三.錬金術師
汝、花を見よ、鳥を見よ。おお、南の黄金のなんと絢爛たることか。
土地を訪れた者の感想は百年経っても変わらないらしい。かつて同じ旅路をたどった者の言葉を諳んじ、ディレンスは「南の黄金」を見上げた。初夏を迎えようやく外套がいらなくなったばかりのダンフォルトに対し、ここウィスカハルの太陽はすでに夏を思わせる熱量で、隣国とは言え異国に来たことを実感する。
「君の好きな詩人の言葉かな、ディレンス」
「残念、なんとコルマン・デーケトの言葉だ。ベールランド王国一がめついと歴史に名を残す金貸しでも、ここの太陽は詩人にしてしまうらしい」
「ふむ、となれば、レイニカ王国にはもっとがめつい金貸しがごまんといるかもしれないな」
隣を歩く男が冷笑する。ディレンスは彼をちらりと見、今度は心の中で諳んじた。
なんと絢爛たることか。
ウィスカハルを記述した数多の文章の中でデーケトが浮かんだのは、きっと隣の男が視界に入るからに違いない。大きな帽子は赤と青と金色と薄い水色、つばには群青色と柑子色と銀鼠色、部分的に青磁色と常盤色の羽根飾り、ひだと金ボタンが余るほどあしらわれたドレスシャツ、非対称な形の上着はスカーレットにマルーン、ティール、ウィスタリアにジョンブリアンの幾何学模様、ブリーチズの右脚はバーミリオンで左脚は……もう省くが左右で色の違うブリーチズに靴下、これまた左右で色が異なる上に歩くたび音を立てるかかとの高い靴、手には天球儀を模した豪勢な細工の杖。どこを見ても派手としか言いようがない。
朝市で広場がにぎわっている中、これの隣を歩けるのだから仕事とは恐ろしいものだ。
「それで、エリンハルト、場所はどこだったか」
「私に分かるわけがないだろう。ディレンス、読んでくれたまえ」
奇抜な恰好の男――エリンハルトはおかしな形の上着から一通の手紙を取り出してディレンスに手渡した。目にするのは二度目だ。細身で上品な文字が流れるように並んでいる。
「ダンフォルト伯爵 フランツ・ローデルグ様
賢者の石だと噂される鉱石を手に入れました。錬金術師を寄越してください。レイニカ王国南方の街ウィスカハルにてお待ちしております。
中央広場○○通り△△番地 魔法具屋『魔女の青帽子』にて イレーネ・パピアタール」
「そうだ、『魔女の青帽子』だったな」
ディレンスは読み終わった手紙から目を上げて通りの名を確認した。中央広場の近くならこの辺りのはずだ。隣のエリンハルトは店名を聞いても興味を示していなかった。
「早く終わらせよう。どうせ偽物だ」
「錬金術師がそれでいいのか」
「錬金術師だからこそ、だよ。賢者の石など存在しない。ましてや不老不死を叶える生命の水などあってたまるか」
「……あっちだな」
ディレンスは返事の代わりにため息をついて朝市の屋台を抜け、家や店が並ぶ路地へ入った。エリンハルトが無言で続く。いたたまれない空気にはもう慣れた。言い争ったことも、エリンハルトの言い分を聞いたことも、ディレンスが諭したこともある。結局、賢者の石はないというエリンハルトの主張は変わらないし、ローデルグ卿が不老不死を求めて錬金術師に石を探させるのも変わらない。錬金術など専門外のディレンスは自分の意見を持てず、主君に命じられれば仕事だと割り切って従うほかない。
「ないならないと言えばいいじゃないか」
「あの爺が聞く耳を持つものか。気分を損ねてパトロンを辞められては困る。賢者の石は存在しないが、なくとも他種の金属から金を錬成することは可能だ。私は錬金術師としてそれを成し遂げたいのだよ」
「そのためならこんな遠くの街まで来ると。……あった、分かりやすいな、あの看板」
二人は青いとんがり帽子の看板を掲げた店に入った。
◇
四年前、ディレンスは――この言い方は不本意ながら――エリンハルトの助手になった。
ローデルグ卿に仕える先代の錬金術師だったエリンハルトの父が急死し、その仕事をエリンハルトが引き継ぐことになったのは必然にせよ、齢を重ね焦燥に駆られたローデルグ卿がディレンスにまで手伝いを命じるのは予想外だった。しかしながら主君の命令を断れるはずもなく、賢者の石と疑われるものが見つかる度にこうして彼と確認に来る日々だ。
「それで、イレーネ嬢の部下から受け取ったのはどれなんだ」
広場から少し外れた橋の上で、ディレンスはエリンハルトが欄干に並べた石を指して尋ねた。「魔女の青帽子」で受け取った赤い石を持って広場を歩いていると、朝市の怪しげな屋台から次々に声がかかり、あれよあれよという間にエリンハルトの手に石が増えた。薄い赤の石、濃い赤の石、ただの石、たぶん石ではなくガラスの塊、その他多数……青い石まである。ディレンスは錬金術を修めてはいないが、賢者の石は赤いというのが定説ではなかったか。
「さあ? どれでもいい、どれも偽物だ」
「まったく。いくら渡したと思ってるんだ」
「金を持って帰ってみたまえ。ローデルグ卿の反応を考えれば捨てたほうがましだ。実際、石と交換したのだからかなり上出来だ」
ディレンスは返事に困ってため息とも深呼吸ともつかない息を吐き出すと、欄干にもたれて空を見上げた。鮮やかな青色の中を真っ白な雲が泳ぎ、乾いた風が実に心地よい。ああ、観光だったらどんなに楽しめたことか。ウィスカハルの街には興味深い歴史もある。
「この街は昔、魔法使いが治めていたと言われているんだ。早く終わったことだし見物でもしていくか?」
「魔法使い? 興味ないな」
「……君も魔法が使えるんじゃなかったか。ほら、この杖だってそれらしいじゃないか」
ディレンスは天球儀のような飾りが付いた杖をエリンハルトに返した。広場で「賢者の石」がエリンハルトの片手に収まらなくなったとき渡されて預かったが、気味が悪いので早く返したいと思っていたところだ。
「私は錬金術師だ。ただ、まあ――」
エリンハルトは杖を受け取ると天球儀を模した部分をディレンスの顔に近づけた。瞬間、金属球を囲む輪や小さな球が動き、中心の最も大きい金属球の色が赤く変化する。かと思えば青みを帯びた灰色に変わり、光沢が鈍くなり、白っぽくなり、形が歪んでディレンスの顔のほうへ伸び、思わず彼がのけ反ると、それを笑うかのように球体に戻って強い光沢を放ち、最終的に光り輝く黄金の球となった。
「魔法が使えることは否定しない。これしかできないが」
「人に向けるなよ! なんで途中こっちに伸びたんだ、金属の種類を変えるだけと言っていなかったか」
エリンハルトは真紅の両目でディレンスを見、端正な顔に楽しそうな笑みを浮かべた。
「その通り。私の魔法はこの球体に限り、七つの金属を行き来させることができる。途中のあれは水銀だ。金属でありながら自由に形を変える液体でもある」
「こっちに伸びた説明にはなっていないような」
「私が金の錬成は可能だと断言できるのもこの魔法ゆえだ」
ディレンスのささやかな抗議を無視して、錬金術師は得意げに語り始めた。
「魔法を使えば鉄からでも銅からでも金を錬成することができる。ならば魔法がなくとも同じことができると考えるのが自然だろう。今はまだその技術が発見されていないだけだ。例えば、ものを燃やすと言われている物質があるな」
「燃素か」
「それだ。燃素は、存在しない」
「はあ!? 君はまた、何というか、途方もないことを……」
ディレンスは頭を抱えた。よくあることながら、彼との会話はどこへ向かうか全く見当がつかない。
「いやいや、極めて現実的な、実験的事実に基づく結論だ。つまり、物体は燃えると質量が増える。何人もの錬金術師が確認している。物体がもつ燃素を使って火が燃えるなら質量は減るはずだ。そのうち燃素の存在は否定され、物体を燃やし物体と結びついて質量を増やす何らかの存在が明らかになる」
「そんなばかな。ものが燃えるのは物体がもつ燃素が燃えるから。常識だ」
「常識! では、この星が太陽の周りを回るのは常識か? 一昔前なら逆、常識などその程度だ。人は理解の及ぶ範疇でものを語り、筋が通っていれば大衆が受け入れる。今まさに燃焼を燃素で説明している御仁がいたらお気の毒だが、燃素に変わる何かが見つかれば皆それに飛びつくさ。我々はまだ自然の摂理のすべてを理解してはいないのだから」
「……それは、そうかもしれないが」
「だからこそ錬金術は――」
「失礼! 貴方がたですか」
ディレンスに救いの手が差し伸べられた。揃いの服を着た男が二人近づいてくる。
「錬金術師のシュープマン様、それからレーバー様でしょうか。ボスの使いで来ました。貴方がたをお待ちです」
男の一人がさりげなく金時計を見せた。蜜蜂の紋章。パピアタール家と懇意にしているビーネイ商会の印だ。エリンハルトが進み出る。
「私が錬金術師のエリンハルト・A・シュープマンだ。しかし妙だな、待ち合わせの用事ならさっき済ませた。賢者の石なら受け取ったよ」
どれだか分からなくなったけどな、とディレンスは心の中だけでつぶやく。
「何かの手違いでしょう。ボスは先ほどから石を持って待ちくたびれています。すぐにいらしてください」
エリンハルトがディレンスを見た。ディレンスは首を小さく横に振る。彼にもどういうことか分からない。
「はあ。釈然としないが、イレーネ嬢を待たせるわけにはいかないな。……そして、これらはやはり偽物だったわけだ」
エリンハルトは欄干に歩み寄ると、並んだ石を手で払って下を流れる川に落とした。
「おい! 何も捨てることはないだろう」
「……」
指摘された彼は珍しく黙る。いつもの笑みも浮かんでいない。
「言われてみれば、そうだな。捨てることもないが……何故か、捨てたくなった」
「何だそれは」
「まあいいじゃないか。さて、本物の元へ行こう」
錬金術師は不敵な笑みを取り戻すと、杖をとんと突いて身体の向きを変えた。ディレンスも従おうとし、ふと気になって欄干の下をのぞき込む。
大きな影が橋の下で動いた。
「エリンハルト!」
急に大声で呼ばれた彼の驚きもお構いなしに、ディレンスは極彩色の袖に包まれた腕を強く引いた。川面を指す。
「見たよな」
「何を、だろうか」
あくまで人に言わせる気か。ならば言ってやる。
「人魚を、だ。いたよな。絶対、人の顔と身体に魚の尾ひれだった。石を拾って行ったよな」
「まあ、そう見えなくもなかったかな」
「見ただろ! あれは――」
「ディレンス、見たというだけでは証明にならない。そして証明できないものの存在を肯定はできない。それが錬金術師だ」
彼と旅をして四年、絶対にあったと確信している。青いバラも、宝石ウサギも、空飛ぶ馬車も、そして人魚も。この奇抜な出で立ちと性質の男だ、同類が寄ってきたところで何ら不思議はない。だからディレンスは常々思っていた。エリンハルトはありえないと言うが、彼なら、賢者の石だってうっかり見つけてしまうのではないかと。
◇
「あら、早かったのね」
「はい。男の二人組なのにオシドリのような奴らを探せと言われたときは正直困惑しましたが、おっしゃる通り、見たらすぐ分かりました」
戻ってきた「魔女の青帽子」では、真っ赤な石を手にした令嬢が勘定台に腰掛けていた。
「そうでしょ。派手なのと地味なの。オシドリのオスメスみたいって思ってたの」
「イレーネ様、僕は普通です。彼と比べたら誰だって地味ですよ」
一応、手持ちの中から上等な服を選んできたつもりのディレンスは不服そうに――もちろんご令嬢に失礼のない範囲で――主張する。一方のエリンハルトは気に留める様子もなく、優雅な動きで無駄に装飾の多い帽子を取った。
「ご機嫌麗しゅう、イレーネ様」
「今はボスって呼んでほしいわ、ディレンス、エリンハルト」
「ご機嫌麗しゅう、ボス」
令嬢は濃い化粧を施した顔にご満悦の表情を浮かべた。イレーネ・パピアタール。代々侯爵位を受け継ぐパピアタール家の長女にしてただ一人の女子だ。父・パピアタール卿の溺愛ぶりは目に余り、それが証拠に「裏社会の組織で女ボスをやってみたいわ」という無邪気な令嬢の発言が実現している。
イレーネは組んでいた足を解き勘定台から立ち上がった。葡萄酒色の髪が露出した肩をかすめて弾むように揺れ、すらりとした黒革のブーツが音を立てて地面に降りる。
「はい、これ。賢者の石よ」
黒い革手袋からエリンハルトの白手袋へ、赤色の石が受け渡された。
黒革の衣装で全身を包んだ「ボス」は社交場でのお上品な姿とは大違いだ。通常なら爵位を持たないディレンスやエリンハルトが侯爵令嬢に近づけるはずもないのだが、侯爵家が「比較的安全な裏社会組織」として目を付けたのがビーネイ商会だったために、情報屋である彼らから賢者の石の情報を貰っていたローデルグ卿と繋がり、何度も賢者の石の元へ駆けつけるディレンスとエリンハルトは「ボス」の彼女に限り顔見知りとなった。
「ほう、これはなかなか」
「冗談はいいわ、エリンハルト。お金もいらない。代わりにお願いを聞いてくれるかしら」
「……話が早くて助かります、ボス。これは辰砂ですね。どういうことでしょう」
イレーネは鮮やかな色の唇で微笑み、目を伏せた。話が早くて助かるのはお互い様か。
「この近くで採れるのよ。商売にするほどの量ではないけれど、うちはあなたみたいなお客様がいるから独自に採掘していたの。だけど最近」
開いた目が錬金術師を見つめる。
「時々採掘人が行方不明になるの。何が起きているか解明していただけないかしら」
エリンハルトは表情を変えず、イレーネを見つめ返して言葉を繋いだ。しかし、さすがの彼も予想外の発言に困惑しているらしく、手にした杖の天球儀がくるりと回った。
「ボス、私はただの錬金術師です。もちろん協力は惜しみませんが、人探しのお役に立てるかどうか」
「分かってるわ、そんなこと。第一、人を探してほしいんじゃない、事態を解明してもらいたいの。人が消えるようになったのは怪しげな扉が見つかってからでね、あの絵、錬金術関連じゃないかと思うのよ。説明しにくいから実物を見ていただける? 続きは道中で話すわ」
「馬車の準備はできております、ボス」
入り口から声がかかり、エリンハルトとディレンスは令嬢に促されるまま馬車に乗った。ゆっくりと沈んで体重を受け止めてくれた椅子の座面も、輝くような白色の布がたっぷりと使用された内装も、すべて絹製だ。
「豪華だな」
なめらかな絹の手触りを楽しむ彼らに、御者役はにこやかに答えた。
「ボスのおかげですよ」
なるほど。ご令嬢のお守りをし、ご機嫌を取り、他者から働き蜂だの親衛隊だの揶揄されようと、それに見合うだけの報酬を侯爵家から受け取っているらしい。
馬車はウィスカハルの街から北西に向かい、ほどなくして目的地付近に到着した。馬車を降りるときに木々の向こうにきらめく水面を発見する。ウィスカハルが誇る大湖、セラン湖だ。
「湖見物なら多少は興味があったのだが。ここまで来ておいて洞窟に向かうとは」
エリンハルトは皮肉な口調でディレンスにしか聞こえないように言った。皮肉だと分かるが――つまり、洞窟とは大げさな表現ではあるが――ディレンスも気分的には同意であった。陽光が降りそそぐ湖を横目に、暗い岩場に入っていくのは何とも気が進まない。それでもにこやかにイレーネについていくのだから仕事とはむなしいものだ。
「ボス、足元、お気をつけて」
彼らが通過する傍らで鉱夫たちは仕事を続け、足元には採掘の際に出た石や岩がゴロゴロ転がっていた。社交辞令で声をかけたものの、慣れない道を慎重に歩くディレンスに比べたらイレーネのブーツのほうがいくぶん軽快な足取りだ。
「さ、ここよ」
鉱夫たちが途中まで削った岩壁を回り込むと、突如、固く閉ざされた鋼鉄の扉が出現した。扉の前には立ちはだかるように台座があり、奇怪な図柄が描かれた円盤が置かれ、台座の両脇には人の頭でも入りそうな大きな杯が二つ伏せられている。
ディレンスは台座に近寄った。円盤の後ろに文字が見える。
「リーヴァニア語だ。しかも綴りがやや古い……百年くらい前かな。『正しき順に道を示せ。世界霊魂を求むる者にのみ扉は開かれん』――だそうだ、エリンハルト。これは星座か?」
円盤の絵に触れようとしたディレンスの手を、寸前でエリンハルトが止めた。
「待ちたまえ。まさか錬金術師でないほうが役に立つとはな」
「どういう意味だ?」
エリンハルトはすぐには答えず台座の周りを観察し、円盤に触れないよう手をかざした。この男は物事を確信するまで口に出さないことがある。発言までに数日かかったときのことを思い出し憂慮したが、しばらくすると観察を終え口を開いた。
「魔法だ」
「魔法?」
ディレンス、イレーネ、他何人かの鉱夫やイレーネの部下が漏らした声が重なる。
「転移魔法、とでも言おうか。間違ったやり方で円盤に触れるとどこかへ転送される術がかけてある。ボス、残念ですが私に分かるのはそれだけです。行き先の調査は魔法の専門家に頼んでいただけますか」
イレーネはエリンハルトの言葉を聞き終えると素直にうなずいた。
「魔法だなんて考えもしなかったわ。こんなにすぐ分かるなんて、やっぱりあなたに頼んで正解だったわね。ありがとう、エリンハルト。……あなたたち、ビーネイ商会は魔法使いに伝手はあるのかしら……」
イレーネはエリンハルトに簡単な礼を述べると、部下と話しながらその場を離れた。彼もディレンスももう用済みのようだ。戻った者がいない様子から転移魔法の行き先は遥か遠くと思われるが、ディレンスにはどうしようもない。
「エリンハルト、僕たちも帰ろうか」
軽くかけた言葉に、爆弾のような返事が来るとは誰が予想しただろう。
「帰る!? 君は一体何を言っているんだ。この興味深い装置を前にして帰るとは、まったく、錬金術師の風上にも置けないな。そもそも世界霊魂を求める者には扉は開くと言ったのは君じゃないか」
「エリンハルト、僕は錬金術師じゃない。それから扉がどうのと言ったのはこれを書いた奴で、僕はただ読んだだけだ」
台座に書かれたリーヴァニア語を指す。……爆発が強まるとは誰が予想しただろう。
「奴!? ディレンス、君は偉大な錬金術師にもっと敬意を払うべきだ。辰砂すなわち水銀、リーヴァニア、百年前。そして円盤に描かれているのは黄道十二宮のごとく十二段階の反応を経ることで巨視的宇宙をフラスコ宇宙に再現する黄道複写理論。間違いない。ここはパラケルススの書を紐解き、水銀を『A』、すなわち黄金に至る半音階の十段階目まで進めて調合し、『白い霊石』を錬成するに至った大錬金術師、ヴェリタス・ペルセクタスの研究室だ」
「誰だって?」
ディレンスは思わず聞き返したことを後悔した。自らの領域に入った錬金術師の口はもう止まらない。
「ペルセクタスだよ。リーヴァニア出身の錬金術師だが、あそこは教主国だろう、三角教の神と黄道十二宮の霊魂に親和性を感じた彼は敬虔なテフテン教徒となりレイニカに来たと言われていたんだ。まさかこの街だったとは。しかし納得だ。ペルセクタスは十二段階の反応の中でもヘルメスの持つ『時間の超越』の性質に着目し、水銀の原質を取り出すことに重きを置いていた。後にグラテレッロが著書『霊的原質の知』で綴ったところによれば、水星軌道の傾斜角から正弦波を導き、抽出に用いる霊薬の位相を七.二三度ずらしたことで練度を霊石級にまで高めたそうだ。この辰砂の山があれば、思う存分水銀を研究できたことだろう」
「複写理論の抽出なら位相は二重軌道遷移で十四.四六度ずれないのか」
「そう、それが彼の研究の興味深いところだ。天体そのものでなく黄道十二宮と十二段階の反応を対応させることで、第一正弦波のみで複写理論を計算可能にしたのだ」
離れていたイレーネが扉の前から動かない彼らに気付いた。
「エリンハルト? ディレンスも何をしてるの? それに触ると魔法でどこかへ飛ばされるんでしょう?」
錬金術師は不敵な笑みを通り越し、皮肉に満ちた顔でイレーネを笑った。たぶん、夢中になるあまり相手が侯爵令嬢ということを忘れている。
「いいえ、ボス。触れる順番が正しければ転移魔法は発動しませんよ。それもペルセクタス卿は同志を歓迎しているらしい。ごく簡単に順番が分かるのがその証拠だ」
誰も「簡単?」と言い返せないうちに、エリンハルトは円盤に描かれた絵の一つに触れた。
「ペルセクタスの大いなる作業は辰砂から取り出した水銀から始まる。すなわち巨視的宇宙で知性と伝達を司る水星であり、それに座する処女宮だ。同じ水星でも双児宮でないのは自明だな、汚れなき乙女こそ始まりの原質にふさわしい。あとは重複した軌道を黄金に向かってたどるだけだ。黄道複写理論のもとになったのはもちろんヴァレンティヌスの十二の鍵、これによれば第一の作業はサトゥルヌスの世界である土星で成される。二重軌道により土星には二つの宮が座すが、乙女の次となれば宝瓶宮だ。この少年は乙女の代わりに霊酒を注ぎ、水銀の性質を世界霊魂に局限付加する。その状態こそが半獣半魚の姿をもち、原質を形象化する磨羯宮。続いて双魚宮では完全な魚の姿となって二匹に分かれ、フラスコと霊的世界を合わせ鏡のように相互に映し出す。かくしてサトゥルヌスの世界は終わり、軌道は木星に移る。二重のもう一方は人馬宮だ。南斗六星を抱くこの星は六をも司るから、第五段階を複写するのに工夫がいる。とは言え長調の五から六へは全音階だ、半音階を意識せずとも次の星を加えるだけでいい。人馬の矢が指すのは火星に座し、かつ火星に仇なす対抗者、天蠍宮だ。破滅と復活の使者により早くも十二段階の反応は折り返しとなり、水銀はより『世界霊魂』へと近づく。形をなくし霊魂と一体となる混沌化の過程を象徴するのがまず創生の因子をもつ白羊宮の二重星、続いて金牛宮の散開星団で星々はさらに分かたれ、その区別を失っていく。そして最大の混沌と言えばこの世のあらゆる厄災を世界に放ったパンドラの箱だ。ディレンス、君もラウロ・アストレの絵画『災禍と女神』を知っているだろう。あれに描かれた黒と灰の闇は絶望でありながら再生に必要な腐敗を暗示している。黄道で言えば女神ユースティティアとともに地上で最も長く混沌を見届けた天秤宮だ。ここまで来ると赤きウェヌスの衣が剥がれ、反応は十段階目に至り、ようやく水銀の世界に戻ってくる。すなわち再び水星に座す双児宮に至り、ペルセクタスは位相をずらした霊薬を用いて『白き霊石』を得たのだ」
「彼が実験したのはそこまでだろう。残りの二つはどうする」
ディレンスは台座に残る巨蟹宮と獅子宮の絵を見比べて尋ねた。
「言うまでもない。錬金術師の本懐は黄金の錬成だ。水銀に魅せられた錬金術師にはペルセクタス以前だとダルダリウスが挙げられるが、彼の著書『ルーマシーと対話者による柑橘類の倒錯』によれば水銀は体内に入ると霊的な血に変化する『湿った水』であり、これを黄金とするにはまず『乾いた水』に変換し固定する必要がある。黄金の影であり身代わりとも言える白銀、つまり月に座す巨蟹宮だ。そして十二段階の反応は終わり、太陽、黄金を示す獅子宮に至る」
白手袋に包まれたエリンハルトの長い指が最後に獅子の絵に触れると、きしむような音がして台座の両隣に伏していた二つの杯がひっくり返った。
「ほら簡単だ。次は何だ」
イレーネや部下たちはどよめいたがエリンハルトは見向きもしなかった。ディレンスももう驚くのには慣れてしまい、何も言わず淡々と指示に従う。大きな二つの杯の中にはそれぞれリーヴァニア語の暗号が書かれていた。
「向かって右は『哲学者の胴体を首まで満たす血酒を捧げよ』。左は『プロメテウスの贈り物を捧げよ』だな」
「なるほど。ディレンス、捧げてくれたまえ」
「何をだ。錬金術師が血や酒に例えるものはいくらでもあるだろう。プロメテウスにしたって錬金術の成果すべてがその贈り物だと言われたら反論しようがない。君が杯に入ったらどうだ。血と錬金術の塊だ」
「それでは片方の杯しか満たせない。もう一方はどうするんだ」
エリンハルトは皮肉に気付いているのかいないのか、ディレンスの答えを真面目に受け取ったとしか思えない顔で答えた。もしかして彼を二つに分けて入れたら本当に仕掛けが動くのだろうか……?
「……結局何を捧げたらいいんだ」
ディレンスは少しの間を置いてエリンハルトに尋ね返した。何を想像したか彼に気付かれないとよいが。
「君の言う通り錬金術師が血や酒に例えるものは数多い。だが哲学者の胴体を首まで満たすとなれば話は別だ。哲学者の卵とは巨視的宇宙をフラスコ宇宙に再現するための器、しかしながら大いなる作業に用いるフラスコは中身を首まで満たして使うものではない。よって錬金術師ではなくテフテン教徒にとっての血、瓶に首まで詰まった赤い酒が正解だ。そしてプロメテウスの贈り物は最初の一つで構わないさ」
ディレンスはイレーネの部下や鉱夫たちを振り返った。
「ここにワインはありますか。それから松明の火と薪を貸してください」
右の杯に鉱夫から譲ってもらったワイン(高級品ではないが鉱山の中は温湿度の変化が少ないせいか保存状態はよかった)の瓶を空け、左の杯には薪を積んで火をつける。赤々とした炎が上がると二つの杯は再びひっくり返って伏せり、鋼鉄の扉がゆっくりと開いた。
◇
「本当に大丈夫なんだろうな」
鉄の扉の先に現れた階段を下りながら、ディレンスは前を行くエリンハルトに呼びかけた。壁に取り付けられたランプに火を灯すことはできたが下りていく先は暗い。しかし、エリンハルトのかかとの高い靴は規則正しく、どころか、むしろわずかに加速して硬い音を響かせる。
「もちろんだとも。ペルセクタス卿は同志を歓迎しているのだよ」
道は微妙に曲がっていて、振り返ってもすでに入り口は見えない。しかも何を思ったのかエリンハルトはイレーネ達を帰してしまった。――いや、分かってはいる。いつまで掛かるか分からない探索から戻るのを待てだなんて、相手が侯爵令嬢でなくても無理な注文だ。進むしかないと覚悟を決めてしばらく行くと前方に木の扉が現れた。
「見たまえ、鍵が付いていない。最初の扉を開いた者、すなわち錬金術師であればこの先は歓迎するという証だ」
錬金術師はためらいなく扉に手をかけ部屋に入る。
「おお! これがかのヴェリタス・ペルセクタスの研究室か!」
「エリンハルト、歓迎されるのが錬金術師だけなら僕は違うじゃないか」
「ふむ、そうだな、招かれざる客というわけだ。だから言っただろう、君も錬金術を専攻すべきだった。錬金術こそあらゆる学問の頂点、神が人間に与えた最も崇高な哲学であり、至上の叡智なのだから」
部屋の中央にある大きな錬金炉がまず目に入った。それから、部屋中に所狭しと置かれた薬品やガラス器具に金属のるつぼ、本棚には大量の書物と羊皮紙の束。エリンハルトは興奮した様子で一つ一つを眺めている。ディレンスはといえば以前に似た部屋を見た気がして記憶をたどっていた。エリンハルトの部屋より古い、そうか、学問院時代の錬金術の教室だ。
当時のエリンハルトの姿が目の前の彼と重なる。
八年前、ディレンスはエリンハルトにいじめられた──というか、ばかにされた。
「レーバー君。君はまさか本当に錬金術を専攻しないつもりかい」
エリンハルトに家名で呼ばれたのは初めてで、一瞬声を掛けられたのに気付かなかった。学問院入学と同時に天才としてもてはやされ、取り巻きに囲まれた彼と偶然学内で会った時だったか。今と同じ言葉を聞いたのを思い出す。
「錬金術こそこの世で最も崇高な哲学であり、至上の叡智だ。それを学ばないとは、君がそんな愚者だったとはな」
「エリー? 僕は他の――」
「待ちたまえ。子供のような呼び方はやめてくれ。君と違って私は本物の学問を修める身なのだから」
「――エリンハルト、僕は錬金術以外の学問だって面白いと」
「もちろんだ、何にだって多少の面白さはある。ただ錬金術が学問として至高であり、他の頂点に立つと言っているだけだ。それを学ばないとは、君の四年間は実に無益でむなしいものになるだろう」
周りの錬金術師たちが一斉に嗤う。学問院での四年間、学内で会うたびに彼はずっとこんな調子だった。
「学問に上下などないよ。神が作った世界の理も面白いけれど、僕は人が人のために作った文明にこそ興味がある。言語、法律、経済、それらが作る歴史……知れば知るほど人間とはいかに賢明で、愚かで、尊いものかと興味は尽きないよ」
あの時こう言えたらどんなによかったか。今更ながら反論できただけましだろうか。
「人が? 人が作ったものなど不完全な失敗作ばかり。世界の秩序を粗悪に模倣するための手段でしかない」
「言い方だな。錬金術を学ぶのにだって言語や記録が必要だ。社会や経済がなければ日々の糧を得るのに精一杯で巨視的宇宙とやらを探求する余裕などないだろう? エリンハルト、君は手段を軽視しすぎる。天秤の傾きは簡単に変わるんだよ。だから……」
あんな問題を起こしたんだ、と言いかけて、ディレンスは寸前で飲み込んだ。
学問院を卒業する直前、エリンハルトの卒業課題を書いたのは実は自分だと名乗る学生が現れ騒ぎになった。内容からして本人以外が書いたとは考えにくかったが、筆跡は確かにその学生のものだった。研究の時間が惜しかったから級友の課題を手伝う代わりに口述して書かせたというエリンハルトの主張が認められたものの、多くの学生は彼に向かって後ろ指を指した。本当は上流階級の証である読み書きができない、下賤の人間なのではないかと。
手段を選ばなかったせいで今まで持ち上げられていた彼が貶められる側に傾いた――あのとき胸の内に抱いた感情が何だったか、ディレンスは今も記憶の底に閉じ込めたまま分からずにいる。たとえ当時の彼が不遜な態度を取っていたとしても、自分は、他人が攻撃されるのを見て喜ぶ人間ではない。そう信じてはいるが、記憶を掘り返してまで確認するのは怖かった。
「だから?」
ディレンスの言葉を待っていたエリンハルトに聞き返され、彼ははっと我に返った。
「だから……ほら、この天秤も動くんじゃないか」
部屋の奥まで進んだ二人の前には鍵のかかった扉があり、脇にガラスケースに入った天秤が置かれていた。片方にだけ金属球が載って傾いている。
「また話をはぐらかしたな。ディレンス、何度でも言うが――君の天秤に釣り合うものが錬金術でなくて本当によかったのか?」
「は? だから僕だって何度も言っただろう。僕は錬金術より言語や文学に興味があると。特に古代シニラの詩歌なんか格別だ。いつか僕が全部読んでやりたい」
「勝手にしたまえ」
エリンハルトは一言だけ返事をするとディレンスから目を逸らして天秤を観察し始めた。
「今度は何の仕掛けだ? また天秤宮がどうとか言うのか」
「いいや、これはフラスコ宇宙を内に閉じ込めた『霊魂精製装置』だ」
「『霊魂精製装置』!?」
「そう、ガラスケースの中は外界から独立した一つの世界、言ってみれば宇宙的エネルギーを内包する第一原質の体内だ。天秤をひも解くにはエメラルド碑板に刻まれた文書を思い出せばいい。神に挑戦した大天使ルシフェルの緑玉にはかのトリスメギストスの哲学が記述されたと言われている。曰く、下に在りしは上の如く、上に在りしは下の如く。また曰く、地から天へ、天から地へ、上なるものと下なるものの原質を集め唯一の奇跡を為さんと。マデス=モカーナーはラミデアの哲学者であり錬金術を実践することはなかったが、『神信論』でエメラルド碑板から天秤に言及した者の一人だ。最後の審判で天秤を持ち魂を量るのが大天使ミカエルだと言えば自ずと分かるだろう、ルシフェルの所業を神への反逆とみなし剣をもって緑玉を割った張本人だ。ペルセクタスやカラム・グィら錬金術師はもっと直接的だな。反応が進むごとに天秤の上下が入れ替わるように操作する『天地技法』で大いなる作業、特に分離精製の工程を最適化する研究を残している」
「カラムは晩年に記した手記で『天地技法』を自ら否定していなかったか?」
癖字のガイガル語は読みにくかったなとディレンスは苦い顔になる。
「普遍的な技法ではないと述べただけだ。初期段階の精製においては有用に違いないさ。もっとも、晩年のカラムは硫黄の精製の最終段階を熱心に研究していたから『天地技法』が使えなかったんだろう。天秤の支柱を見たまえ。絡みつく二匹の蛇がヘルメスの杖を暗示している。ガラスケースの扉には鍵がかかり外界に続く開口部は二つだけ。となれば一方から集めた霊魂がヘルメスの杖に導かれて湿った道と乾いた道を通り、上なるものは下となり、世界霊魂となって出てくると考えるのが自然だ」
「霊薬による固液混成の理論と似ているな」
「その通り。だから第一の口は上がったほうの皿の真上だが、漏斗に螺旋状のガラス管が繋がっている。この管を通るもの――すなわち冷と湿の性質を持つもののみが哲学者の卵に届く」
上がったほうの皿の上、螺旋状のガラス管の先では、小さなフラスコが口を開けている。
「そして他方の皿に載っているのは鉛の玉だ。フラスコよりさらに一回り小さいからフラスコの内容積に合わせてあるのだろう。このサトゥルヌスの鉱石は最も愚鈍で、人の手と火の術で容易に溶解し腐敗するが、だからこそ始まりの原質でもある。最近ではシャピアウスが『火の再生』で鉛こそ不死鳥の卵を保護する黒き灰となり得ると書いていたな」
「下がった皿の底が台座に着いているが、その下に不死鳥の卵でもあると言うのか」
「正解だ。今日の君は冴えているな」
「……まあ、そこから不死鳥の卵、というか鍵が出てこないと困るからな」
皿の下にある台座は坂道になっており、道の終わりがガラスケースの第二の出口、側面の一番下にある小さな開口部に続いていた。そしてすぐ隣に差し込めとばかりに扉の鍵穴が待ち構えている。ディレンスは扉の取っ手をひねってみたが今は鍵がかかっていた。
「要するに天秤を釣り合わせればこっちの皿が上がって鍵がケースの外に出てくる仕掛けだな。そして反対の皿を押したり適当なものをのせることはできないと」
霊魂だのルシフェルだのの話は一体何だったのか――とは言えず、ディレンスはケースの上にある開口部を眺めた。
「冷と湿の性質をもって螺旋の管を通ることができ、同体積の鉛よりも重い物質。一目瞭然だろう、ディレンス」
エリンハルトが上気した唇に楽しそうな笑みを浮かべる。
「水銀、だな」
対するディレンスはいぶかしげだ。簡単すぎる。
「そうだ。君は簡単だと思っていることだろう」
しまった、顔に出たか。エリンハルトはますます楽しそうに杖の天球儀をくるりと回した。
「ディレンス、君は錬金術の本質を理解していないんだ。錬金術には二つの道筋がある。軌道が二重だとか、乾湿どちらの道を行くかとか、そういうことではない。すなわち」
エリンハルトは突如背後を振り返り、杖で部屋の中央に置かれた錬金炉を示した。
「大いなる作業には理論だけでなく実践が欠かせないのだよ」
「実践って」
錬金炉を見る。長らく使われていなかったであろう口がぽっかり開いて赤い火を待っていた。炉の上に設置された蒸留器は大型で、中に鉱石を入れるのにちょうどよさそうだ。例えば、炉の脇に山と積まれた辰砂とか。
「まさか、ここで水銀を作れと?」
「ペルセクタス卿が歓迎するのは錬金術師だけだ。実践ができない者を錬金術師と認めるわけにはいかないさ」
エリンハルトの声がだんだん遠く聞こえた。最悪だ。一の水銀を得るのに必要な辰砂は百だったか千だったか、小さなフラスコとはいえ満たすだけの水銀を得るのにどれだけかかるだろう。そして、いくら手間や時間がかかろうとこの男が引き返すことなど万に一つもありえない。
「エリンハルト、一応聞くが」
「もちろん錬金術師としては先に進む」
「……はあ。何をしたらいいんだ」
答えが来ないうちからディレンスは部屋の探索を始めた。炉を使うならまず火か。
「ディレンス」
「お、薪があったぞ」
「戻したまえ。君は私の時間を無駄にする気か」
エリンハルトは目だけで不躾にディレンスを呼び、天秤が入ったガラスケースの前に戻った。そのまま流れるような動きで、手に持った杖の天球儀をガラスケースに設置された第一の開口部に近づける。
「まさか」
天球儀の中心にある金属球がゆっくりと融け(魔法で変化したと分かっていてもディレンスには融けたように見えた)、漏斗の中心部から螺旋状のガラス管を通り、天秤の皿に乗るフラスコの中へと流れた。
「おい、ずるくないか? 実践とか言ったじゃないか」
「己の能力を使って何がいけない。実践の判断はこの場で水銀を手に入れられたかどうかだ。錬金炉の使用不使用や要した時間には全く関係ない。であれば効率よく進むべきだ」
小さなフラスコはみるみるうちに満たされ、天秤の反対側の皿がゆっくりと持ち上がる。皿の下から何かが現れて台座の坂道を転がる。
「ディレンス」
「あ、ああ」
ガラスケースの出口に回り込むとディレンスの手に丸いものが収まった。真鍮製の小さな卵だ。表面に炎を抱く鳥をモチーフにした装飾が施されている。
「へえ、本当に不死鳥の卵というわけか。ここ外れそうだな」
装飾の凹凸をいじるとカチっと音がして装飾の一部が回転し、細い部品が現れた。鍵だ。
扉の鍵穴に差し込む。ぴったりだ。
「うーん。やっぱりずるくないか」
ディレンスがしぶしぶ鍵を回し扉を開くと、エリンハルトはさっさと先へ行ってしまった。
◇
「お、おお! これは」
思わず感嘆の声が漏れる。まさか、錬金術師の研究所で自分がエリンハルト以上に胸を躍らせることになろうとは。
扉をくぐった途端、見渡す限りの――少し誇張しすぎだろうか――本に囲まれたのだ。
「ホルマデウスが全巻揃ってる! レジールの『カウル・インダクシオン』も! 錬金術書だってリーヴァニアのものは君の書庫より充実してるんじゃないか? これなんか初めて見る」
ディレンスは『粉まみれの異種生物の振動』という奇妙な題の本(錬金術書の題は暗号で書かれていて直訳すると非常に奇妙なことが多い)を本棚から引き出した。なめし革の表紙にはぎょろりとした目が三つある太陽が描かれている。それを一瞥したエリンハルトがもう見たと冷ややかに言った。
「変だな。ディレンス、君には楽園かもしれないが錬金術師にとってここはただの書庫だ。まだ先があるとしか思えない。だが」
エリンハルトに促されディレンスも部屋を見回す。古いが座り心地のよさそうな読書椅子が一つと、書き物ができる小さな机と椅子が一組あるほかは、壁も部屋の中もほぼ本棚で埋まっていた。もちろん入ってきた扉以外に出入り口はない。
「怪しいのは柱のあれか。……ディレンス、あれは文字なのか?」
一ヶ所だけ本棚と本棚の間に柱があり、大きな額縁が掛けられているのが二人の目に留まった。インクをこぼして下へ引きずったような模様が並んでいる――とか、エリンハルトにはそんな風に見えているだろうか。
「サーキのかな文字だ。東方では筆で文字を書くからこんな風になる」
「筆で文字を? では画家は何を使うんだ」
「絵も筆で描くんじゃないか。たぶん」
「ふうん」
エリンハルトは白手袋で額縁越しに一番左の文字をなぞった。――彼が触れたということはどこかへ飛ばされる魔法はかかっていないらしい。
「それで、一体何が書いてあるんだ」
少し離れた点々を汚れか意図的なものか図りかねた顔をしてエリンハルトが振り返る。
「君が今なぞったのは『すず』だ。そっちから順番にすず、しろがね、みずがね、あかがね、こがね、くろがね、なまり、だ。意味は錫、銀、水銀、銅、金、鉄、鉛」
「ふむ、大層な外見のわりにただ七金属が並んでいるだけか」
「どうするんだ」
ディレンスの問いには答えず、エリンハルトの視線が再び額縁の文字を向く。
「さっき東方の国だと言ったか」
「ああ。サーキという、大陸の東端のさらに先にある島国だ」
「あったな。だが錬金術の分野では名を聞かない。セイ国の錬丹術をそのまま使うだけのつまらない国だ」
言葉とは裏腹にエリンハルトの口角が持ち上がる。何かつかんだらしい。
「なるほど。つまり錬丹術を読み解けということだ。我々西方の錬金術は原質を四つの属性で表現している。すなわち火、水、風、土だ。しかし東方の錬丹術には属性が五つ存在する。曰く、木、火、土、金、水だ。よって惑星の軌道計算も黄金へ至る金属変性の道筋も四の倍数と五の倍数で表現が変わることになる」
「だったらどうするんだ」ディレンスが再び問う。
「再計算だ。文字の順番は錫、銀、水銀、銅、金、鉄、鉛で間違いないな?」
エリンハルトは言いながら椅子に腰掛けた。彼の行動を予測していたかのように書き物机の上には羊皮紙の束とペン、インクが置いてある。
「惑星軌道を計算し直して西方での順に並び替える。君はその本でも読んでいたまえ」
「そうするよ」
ディレンスは読書椅子に腰かけ(見た目よりずっと座り心地がよかった)、エリンハルトが走らせるペンの音を背景に三つ目の太陽の本を開く。錬金術書を読むのは久しぶりだった。
◇
十六年前、ディレンスは――これは一切の掛け値なしに――エリンハルトに命を救われた。
確か、エリンハルトの父がくれた小さな錫製のおもちゃだった。ローデルグ卿が重用する子爵の甥のディレンスと、専属の錬金術師の息子であるエリンハルトは生まれたときから兄弟のように育ち、その日も当たり前のように二人で遊んでいた。遠方から主人の屋敷へ戻ったエリンハルトの父を一緒に迎えたとき、渡してくれたのがひよこだったかカエルだったか、とにかく違う形のおもちゃで、互いに同じものが欲しくなってしまったのだ。取り合い、もみ合い、気付くとディレンスは屋敷のバルコニーから身を乗り出していた。
地面から見えない手で身体を引っ張られ、重心が移動したときには幼心に死を覚悟したように思う。
「ディレンス!」
ものすごい力で手を引かれ再び現世の側に戻されると、目の前からエリンハルトが消えた。
「エリー!」
彼と入れ替わるように落ちた友人の身体はもう手が届かないところにあった。
後から聞いた話では、エリンハルトは木々と金網のようなものが緩衝材になったおかげで大した怪我もなく無事だったらしい。取り合った錫のおもちゃはどこかへ行ってしまい、三日と経たないうちに二人は元の生活に戻った。
――そう思った。
あの日は事件後初めての雨で、ディレンスとエリンハルトは書庫で一緒に読書をしていた。ディレンスは『ズースホーラの冒険』第三巻を長い時間をかけて読み終え(若年向けとはいえ八歳の彼には少々難解だった)、大満足したのをよく覚えている。いつも通りに錬金術書を開いた友人はどうかと隣を見ると、エリンハルトは真っ青な顔で本を凝視し震えていた。
「エリー? どうしたの、大丈夫?」
返事がない。読書に集中して返事をしないことは互いによくあったのでディレンスは少し待った。しかし、友人の手は震えたままいつまで経ってもページをめくる気配がない。よく見ればディレンスが一冊読み終える時間があったのに、開いているのはほんの序盤だ。
「……ディレンス」
しばらく雨音だけが続いた後、エリンハルトのものとは思えないような、か細い声が絞り出された。
「どうしよう、本が読めない」
何人かの医師に見せ、診断は高所から落ちた衝撃で発症した失読症で一致した。当時のディレンスにはすべては理解できなかったが、友人が文字を読んだり書いたりできなくなったこと、そして治療方法が見つかっていないことははっきりと分かった。
「ごめんね、エリー……」
「僕も悪かった、謝る必要はない。君が無事でよかった」
「でも……」
何度謝ったところでかける言葉がなかった。実際、もしディレンスが落ちていたら――窮地に陥って魔法の力に目覚めることなどなく――死んでいたかもしれない。
「父上が言っていた。錬金術書で重要な内容は文字よりも象徴で表現されると。それに錬金術を修める上で重要なのは書よりも作業だ。技術は父上から習えるのだから何の問題もない」
エリンハルトの言葉は本心には違いない、と思う。ディレンスの無事を本気で喜んでいるし、彼が大丈夫だと言うなら勉学にも本当に問題はないのだろう。
しかし、あれから彼は毎日書庫に通っている。
「これは何の本だろうな」
「分からないよ……たぶん外国の言葉」
手当たり次第に本を開いては、読めはしないかと穴があくほど見つめて。
「これも分からないな」
「……それは、ベールランド語」
「っ!」
「エリー!」
宙を舞った本にディレンスは世界がひっくり返った気がした。あんなに、本が好きだったエリーが。
彼が言った。文字が羽虫のように飛ぶと。読もうとすると紙から浮いてぶんぶん飛び回り、単語を成さなくなってしまうと。ディレンスは落ちた本のページから文字が飛び立っていく様を想像し恐怖した。このままではエリーが真っ白になってしまう。急いで本を拾い上げた。
「『ゆえに、我々は、救済せねばならない。聖典に残る人類のきょうじをもって彼の魂をたたえよ。聖マーサの祝福を受け、民を導いたテフタのちゆうを』――テフテン教の本だ」
「……そうか」
「エリー、僕が読む」
ディレンスのまっすぐな目にエリンハルトは一瞬だけ反応し、すぐにうつむき小さく首を振った。頭の良い彼のことだ、ディレンスが言い出す可能性も、その無謀さも、すでに想像していたのかもしれない。
しかし、彼の想像以上にディレンスは本気だった。
「全部読むから。君が読みたいものなら何でもだ。錬金術でも、外国の本でも、何だって」
「必要ない」
「でも、ほら、この本は前に見てたよね。一緒に読もうよ」
あの雨の日、文字を読めないと気付いたエリンハルトがページをめくれずにいた本だ。
「ディレンス、君は」
「えーと、『丸々とした竜のそうぞくにん』!」
「……ふっ」
「! ふふ、ほら、読めば面白いでしょ? 『丸々太った竜の一匹目は――』」
「違う違う、錬金術においては円環の竜だ。しかも何を相続する気なんだ。それは言葉遊びで冷たく乾いた原質を表していて――」
初めこそエリンハルトの力になりたい一心だったが、ディレンスが言語に魅了されるまでさほど時間はかからなかった。錬金術書の言葉遊びや暗号のような並べ替え、直線だけで七十七種類を構成する北方の氷刻文字、教義の言葉しか使えないために同音異義語ばかりのリーヴァニア語、ベールランドのアルファベットを全部重ねてやっと一文字になりそうなほど複雑なセイ国語の表意文字。筆で流れるように書かれたサーキのかな文字もそうして読めるようになった言語の一つだ。
エリンハルトが文字を失ってしまったことへの後悔や悲しみは消えないが、事件があったためにディレンスの人生が一つ豊かになったのもまた事実だった。そして一方のエリンハルトは宣言通り象徴を見るだけで書を理解できるようになり、いつしかディレンスが錬金術書を読むことはなくなっていた。
三つ目の太陽の本を閉じる。奇妙な絵がほとんどで読む箇所は少ないはずが、昔を思い返していたらあっという間に時間が過ぎてしまった。慌ててエリンハルトを見れば珍しいことにまだ計算を続けている。胸をなでおろして次は何を読もうかと本棚を眺めると、暗号と同じ流れるような筆文字が目に留まった。せっかくだからサーキの物語でも読んでみようか。
ざらざらした紙をひもで綴じた本を手に取る。遠い国では文字だけでなく本の様相も全く異なるのが興味深い。表紙にしては不思議なほど控えめな文字で『白鬼草子』と書かれた題名に想像を膨らませ表紙をめくる。
「あっ!」
「どうした」
叫びに近い大声に、エリンハルトが計算の手を止めて振り向く。
「……すまない、エリンハルト」
「?」
「サーキの文字は、右から読むんだった」
ディレンスが開いた最初のページには、たった一文字「完」と書かれていた。
◇
「まだ終わらないのか」
暗号の正しい順番が分かれば一瞬で解けるかと思われたが、ディレンスが再び――今度は正しい向きから――「完」のページにたどり着いてもエリンハルトは計算を続けていた。時々、質量が消えたとか軌道が点になるとかぼやく声が漏れる。
「日が落ちる前には帰るぞ。もう少ししたら諦めてくれ」
ディレンスは懐中時計を手に呼びかけた。
「おかしい。何か見落としている。ディレンス、七金属の順番は今度こそ間違いないな」
エリンハルトはついにペンを置き、腕を組んで羊皮紙に書き散らした図柄を順に眺めた。
「ああ。なまり、くろがね、こがね、あかがね、みずがね、しろがね、すず」
ディレンスはもう一度、額縁の文字を右から順に読み上げた。エリンハルトも途中から顔を上げて額縁を見つめている。
「ふむ、ディレンス、サーキについて知っていることを何でもいいから教えてくれたまえ」
「サーキについて? 別に詳しくないぞ。知っているのは大陸の東端のさらに先にある島国で、セイ国の影響が強いことくらいだ」
エリンハルトは端正な顔を全く動かさずにため息をついた。何でもいいと言った手前、もう聞いたとは言えなかったのだろう――言わずとも伝わったが。
「ではサーキ語ならどうだ。何か知っているだろう」
「サーキ語……そうだな、サーキはセイ国の表意文字と、そこから独自に発展させた表音文字を併用しているんだ。あのかな文字は表音文字で一文字が一音節。だからサーキというのも彼らの発音だとサ、カ、キ、と読むのが近い」
「ほう」
「この性質のためにサーキには面白い詩があってね、十七字とか三十一字とか文字数で規定されているんだ。基本的に文字数と音数が等しいから同じリズムで読める詩が生まれる。十七字の詩はきっと世界一短い文学じゃないかな」
話していると頭の底に眠っていた記憶や知識が引き出されるものだ。ディレンスの脳裏に詩歌から想像したあるイメージが浮かんだ。
「そうか、チルカの国だ」
「チルカ?」
「ああ、いや、チルカは僕が勝手に付けた名前で、本当はマカラだったかサルカだったか……とにかく花なんだが、散るんだよ。だから散る花。サーキの詩にはこの花を詠んだものがとても多くて、花と言ったらチルカを指すくらいだ。それも散り際が美しいと。君と気が合うと思わないか? 少なくとも、ローデルグ卿が散らないという理由だけで好きでもない巨白花を紋章にしているのとは対照的だ」
問いかけられたエリンハルトはやや不満顔だ。
「私は別に、不老不死を求めないからといって進んで散る気もないが」
「はは。それにしても、サーキの人たちがそこまで愛でるなんて一体どんな花なんだろうな。確かかな文字の辞書順も花が散るのを儚む詩になっているんだよ。色は匂へど、散りぬるを、だったかな――」
ふと額縁の文字が目に入る。まさか。
「──だとしたら、リーヴァニア語との翻訳用じゃなくて、サーキで使われているほうの」
「ディレンス?」
「これか?」
ディレンスは立ち上がると本棚から一冊の本を探し当てた。サーキの辞書だ。
近づいてきたエリンハルトにも見えるようにして本を開く。不自然な感触があり、本はきっかり真ん中で開いた。
「正解、かな」
くりぬかれたページに鍵が隠されていた。
「何だ!? どういうことだ」
エリンハルトが珍しく──どころではなく──慌てている。彼が本気で取り乱すところなんて、少年時代に父親のフラスコを割ったときに見たのが最後ではなかったか。
「鍵穴は……」
辞書があった周囲の本をどけてみる。予想通り、本棚の奥に鍵穴があった。呆然としているエリンハルトを横目に、鍵を差し込み回す。カチリと何かが外れる音がして本棚が動いた。背後に人一人がちょうど通れるくらいの通路が現れる。
「当たったみたいだ。暗号の答えはかな文字の辞書順らしいな」
「……ありえない」
「じゃあ戻るか」
「なおさらありえない。ペルセクタス卿は一体何を考えているんだ? この先に答えがあるならぜひ見せてもらおうじゃないか」
「あ、おい、待て」
真っ暗な通路に飛び込んだエリンハルトを急いで追う。ごつごつした道は下りだった。かろうじて松明に照らされた足場は不揃いな階段なのかただの岩場なのか判断しかね、ディレンスは恐る恐る足を進めた。足元に湿った気配を感じても、道が狭くなり無理に身体を通すことになっても、エリンハルトは歩みを止めない。帰り道が心配になったころ、それは突然現れた。
青白い光がいびつな四角形に浮かんでいる。通路の出口だ。
「……」
「……」
あまりの絶景に二人は思わず息を呑んだ。
地下深くに広々と現れた空間は鍾乳洞だろうか、壁という壁に自然と時間が織りなした荘厳な彫刻が施され、静謐な地底湖がそのすべてを包容していた。松明に頼らずとも全景が見えるのは無数に飛び交う湖光虫のためだ。神秘的な青白い光が洞窟中に広がり、時にまばゆいほど白く、時に闇に溶けるほど青く、空間が呼吸しているかのようにうごめいては絶景を浮かび上がらせている。セラン湖が地下に隠したもう一つの姿だった。
「これは」
「すごいな」
ディレンスもエリンハルトもしばしの間、ただただ美しさに包まれてその光景を思う存分堪能した。
「言葉が出ない。筆舌に尽くしがたいとはこういうことか」
「そうかな。スロファーが異国の洞窟を形容して言った『蒼き龍が造りし神殿』なんて近いと思わないか。『銀帆航行記』の主人公が海に映った星を見る描写もいい、『星屑の虚像は深き波にきらと耀ひ、寄せては返すのでいくら待てども我が手には届かじ』」
ディレンスはいくつかの表現を諳んじて湖光虫に手を伸ばした。青い光がその手からふわりと逃れ、ゆらゆらとどこかへ飛んでいくのを満足して見つめる。
「む……他人の言葉で語るとは」
「筆舌に尽くせるかどうかなら誰が尽くしたかは関係ないだろう」
「気楽なものだな。錬金術師が認めるのは本人が実践し錬成したもののみだ」
「知らないよ。僕は錬金術師じゃないんだ、その定義からは外してくれ」
せっかくの景色から現実に引き戻されたことで、二人の耳にこぽこぽと水の沸く音が聞こえた。見ればフラスコと太い管をいくつも繋げた巨大なガラスの装置が置かれている。
一番大きなフラスコの中で、赤い液体が炎に熱せられ沸き立っていた。
「あれ、何か見覚えが……」
頭をひねるディレンスだったが、エリンハルトはすかさず上を向いた。天井に太い管が二本繋がっている。
「なるほど、入り口の真下だ」
「あ! 最初に入れたワインと火か」
ガラスの装置に移ったエリンハルトの視線を追い、ディレンスも装置を順に観察する。ワインから立ち上った蒸気がフラスコから斜めに伸びたガラス管に移動し、二重の管を通り、鍾乳洞の岩盤を通り、液体に戻ってもう一つのフラスコに集まるようだ。面白いことに、赤いワインから生まれたはずが貯まっている液体は透明だった。そして、その脇にあるものを見てエリンハルトは視線を止め、抑えた声で、しかしディレンスにははっきりと聞こえるように言った。
「最後の暗号、あれは錬金術師には絶対に解けなかった」
「まだ言ってるのか」
こんな絶景を見ても忘れないとは、意外と根に持つところが――
「違う。ペルセクタス卿が意図したということだ。見たまえ。証拠に、ここには杯が二つ置かれている」
湖光虫の光に照らされて、美しいウィスカハルのガラス細工の杯が確かに二つ並んでいた。
「偶然じゃないのか」
「錬金術師も人間だ。素晴らしい景色なら誰かと分かち合うほうが愉快に決まっている。これがあればなおさらだ」
エリンハルトは透明に光る液体が貯まったフラスコを手に取った。
「ご馳走しよう。これぞ錬金術が生んだ至宝、正真正銘の『生命の水』だ――もちろん、不老不死にはなれないが」
杯へ流れる液体から芳醇な美酒の香気が広がり鼻をつく。
「これは……悪くないな、錬金術も」
「ディレンス、学問の頂点に対する評価としては低すぎる。訂正したまえ」
「敬意がないのはどっちだ。錬金術だけではここまで来られなかったとさっき自分で言ったばかりじゃないか」
「ふむ、仕方ない。今回ばかりはペルセクタス卿に免じてこの麗しい光景に捧げよう」
「そうだな。君といると珍しいものを見てばかりだが、今回は格別だ」
ディレンスが差し出した杯は同じ杯と触れ合い、青い光の中に高く澄んだ音を響かせた。




