがカットの計算手伝ってくれるか?」
他の研磨士にも協力を仰ぐ。彼らはすでに、ツヴェンが蒼輝石に専念しても工房の仕事が回るよう裏方を支えてくれていた。
「できた! これならいける!」
試作品が完成したのは深夜を過ぎ、夜明けが見えてくるころだった。すぐ本番に取りかかると言って聞かない兄をサクリアラが何とかなだめ、わずかに仮眠を取らせてから蒼輝石の研磨が始まった。ほどなく朝日が昇る。残された時間はちょうど一日だ。
「次」
「はい!」
宙之介は調合しておいた研磨剤を準備する。丸一日かけて慎重な作業が進んだ。蒼輝石は広い上面をもつ楕円形に整えられ、丁寧に磨かれた上面からは内包された液体のゆらめきが透けている。ツヴェンはその縁に、宝石が耐えられない角度を巧みに避けながら六十四面ものカットを施した。絵画を飾る額縁のように、内包物の美しさを最大限に引き立てている。
十六段階目、形はほとんどできていた。あとは三段階の仕上げを残すのみだ。しかし、夜はすでに底を打ち日付は約束の日に移っている。時間との勝負だ、と宙之介は思った。そしてそのことは、ツヴェンが一番よく分かっているはず、なのに。
「師匠?」
研磨の手が止まる。
「どうしたんですか、何かあったんですか?」
隣で見ていたが異変はなかった。宙之介には分からないような高度な問題なのか。ツヴェンはしばらくの間何も言わず、蒼輝石が閉じ込めた液体のゆらめきを見つめていた。
他の職人たちが彼の異変に気づく。ちょうど飲み物を用意してきたサクリアラが、工房内の不穏な空気に息を呑んだ。
「どうしたの……?」
妹の声に何を思ったのか、ツヴェンはなんと研磨機を止めた。
「ここまでだ」
「師匠、どうして!」
蒼輝石を持つ彼の手が震え、中の液体が揺れる。
「……この水、ただの水じゃないな。内側からも石を削ってる。これ以上磨くのは無理だ」
「そんな! ここまで問題なかったのに!」
「仕上げの微振動と相性が悪いんだろうな。よくやったろ、十分だ」
ツヴェンは立ち上がってあっさりと研磨機から離れた。
「ハンス、研磨は終わりだ。指輪に──」
「待ってください!」
蒼輝石が別の職人に渡るのを遮り、宙之介は叫んだ。
「師匠! 本当にどうしようもないんですか! 何か方法が!」
「ない」
一言だけ吐き捨てたツヴェンの顔からは表情が消えていた。宙之介に止められるのを心底迷惑に思い、同時に、おかしいようだが期待もしていたからこその反応だと感じた。十分だなんて師匠は絶対思ってない。感情を抑えていても宙之介にはよく分かった。
「本当に、本当に方法はないんですね?」
「何度も言わせるな!」
「……分かりました、師匠を信じます。貴方でもできないと言うならもう現実を越えるしかない。魔法を使います!」
「何?」
聞き返そうとしたツヴェンの声がまばゆい光に飲み込まれた。宙之介が合わせた手の中から実体のない呪符が現れ、五芒星の文様が強い輝きを放つ。
「ソラ、魔法は妖退治にしか使えないって」
隣からサクラが心配そうに尋ねる。
「大丈夫、むやみに術を使わないための決まりだから。使えないことはないんだ」
宙之介は呪符が放つ光に集中し、芯のある声で唱えた。
〈みづからが来寄りし波路光る江に培はるるを予ねてやは知る〉
水、木、火、土、金。五行を巡る術に詠んだのは、はるばるやってきた海外の地でサクラや師匠に出会えた喜びだった。魔法を使おうと思えるほどの輝かしい縁があるなんて、どうして予想できただろうか。
「何だこれ、どうなって」
ツヴェンが手の中の蒼輝石を見て驚愕する。内包物の液体がだんだんと濁り、繊維をなし、固まり、木片のような固体に変化している。
「水行から木行に性質を変化させました。師匠、これなら液体の影響はありませんよね?」
「あ、ああ、たぶん」
「じゃあ早く。完成させましょう!」
研磨機が再度回転を始める。
「どうですか?」
「問題ない。研磨できる、と思う。何時間持つんだ?」
「完成まで持たせます!」
強気で言ったものの、初めて使う魔法だ。どれだけ持つかは宙之介にも分からなかった。
「師匠! ここまで来て中途半端になんかさせません! 納得のいく出来にしてください!」
「……あと三段階、急いでも日の出前には無理だ。本当に持つのか!?」
ツヴェンは周囲から、そして蒼輝石の中から感じる力の大きさを量っているようだった。宙之介を中心に湧き上がった魔力は凄まじい光量と圧でその強さを誇示している。彼の鋭い勘をもって、これだけの術を朝まで続けるのは無理ではないかと問うていた。
「持たせます。信じてください。夜通し妖と戦ったことも一度や二度ではありません。絶対、絶対に、完成させます!」
「お兄ちゃん、ソラを信じようよ」
後を押すサクラの声がした。彼女の澄んだ声を聞くと心が落ち着き、本当に朝まで続ける自信が湧いてくる。
「今だってもう奇跡だよ、魔法がなかったら宝石が完成する可能性すらなかったんだもん。全力で信じよう」
「……そうだな。ソラ、任せた」
力強い声が宙之介の耳に届く。それを境にツヴェンは周囲の影響をはね除け、圧倒的な魔力の中で何事もないかのように蒼輝石の研磨に集中した。あとは宙之介も魔法に集中するだけだ。
しかし、時間の歩みは信じられないほど遅かった。
(水は木を生み、木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み……)
頭の中で何度も魔法の輪郭をなぞった。術の本質を発揮するのは研磨が終わった後だ、内包物を水の属性に戻せなくては意味がない。それまで何としても保たなくては。
「次。最後の仕上げだ、ソラ、がんばれ」
「はい!」
呼吸するのがやっとの状態で本当に言葉を交わしたかは分からない。それでも師匠と心を通わせたと信じ、宙之介は呪符に手をかざして一層力を込める。魔力の光が弱まったように感じて最後の力を振り絞る。実のところ、光が弱くなったのではなく、空が白み周囲の明るさが増し始めていたのだが、当然ながら彼には窓の外を気に掛ける余裕などない。
呪符に浮かぶ文様が揺れた。
「ソラっ!」
サクラに手をつかまれはっと我に返る。限界が近かった。
「がんばって! もう最後だから」
極限状態のせいか、宙之介の五感はいつになく研ぎ澄まされていた。平静を装って研磨を続けるツヴェンが小さく安堵の息を漏らしたのが分かる。やっぱり、さっき魔法が途切れかけたのだ。そして、彼の手を握るサクラの手が言葉とは裏腹に震えていて、本当は心配だからもう止めてほしいのだということも伝わってきた。それでも、彼のために応援の言葉をくれた。
絶対に諦めるわけにはいかない。
「もう少し、もう少しだよ」
サクラに握られた左手は痛いほどだった。でも、そのおかげで立っていられる。
ふと視界に青い点が現れた。ツヴェンが蒼輝石を眼前に掲げている。永遠にも感じられる刹那の後、職人の達成感あふれる声が耳に届いた。
「完成だ」
ツヴェンが蒼輝石を差し出す。どんなに誇らしげかと思いきや、師匠の顔には大きく不安と書いてあった。当然だ、魔法が失敗すればこれまでの努力は水の泡となってしまう。宙之介は安心させるように力強くうなずいた──つもりだった──が、息も絶え絶えでうまくできたか分からない。師匠の目に動揺が広がった。
「ソラ、無理なら無理だと」
……思い違いだった。師匠が心配しているのは魔法の成否なんかじゃない。もし今、宙之介が辛いと言ったら、寝る間すら惜しんだ五日間の仕事を全部手放す気なのだ。
させてたまるか。息を吸えるだけ吸って呪符に手を伸ばす。実態のない呪符を指でつかみ、蒼輝石にふわりと乗せる。
木片のようだった内包物が一瞬にして燃え上がった。小さな炎が石の中で赤く光り、次第に燃え尽きて灰となる。灰は少しずつ色を帯び艶を帯び、生命を感じさせる土となる。かと思えば徐々に無機質に、硬く光沢のある金属に変わる。金属は青光りするほど冷たく冴えると、だんだんと解け、透き通る水となった。
ツヴェンが恐る恐る蒼輝石を確認する。輝かしく磨かれた青さの中で、液体がきらきらと揺らめいた。
「できた! 今度こそ指輪に──」
やった。
「ソラ!」
「おい、しっかりしろ──」
景色が急激に遠ざかり、宙之介の意識はそこで途絶えた。
◇
「ソラ」
「……れんじろう?」
「ソラ、大丈夫? しっかりして」
流れるような言葉の響きに薄く目を開くと、レンガの壁や三角形の高い天井が見え、はっと思考が切り替わる。そばにいるのが彼女ということも認識して身を起こした。
「サクラ?」
「よかった! 目が覚めた」
「えっ、サクラ、ちょっ……」
急に強く抱きしめられて心臓が跳ねた。彼女の体温に血液が熱くなり、脈動がどんどん大きくなる。
「サ、サクラ?」
「本当によかった……ソラ、三日も寝たままだったんだよ」
「!」
サクラの声がかすれている。宙之介は驚きと申し訳なさでしばらく何も言えなかった。ゆっくりと昨夜──じゃなくて、三日前の夜──のことを思い出し、彼女の背をそっと抱き返す。
「ごめん、心配かけたね。もう大丈夫」
「……本当?」
彼女が顔を上げると、夜露に濡れた新芽のように、若草色の目が潤んでいる。
「うん。もう魔力が回復してる。蒼輝石はどうなった?」
「もちろん間に合ったよ。ロイスフェルトさんが昨日早馬で教えてくれたの」
宙之介はほっと胸をなでおろし、それを見たサクラに少しだけ笑顔が戻った。
「温かいお茶を淹れるね。お兄ちゃんにも知らせに行かなきゃ」
「ありがとう」
しばらく温もりが続いたのは、彼女が淹れてくれた紅茶のおかげだけではないだろう。
しかし、お茶もいつかは冷めてしまうように、時間は淡々と過ぎて夏が去り、街には冷たい風が吹くようになった。
「こうやってソラと歩くの久しぶりだね」
「うん、最近忙しかったから」
秋風が宙之介とサクラの上着を同じようにはためかせて通り過ぎる。黄色く色づいた葉が風に乗って舞う。宙之介の好きな、べアンナローの町から工房までの帰り道。二人で歩くのはいつ以来だろうか。
「前にここでサクラが言った通りだ、師匠の腕なら工房はもっと大きくなるって」
蒼輝石の件以来、ツヴェンや工房に舞い込む仕事は増え続けている。宙之介も目の前の仕事をこなすのに手いっぱいで、時折、自分が陰陽師であることを忘れるほどに宝石職人の弟子として働いていた。
「不思議だなあ。嬉しいはずなのに、ソラと一緒に買い出ししたりお料理したりする時間が減っちゃったのは残念なんだから」
サクラが困ったように笑い、宙之介もつられて笑う。
「僕もだよ。師匠には悪いけど、今日は予定が遅れてちょっと運がよかったかも」
二人の歩みは自然と普段より緩んで、工房の手前まで来るころには辺り一面が黄金色の夕焼けに包まれていた。
「ね、ソラ、ちょっとだけ寄り道していい?」
どこに寄るのかと不思議に思った宙之介の手を、こっち、とサクラが引く。工房へ向かう道を逸れて野道に分け入った。サクラに導かれるまま大きな切り株を回り込むと、一瞬、視界がすべて金色に染まる。
「わあ」
黄金に色づいた楓の木が何本も並んでいた。大きな葉の金色と夕焼けの金色が溶け合い、こぼれた光が宙之介とサクラを照らしている。
「きれいだ」
「ね。お気に入りなの。ソラにも見せられてよかった」
光の中、彼女の澄んだ声が響く。どうしてだろう、笑っているはずの彼女の顔に影が落ちたのは、夕焼けのいたずらだろうか。
「ねえソラ……」
言いかけたサクラの言葉を遮り、一陣の風がざあっと音を立てて通り過ぎる。
黄色い葉たちがざわめき、まるで二人の代わりに言いたいことを伝え合っているようだ。サクラはそれを聞き、小さく首を振るといつも通りの調子で続けた。
「教会の近くには秋バラが咲いてるの。今度のお休みに見に行こう。雪が降ったら雪景色がきれいなところもあるんだよ」
「へえ、楽しみだ」
「一つだけでも、覚えててくれたら嬉しいな」
「忘れないよ。一つなんて言わず、サクラと見たことも、話したことも、全部……」
木の葉がざわめき続けている。本当は違う答えを返したかった。忘れたってまた思い出を作ればいいと。けれどそれは叶わない。宙之介は夢物語を自ら断ち切ることにした。
「サクラ、これ、持っててくれない?」
「これ──お兄ちゃんの水晶玉。大事だって」
「うん。それがないと僕は妖と戦えない。だけどその水晶より強い魔法石を作るために来たんだ。叶うように、サクラも応援してくれる?」
「……もちろん! ソラならきっとできるよ。水晶を預かるね」
サクラは心からの笑顔を返してくれた。たおやかな手で水晶玉を包み、そっと胸に当てる。黄金の光に照らされた彼女の美しい姿も、耳障りなほどの木の葉のざわめきも、せめて忘れないでいよう。たとえ、ずっとここにいることはできなくても。
◇
「波石、双瑪瑙、こっちは綺羅青玉だよ。他にもいろいろある。最近魔法使いを名乗る者たちがよく探している石だ」
宙之介がサクラに水晶玉を預けた数日後、予定より遅れて宝石商がやって来た。質のよい魔法石の原石が手に入るからとわざわざ寄り道してくれたそうだ。
「どうかな、ソラノスケ。お気に召した石はあるかい」
さすがは宝石商の目利きだ、どれも力のありそうな原石ばかりだった。しかし、磨いてどこまで強力な魔法具になるかは想像がつかない。
「そうですね、どれも良さそうで……師匠はどう思いますか?」
黙って宙之介の様子を見ていたツヴェンに助けを求める。
「さあ、俺にも魔力とやらは分からないからな。とりあえず気になったものは端から試してみたらどうだ。最初から一つに絞ることもないだろう」
「じゃあ……これと、これを。あとこちらも」
いくつか選んだ原石を手にして、ようやく目標に一歩近づいた気がした。だが目指す場所は遠い。最初に磨く石に波石を選んだはいいが、完成形を考える、ただそれだけと思われたことに想像以上の時間を費やした。
「この波の模様だと真円より四対五の楕円のほうが魔力が通りやすかったんです」
「なるほど。いいんじゃないか」
宙之介が数日かけて書いた図面を渡すと、ツヴェンは隅々まで目を通してからそれを返した。
「よかった、遅くにありがとうございました! 今から工房をお借りしてもいいですか?」
宙之介は一礼して出て行こうとしたが、なぜかツヴェンも上着を手に取る。
「付き合おう」
「え、でも」
「明日も仕事があるのはお互い様だ。魔法石を作るのは手伝いの合間でって決めただろ」
少し迷ったが、宙之介は師匠の厚意を受け取ることにした。
「ありがとうございます。師匠を付き合わせるならほどほどにしないといけませんね」
「そういうことだ、さっきは夜通し作業しそうな勢いだったぞ。俺の勘だが、お前が満足いく石を作るにはたぶんまだ少し時間がかかる。だから仕事と並行してやるようにも言った。急ぐのは分かるが、最初から頑張りすぎるな」
「はい」
持っていた波石が目に留まる。美しい波模様の一層一層が途方もない時間をかけて作られる石だそうだ。大願成就にはじっくり時間をかけなければならないこともある。師匠の戒めのおかげで出だしを間違えずに済んだ──はずだった。
「もう、信じられない! お兄ちゃんはともかく、ソラまで一緒に工房にいたなんて」
「ご、ごめん。呼びに来てくれてありがとう、サクラ」
磨くにつれて様々な表情を見せる波石の研磨は予想よりはるかに面白いものだった。ツヴェンも大層興味を惹かれ、結局、二人で時間を忘れて朝まで作業していたのだ。
「朝ご飯の時間なのに二人ともいないから驚いたよ。ソラ、急ぐのは知ってるけど、もうちょっと計画的に進めなきゃ。お兄ちゃんもちゃんと舵をとってあげてよ」
「……はい」
この日の朝食だけは味を覚えていない。初日は反省しきりだったが、その後少しずつ進行に慣れ、工房に雪が積もるころには十を超える魔法石を完成させた。
「寒ーい。やっぱり雪が降ると冷えるね」
「そうだね、また積もってる」
冬の盛りの朝、新しく積もった雪を踏みしめて教会へ向かう。全身がきゅっと締まるほど冴えた空気に、宙之介は震えながらも凛とした心地よさを感じた。
「今が一番寒いときかなあ。春が待ち遠しいよ」
サクラが手袋をした両手を合わせてつぶやく。それからはっとして続けた。「魔法石作りは順調?」
「うん、悪くはないんだ。でもまだ師匠の水晶には及ばない」
宙之介の口から真っ白いため息が漏れる。確かに今までで一番白い。今が底ならこれからは春に向かうということだ。約束の一年が刻々と近づいている。
「大丈夫だよ、明日からは新しい石を試してみるんでしょ? それにロイスフェルトさんからもまた原石を持っていくって手紙が来てた」
「そうだね、ありがとう」
サクラの励ましを受け、彼女に付き添って行く教会では異国の神に祈ってもみた。彼女が教えてくれるので三章合わせて四十二節もある祈りを全部覚えたおかげだろうか、ほどなくしてその時はやってきた。
「これ……! この石は何ですか!?」
宝石商が見せた原石の中でもひときわ目を惹く深い赤色。血を流したような禍々しさに、心臓がどくんと音を立てて熱くなる。
「紅蓮水晶。素晴らしい色だろう。けれど好悪が分かれる石でもあるんだ。血という名前の通り、昔からこの赤は血の色だと言われていてね。呪われてるとか持ち主の命を奪うとかいろいろな曰くがついたものだよ。君も気になるなら本当に不思議な力があるのかもしれないね」
「紅蓮水晶……」
赤色から目が離せなくなっていた。宙之介の直感がこれだと告げている。
「お願いします、僕に磨かせてください!」
「もちろんだ。うまくいくよう祈っているよ。ツヴェン、ソラノスケ」
わずかに雪の残る道を帰っていくロイスフェルトを見送り、その日の仕事を終えても、宙之介の胸は高鳴ったままだった。懐に入れた石から確かな魔力を感じる。これだ。この石だ。どう磨いたら最大限に力を発揮させられるだろう。いくつも研磨の案を書き、書いては消し、また書いた。あらゆる角度から魔力を注いで残すべき形を考える。
しかし、最後の雪が町から消えてもなお、紅蓮水晶の完成形は見えないままだった。
「ソラ、シュトリッツ卿のルビーの仕上げ終わったか?」
「はい、こちらに! 最終段階だけは師匠がお願いします」
仕事に穴を開けないのは師匠との約束だ。寝る間を惜しんで魔法石のことを考えているせいで疲れはあったが、宙之介は外面だけでも普段通りにふるまうよう努めた。ツヴェンに呼ばれてルビーの色を確認する。上品な赤、宝石としてはルビーのほうが美しいのかもしれない。だが、紅蓮水晶のような恐ろしいまでの力は感じられない。やはりあの石を物にしなければ。
「よくできてる。最後の磨きも任せてよかったかもな」
「それはまだ。でも、ありがとうございます」
「これなら十分お前に頼めるな。ソラ、俺の代わりに届けてきてくれないか?」
ルビーの依頼主であるシュトリッツ卿の屋敷まで往復して仕事を済ますには六、七日かかるそうだ。任されてよいものか宙之介が迷っていると、ツヴェンは笑いながら続けた。
「俺は隣町にすら数えるほどしか行ったことがないからな、旅慣れてるお前のほうが適任だろ。それに違う景色を見たら紅蓮水晶の磨き方も何か思いつくかもしれない」
魔法石のことまで言われては断れない。宙之介は頭を下げた。
「かしこまりました、行ってまいります!」
「ああ。その間の手伝いはサクリアラに頼むかな」
兄の頼みを聞いたサクラはすぐに快諾してくれた。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
一晩で準備を済ませた宙之介を彼女が見送る。長い袖や裾を引き慎重に馬車に乗り込む彼を気にかけて乗車を手伝ってくれた。
「ありがとう。ねえ、本当に変じゃないよね?」
「うん! 東洋の貴族の服だって言ったら絶対信じてもらえるよ」
「師匠が僕に頼んだ一番の理由、これだったんじゃ……」
「ふふっ、お兄ちゃんだと失礼のない正装を用意するの大変だからね。でもサーキのお洋服を持ってたなんて。素敵なお洋服のソラが見られて私は嬉しいな」
宙之介は真っ白い陰陽師装束に身を包んでいた。彼がベールランドに持ち込んだものといえばこの装束と水晶玉くらいだ。まさかこんな形で役に立つとは思わなかったが。
「これ仕事着だし、帽子もないし、偉い人に会う格好じゃないんだけどなあ」
「大丈夫、大丈夫。じゃあ、いってらっしゃい」
「いってきます」
風は冷たいが穏やかに晴れた空の下、サクラの透き通った声を浴びて馬車は気持ちよく出発した。小さなベアンナローの町はすぐに通り過ぎ、のどかな田園風景を進む。道中、そして仕事は順調そのもので、三日後にはシュトリッツ卿にルビーを引き渡し次の依頼を受けていた。
「エメラルドですね。師匠の本領は固定具を使わない研磨ですから、こちらの曲線がある形にしたほうが無二の色と輝きを活かせます」
「ほう、そうかね」
シュトリッツ卿が貫禄のある声で相槌を打つ。恰幅のよい男は初めこそ尊大な人物かと思われたが、宙之介が真摯に話をするうちに態度を軟化させ、宝石についての会話は大いに盛り上がった。
「まったく、変な服の外国の子供が来たのには驚いたが、本当に見識を持っているとは。分かった、次も君たちに依頼しよう」
「ありがとうございます!」
契約書の片割れを懐に入れて帰路につく。馬車に揺られ久しぶりに心穏やかな時間を過ごし、そこでようやく一度通った道のりであることを思い出した。一度目は宝石商に教えられた工房の住所を目指すことに必死で、シュトリッツ卿が治める街が美しい芸術の都であることも、途中で一泊する緑豊かな村の人々の温かさも、ツヴェンが「数えるほどしか行ったことがない」という隣町の見事な大聖堂も、まるで気にかけていなかった。
広い世界を目の当たりにした宙之介の脳裏を何かがかすめる。予感はあった。今はまだ淡雪のように儚くてつかめない。だが、捉えたら紅蓮水晶の姿が決まる気がする。
到着までに何かひらめかないかと、宙之介はぼんやり窓の外を眺めた。懐かしさを覚えて結局旅の間中着ていた白い装束が風を受けてはためく。遠くに霞んで見えるベアンナローの町が馬車の揺れに合わせて揺らぐ。
──いや、本当に揺れていないか?
全身の毛が逆立つのを感じた。
町を覆う霞が馬車の揺れとは無関係にゆらゆらと立ち昇っている。そもそも霞にしては濃い。あれは──煙?
御者に急いでくださいと何度言ったか分からない。声が枯れても叫び続けてようやくそこへたどり着く。宙之介の目に映ったのはたった数日で様変わりした町の惨状だった。平穏そのものだった田舎町はいたるところを破壊され、崩れた家々の屋根や壁が灰色の煙を吐き、石畳の道には倒れた庭木や瓦礫、壊れた生活用品までありとあらゆるものが散乱している。馬車では無理だと外へ飛び出し、断腸の思いで傷ついた町と人々を背に走り去る。
何が起きたか宙之介の身体が嫌というほど理解していた。妖と人間の違いはあれど、同じだ。忘れもしない、故郷の村が襲われ、家族も友人も何もかも失ったあのときと。
サクラと歩くのが好きだった道を、一歩進むのすら惜しくてゆっくりと歩いた道を、一足飛びに駆ける。
しかし、いつまで経っても宙之介が見たい景色は見えてこない。
もう十分走った。ここに、帰る場所があるはずなのに。
黒い残骸だけが目に入る。
工房はすでに燃え尽きていた。
◇
いつ中に入ったのか、気付くと宙之介は工房だった瓦礫に囲まれ、その腕に真っ黒い人形を抱いていた。
「エドモンドさん……?」
辛うじて人型に見えるだけの黒い塊には、誰であるかを推察する余地すら残っていない。ただ、あの人はよくこのあたりの窓辺で石を見ていたなと名前がこぼれた。
「マーティンさん……? ジェズレーさん……?」
声が次第に細くなる。呼吸の仕方を忘れるほど恐れているのに、なぜ探してしまうのか。
果たして、それが視界に入った。
その黒い人型は二つ重なっているように見えた。一つを抱き起こそうとするとひどく焼け焦げた腕がぼろりと崩れ、半分を身体に、半分をもう一つの人型に残してちぎれてしまった。宙之介が慌ててもう一つを抱えると、その胸元から何かが転がり落ちた。
サクラに預けたはずの水晶玉がなぜかそこにあり、真っ黒い床に叩きつけられて砕けた。
「あ……」
声が戻ってくる。宙之介は身体が裂けるのも構わず絶叫した。
──許さない。
──許さない。
──許さない!
骨の髄まで復讐に侵されていく中、懐から紅蓮水晶のかすかな声が聞こえた。──そうか、だからいつまで経っても研磨した姿を想像できなかったのか。これだけの力を持つ石だ、ほんの欠片すら無駄にしたくない。石の言う通り、すべての力を利用させてもらう。
おそらく正解ではなかった。師匠なら磨くことでより強力な魔法石を作り出したかもしれない。でも、その師匠がもういない。
宙之介はふらふらと立ち上がり、少し離れた場所に穴を掘った。何も考えられず、彼を人間たらしめている消えかけの良心にすがって機械的に手を動かす。全員の埋葬を終えるころには日が落ちていた。
「そこの山からきたのか」
「工房の焼け方は特にひどいな」
「おとなしく宝石を渡さないからだ、とか叫んでたが……」
町から様子を見に来た人たちがいるようだ。噂話が耳に入っても宙之介に大した驚きはなかった。想像した範囲だった──というのもあるが、理由などもうどうでもいいからだ。工房の床には見たことのない酒瓶の破片が大量に散乱し、煙には火薬のにおいが混じっている。それらが生んだ爆炎の激しさは、砕けたレンガの壁や、芯まで燃え尽きた研磨機や柱、崩れ落ちた屋根の残骸が物語っている。こんなものをけしかけた奴らを同じ人間とは思わない。
宙之介は作ったばかりの墓の側にひざまずき、紅蓮水晶を地面に置いた。
血のような赤色が夜の闇の中で一層妖しく輝く。使えば後戻りはできないと警告している。もとより彼には引き返す気などなかったが、それでも最後に故郷の陰陽寮に残した上司と友人の顔が浮かんだ。
──清明様、申し訳ございません。連二郎、ごめん。帰れない。
紅蓮水晶に力を込める。宙之介のすべてが魔法石に捧げられ、もう戻ることはない。あとは最大限まで力を引き出すだけだ。
いつか蒼輝石を磨くために使った相生の術を発動させる。無意識に火行を始まりに選んだ。炎には炎を、敵を倒すのは火の術だ。宙之介は火、土、金、水、木の順に魔力の属性を変えながら石に触れた。五行術を使う陰陽師は多くとも、五行すべてを操れる術師は数少ない。昏い満足感を覚え、変化のたびに全身をきしませる負荷と痛みを押して薄く笑う。
実は、一つ問題があった。敵を殲滅した後に強力な魔法石が敵地に残ってしまうのだ。しかし、問題に気付いたときそれはすでに解決していた。紅蓮水晶の魔力はほとんど術に使われて、五行を一巡しない限り大した力は感じられない。そして、ベールランドにせよ隣国にせよ、西洋の魔法は四属性に基づいているから五行を使った陰陽術が気づかれることはまずない。しかも書を読む限り、金行の魔法使いは錬金術だといって魔法ではなく金属や天体の研究に明け暮れ、木行の魔法使いに至っては遥か昔に人間と袂を分かち、今やエルフという別の種族を名乗っている。もし陰陽術に気づいたところで彼らが相生の順に石を触るなど不可能だ。
とは言え、念には念を入れて宙之介はもう一つ魔法を追加した。紅蓮水晶はみるみるうちに赤い輝きを失い、見た目にはくすんだ色のただの石と化す。強力な幻術だ。これなら魔法石だと疑われる可能性はさらに下がる。しかも、非常に強い──それこそ人間の力では不可能なほどの──陰か陽の力を加えない限り解けることはない。
魔法石の完成が近づくにつれ、近くに来ていた町の人々が宙之介の存在に気付き始めた。しかし、あまりの異様さに皆遠巻きに見ているだけだ。
足元の石が放つ不気味な赤い光に照らされて、少年自身の身体もまた魂がこぼれ出たかのようにぼうっと光っていた。おかっぱだった暗夜貝の黒髪は生命のたがが外れてあちこちに伸び、魔力を使うほどに色艶を失い、一夜にして真っ白に変貌した。目は充血して瞳孔だけが爛々と輝き、青白い顔に真っ赤な唇が笑みを刻んでいる。
やがて紅蓮水晶の放つ光が消えると、宙之介は石をつかんで立ち上がった。彼が顔を上げた先に立っていた人々はびくりと身を震わせたが、目の焦点はどこにも合っていない。敵がやって来たという山の方向にぐるりと首を回し、一瞬動きを止めたかと思うと、次の瞬間には白い衣をひるがえし暗闇の中へ走り去っていた。唖然とする見物人たちの顔を少し遅れて生温かい風が撫でていく。
異形だった、と後に一人が語っている。何の巡り合わせか数年を経て東洋の鬼という化け物の存在を知ったとき、あれがそうだったと確信した、とも。
宙之介は闇に包まれた山地を飛ぶように駆け上った。草木は彼のために道を開け、崖や川は地形を変えて足場を差し出した。白い鬼が最短距離で敵のもとへ行けるように。鬼は山を越え隣国の町まで追うことも覚悟していたが、来てみれば彼らは山中で夜営していた。
夜営といっても野盗かごろつきが酒盛りしているのと何ら変わらない。宙之介でなくても彼らが兵士として取るに足らない者たちだとすぐに分かったことだろう。服装は乱れ装備はバラバラ、馬や武器の管理も行き届かないうちにあちこちで火を起こし、酒瓶を両手に持って大騒ぎしている。何より、百人か二百人いて誰も鬼の気配に気づかない。
「ははっ、ちょろかったな」
一番大きな人だかりの中心で、ひときわ耳につく悪声が上がる。
「こっち側なんか平和ボケしてんだから、王サマもさっさとベールランドに戦争仕掛けちまえばいいんだよ。そうすりゃ領土全部俺らのもんだ」
右の頬に傷のある粗暴な男が太い腕で酒瓶をつかみ、一息に飲み干すと空瓶を地面に捨てて割った。後に「王サマ」すなわち時のレイニカ国王が爵位を授けたことを心底後悔したという「面汚し男爵」その人だったが、敵が誰であるかなど宙之介には関係ない。
彼の虚ろな目には、酒瓶を叩きつけた手の中指に輝く透明な石だけが映っていた。夜の闇の中でなお一等星のごとく光る、研磨技術の粋を極めたダイヤモンド。それはお前のじゃない。
「……何だ?」
飛び散った瓶の欠片の向こうから現れた宙之介に、男がようやく気づく。死人のように白い顔、垂れた白髪、異国の白い衣、真っ赤に光る目、そこから流れる、同じく真っ赤な血の涙。鬼気迫る姿に男が恐怖を感じたときにはもう遅かった。
貴族の称号を汚した面に火が付き、すぐに全身が炎に包まれる。周りが何事かと振り返るまでに男はこの世から消えていた。文字通り、骨どころか、灰一つ、身に着けていたダイヤモンドすら残さず。驚きの声を上げようとした人々は声の代わりに火を噴いた。
ざっと眺めて約二百人、そのすべてが燃える人形と化し、穏やかな春の夜が業火に染まる。
──許さない。
一つ、また一つと人形が燃え尽きる。手にした紅蓮水晶が非道な美しさに輝き、やがて炎は宙之介の身体までをも蝕み始めた。命を捧げなければ達しない域の術だ、これでいい。
かつて故郷の村が妖に襲われたときには力がなかった。今は違う、戦えるだけの力があったのにどうして側を離れてしまったのか。一番許せないのは大切な人たちを守れなかった自分自身だ。それに、たとえ略奪者であっても二百の命を奪っておいて不問とはいかない。
何もかもが燃える。略奪者たちも、その武器や防具、酒、杯も、宙之介の命も、その場にあったすべてのものが消失に向かって燃え上がる。この世を去る直前、それぞれ最後のひとかけらが白い灰となって空へ舞い、赤い炎に照らされ散っていく。
綺麗だった。
熱風に吹き上げられてひらひらと舞う灰はまるで花びらのようだ。宙之介が見たかった景色が、故郷の桜吹雪を思わせる光景が目の前にあった。
最期にサクラが見せてくれたと考えるのは都合がよすぎるだろうか。そういえば、彼女が祈りを捧げていた異国の宗教には死後の世界があったように思う。祈ったら、届くだろうか。
詠唱してみる。もう声にはならず、それは炎で紡がれていた。紅蓮水晶以外に地に残るものは何もない。その魔法石も次第に炎を収め、幻術の効果でただの石と変わらない様相となって燃え尽きた大地に横たわる。
〈散る花は美しや験の夢語りかかる橋にて咲き匂はなむ〉
最後の桜吹雪が石を一巡りしてから空に吹き上がった。何と美しいのだろう。魔法石が見せた儚い夢ではあるけれど、夢だからこそ、会いたい人のもとへ橋が架かる。きっとまた君のところへ行くから、そこではどうか散ることなく輝かんばかりに咲いていてほしい。そして、魔法石が生まれたきっかけはこんなことだったけれど、もし奇跡が起きて再び力を発揮するのなら、今度は幸せな夢物語を咲かせてほしい──
紅蓮水晶が完全に鎮まり、ひとひらの幻が空に溶ける。祈りの余韻と静寂だけがいつまでも夜明けの光の中に残っていた。




