第四話 「残酷なる猫は夢見る」 11 *PAST 4
11 ――PAST 4
令嬢舞歌の第一印象が「可愛い」という単純な感情であったことに違いはないが、それよりも「変な名前」という印象もあった。貴人の娘を意味する令嬢であるが、しかし彼女はそういった言葉には似合わない少女だった。
横断幕の事件があってから夜神と舞歌の仲は拍車をかけたように深まっていった。周囲の目もおかまいなしの彼らは何の障害もなく、思うように互いを過ごしていた。ただ、夜神の中に恋愛感情と呼ばれるものはまだなかった。彼らが恋愛としても友人としても何かを告白することはない。
女子供に暴力をふるい、殺すことがかっこいいと思ったことはない。だが、相手に殴れと言われれば殴り、逆に慰めろと言われたら慰める。それが夜神だった。ただ一つだけ女子供に対して遠慮するのは紛れもない死だ。もし相手に殺せと言われても、彼はきっと殺さないだろう。彼は令嬢舞歌が死ぬ前から女が死ぬことが嫌いだった。
「ねえ、ヨル」
夏休み直前。それまで彼らはかなりの仲には発展していたが、一緒に下校したり、どこかへ遊びに行ったりはしていない。そのまま向けようとしていた夏休みの、直前である。舞歌が放課後夜神の席へいつもの調子で寄り、そう切り出した。
「え、と……その……、夏休みって暇かな?」
「暇だけれど」と彼は何の期待もせず、自分が帰宅部状態の部活に所属し、かつ特に夏休みで行きたいところもなかった為、そう答えた。しかしこれでさえ彼は進歩していたのだ。きっと昔の彼なら、例え暇過ぎても、暇ではないと答えただろう。
「じゃ、じゃあさ、遊園地に行ってくれないかな」
彼女は言った。彼女の口調がやや不安定なのはそういうことか、と彼はやっと理解した。彼は特別鈍感なわけではないが、あまりにも人を見ていなさ過ぎて、人が無意識あるいは意識的に発する情報を上手く読み取ることができない。
「わかった、行こう」
いつも通りの笑顔で彼は頷いた。それに対して「よかった」と彼女は言うが、赤面し笑顔のまま俯いているようだった。しかし嬉しそうであることに彼も気が付かないわけでもなかったが、まさか自分に恋愛感情を持っているなど思いもしなかった。
令嬢は大切な友人――と彼は言い切ることができないのだろうが、彼としてはそう思いたかった。何せ、学校で唯一話せる人間で、そこにいるだけで不安がなくなる唯一の存在でもあったのだから。ただし、恋人とはまず思わないだろう。そもそも告白もしていないし、彼は彼女を恋愛対象として見ているわけでもなく、同じく彼女が自分のことを恋愛対象として見ているわけがなかろうと考えていたからだ。青春は感じても、それが必ずしも恋愛とは限らないのだ。
恋人ではないのだから、手を繋いだり、腕を組んだり、それ以上のことも無論、するはずがない。舞歌には多くの友人がいるはずだ。彼女もまた、その友人の中に恋する人間がいるのだろう、と夜神は思っていた。彼女にも友人がいないことを知らずに。
家に帰っても彼は何をすることもなくベッドへ身を投げた。最近色々なことが起きている。榊原とクラスが別れたおかげでちょっかいを出されることはなくなり、長山も彼へ何か手をだすこともなくなっていた。きっと令嬢のおかげだろう、彼女が僕の隣にいるから奴らは僕に手を出し辛くなったのだろう。そうとも捉えていた。
彼は、自分のことはできる人間だ。彼と両親の三人家族の家庭にて、彼は一人孤立していた。両親の仲は悪いとは言えない。当時でも時々好んで旅行に出かけるほどだ。しかし夜神は違った。ある日、彼と母親が喧嘩した。小学四年生より後の話だ。原因が何だったかは忘れた。台所で喧嘩した。彼はいつものように物を投げようとした。椅子や机があったが、それを持ち上げても天井にひっかかるだけだ。冷蔵庫なんて持てるはずがなく、食洗器も同じく持ち上げることができない。結局、小道具を使おうとしない彼の意地っ張りな性格、あるいはその虚栄心の所為で、更に溜まったストレスを声に変えて怒鳴り散らした。暴言と悪口を混じった怒声は気の強い母までを沈めてしまった。母は「もうおまえの飯など作らん」と言った。彼はそれに「ああそうしろ。僕は僕だけでも生き残れる」と返した。
母は彼の飯を作らなくなった。何か大事な用がない限りは何も話さない。父親とはそもそも全く話さなかった。彼の家庭はそんなものだ。彼は孤立していた。飯はコンビニやレストランで買って食うこともあり、稀に自分で料理して一人だけで食うこともあった。彼は本以外にまず金をかけない為、子供の頃から何にも使わずにためていた――そもそも買う物がなかった為、ためていたという表現はあっていない――大金を少しずつ費やして過ごしていた。そんな自分の息子を見ても、両親は助けない。
決して貧乏なわけではない。しかし豪邸なわけでもない。生活が限界に近く働き続けなければならないわけでもなく、かといって働かなくても暮らせていけるような家庭でもなかった。無駄な金を使わない息子には、両親はきっと少なからず感心していただろう。自分達にとって都合のいい存在なのだから。
スマートフォンやパソコンは親の金で買った。滅多に高額な商品を買わない彼は、その稀な買い物を親に頼むことがある。両親は、その滅多に高額な商品を買わない息子を考えて、大して悩まずに買い与えた。都合のいい息子の滅多にないねだりなのだ。
彼は夕方までの時間をスマートフォンで費やしていた。最近はSNSアプリで舞歌と喋ることがある。実際に顔を合わせて話すわけではないので、気楽に言葉を交わすことができる。彼らは考えて発言し、その相手の言葉をしっかり受け止める人間なので、SNSアプリでよく起こる問題もなく、扱えていた。
〝夏休みの最初らへんでいいかな、遊園地行くの〟
メール文での彼女の口調は、顔を合わせて話す時より崩されている。彼女からのそのメッセージを見て、彼は「部活は大丈夫なのか?」と送った。
〝うん、部活ない日に設定するから。そもそも部活少ないし。えと、でもその日ヨルが空いてなかったらまた別の日にするけど〟
「いや、僕はいつでも大丈夫」と返す。
時々画面の向こう側の彼女はどんな表情をし、反応をしているのだろうと気になることがある。顔を合わせて話すメリットはきっと、即興性があり、内容を十分に理解し、その上で発言することができるという点だろう。表情、反応、声色、仕草、色々な情報を手に入れることができるのだ。もっとも、彼はそれを処理する能力が少し欠けているのだが。彼自身、それに気付いていても、直そうともしない。
〝よかった〟
という返信からすぐに彼女は何月の何曜日か、その日は大丈夫か、という旨の確認をしてきた。無論、彼は毎日が暇なのですぐに大丈夫と送る。表情が欠落していそうな彼は、少し微笑んだ。
〝ありがとう!〟
彼女から返ってきた文は何故か礼だった。彼は少し疑問に思いながらも、うん、と柄でもない返信をしてからスマートフォンをスリープモードにした。時計を見れば夕方、しかし時間がまだある。彼は手に握るスマートフォンと財布と、自転車の鍵を持って外へ出た。空は橙色に染まり、そろそろ黄昏刻だ。時間にゆとりがあるので、彼は少し遠いレストランで食事をすることにした。
家に帰って風呂に入れば、規則正しい生活をしている両親が既に寝ている。まだ夜の九時だ。彼はその後をいつも通りに過ごした。ただいつも通りに。
学校が終わった。夏休みに入っても彼は何も喜ばない。学校へ行かなくなるだけで、基本的に平日でも暇を持て余すような人間だからこそ、長き夏休みすらどうでもいいのだ。宿題も関係ない。彼は勉強ができる方ではないが、暇な時はとことん暇で、彼の性格から勉強は面倒だが、嫌いでもなく、寧ろ面白いと為、すぐに終わってしまう。
休み中、まさか自宅に榊原達が押し寄せることもなく、平穏と暇を過ごしていた。榊原はかなり頭が悪い方なので、自宅に押し寄せても理解できないわけでもないが。
一学期間、夜神はほぼ毎日舞歌と話していただろう。実際には一学期、しかし感覚的には一週間ほど。気付かない内に時は過ぎている。と言っても、そもそも一学期が言う程長いわけではないので、十五週間も過ごせば終わってしまう。一週間は短い。彼は土曜日曜の休暇を望んでいるわけではないが、一週間を短く感じさせる為、日頃から二連休を気にかけている。後何日で土曜だ、と。それを十五回だ、たったそれだけで一学期が終わってしまう。
遊園地に舞歌と行く日、待ち合わせは駅だった。二人は互いの家を知らないのだ。駅なら互いに知っている。夜神は早く待ち合わせの改札付近に行ったつもりだったが、既に舞歌が立っていた。彼は微笑しながら舞歌へ歩み、
「悪い、遅くなった」
と声をかけた。時刻的には陽が完全に出ていたが、彼女は眠たそうにしていた。
「いや、待ち合わせ時間よりずっと前だし、私も今来たところだから」
これを言いたかっただけなのだろう。彼はそう思いながらも笑顔を作った。彼女はにこりと笑い、さあ行こうと改札を進んだ。続いて彼も改札を進んだ。
遊園地は多くの地方から人が来る場所だ。二人は人気のある遊園地を選んでいた。いざ実際に行ってみると、その人の多さは彼らを圧倒した。夜神は東京以外でこの人の多さを見たことがなかった為、無意識に顔を引きつらせていた。
引き返すはずもなく、彼らは入場する。
「どれから乗る?」舞歌が笑顔で訊く。しかしいつもと雰囲気が違う。
「僕はどれでもいい。令嬢が選んでくれ」彼はいつも通りにそう言ったつもりだが、
「ええ、こういう時は君が選ぶ方だよ」と言われる。
そんなものだろうか、普通は女子が選ぶだろう、と心の中で呟きつつ、そういえばと思い出したように彼女へ言う。
「僕、ジェットコースターが苦手でさ。子供の頃にトラウマがあるんだ」
喋り終わってから、失敗したか、と思ったが、予想とは真逆で彼女は笑っていた。
「大丈夫、遊園地行っても、私もジェットコースターあまり乗らないから」
こういう奴はかなり乗っているのだろうな、と苦笑いしながら再び心の中で呟く。そもそもこいつは遊園地のアトラクションに乗ることを楽しみにしているのだろうか、どこか乗らなくても大丈夫と言いそうな雰囲気だ。しかし流石に遊園地に来てまで何も乗らないわけにもいかないだろう。
彼らは取り敢えずとジェットコースター以外のアトラクションを全て回ることにした。その内に「お化け屋敷」もあり、ホラーが平気な夜神はただ散歩気分だったが、隣の令嬢が抱きつくかと言わんばかりに絶叫しているのを見て、失笑しながらも彼は満喫していた。遊園地は一人で来るものではない、と呟いた。
「今日は騒がしいな」と夜神が言った。彼は何度か遊園地に行ったことがあり、今日は何かが違っているようにも感じていた。
「そうかな」彼女は気付いていないようだったが、彼は急ぎ足で歩いていく作業員の三人組を指さして「ほら」と教えた。
彼女は気にせずに、そんなこともあるんじゃないかな、と受け流した。
昼食をとる為、二人は近くにあったベンチに座った。夜神は大して気にしてなさそうに、まだ小さな体を座らせ、舞歌はちょこんと隣に座った。
「鈴科君、お弁当作ってきたんだ」
何気なく舞歌に誘導されベンチに座った夜神だったが、やっと気付く。自分の分も弁当を作ってくれたのか。だからベンチに座らされた。彼はこのような経験が全くなく、それに恋愛をしたくなってしまう年頃でもあり、少し心拍数を高まらせていた。
少し先で「桐原君、待って!」という声が耳に入り、ちらと目をやると、桐原と呼ばれた男――無論顔に憶えがあるはずがない――の裾を同年齢と思われる女子が引っ張っていた。男は「別に誰だってよかっただろ、結局無事だったんだから。とにかく僕は――」と女子から逃げるようにして歩いていた。
夜神と舞歌はその二人を見て、赤面して俯く。まだ彼らは恋人同士ではない。夜神は一度深呼吸をし、じゃあ頂こうかな、と話を戻した。
うん、と舞歌は夜神の為に作った弁当を彼に渡す。特別料理が上手い自信はなかったが、彼女は弁当を作りたかった。恋人ではない彼に。彼はいつも通りの笑顔のまま弁当を貰い、中を見てこれは凄いと漏らし、はしを手に持った。
二人はいただきますと言ってから食べ始める。
夜神が何口か食べた後、突然はしの動きが止まった。それを見た彼女は不味かったかなと心配になったが、直後夜神の言葉を聞いて不味いわけではないとわかった。彼は泣いていたのだ。柄でもなく、その涙は似つかわしくない。
「僕は今まで〝金を食べている〟と思っていた。母は僕の分の飯を作らなくなった。それから僕は一人で金を使って食事をしていた」
コンビニで買っても、レストランで頼んでも、彼は自分の金で選んで買って、食事をしていたのだ。彼はいつからか「僕は金を食べている」と思っていた。
「……僕は今、何を食べているのだろう」
確かに令嬢の弁当も元々は食材を買って、それから料理をしてできているのだろう。しかし僕は今金を食べている気分がしない。全くいつもとは違う。金を払っていないから、自分で作っていないから、それだけでは彼の考えは変わらないだろう。何故なら学校の給食すら金を食べていると感じてしまうのだから。
「弁当だけど……? な、泣くほど不味かった? 確かに私あまり料理できないけど」
彼女はそう言ったが、夜神は決してこの弁当を不味いとは思っていない。寧ろ美味しかった。レストランよりずっと。だから、言う。
「いや、違うんだ。さっきも言ったけど、僕は今まで金を食べていると思っていた。確かにこの弁当も金をかけているのだろけど、でもそうは思えないんだ」
僕は今、何を食べているのだろう。別に深い質問ではない。何を食べていると問われれば勿論それは弁当であって、他に答えはないだろう。でも違う。彼にとって形も食材も関係ないのだ。重要なものはその中。食材の仲である。
その問いを受け、ああそういうことね、と彼女はすぐに答えた。
「君は今、『愛』を食べているんだよ!」
夜神はそう言う舞歌を見ると、彼女はさぞ嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。頬を赤く染め、胸を張るように、彼女は明るく笑っていた。
「そうか……」
何を思ったのか、彼は呟くと、涙を指で払って、やっと自然に笑った。ぎこちないそれではなく、幼い無邪気な笑顔である。彼だって笑うのだ。最近は笑い過ぎた。それも、あまりにも本心からではない作り笑いだ。しかしこれだけは違う。作り笑いではない。心から湧き出る笑顔だ。
彼らは夕方まで遊園地を堪能した。気が付けば空は橙色に染まり、影がのびていた。最終的にはジェットコースターにも乗り、夜神が絶叫を上げた後に、全てのアトラクションを制覇した為、家へ帰ることにした。
「また来ようか」
そう先に言ったのは夜神だった。まさか彼にそう言われるとは思っていなかった舞歌はまた嬉しそうに、うん、と頷いてから敬礼した。
電車を降りた時には既に夜だった。正直このままわかれてそれぞれの家に帰ることが嫌だった。いっそのことずっと共にいたかった。帰りたくもない家が僕を待っていようと、僕は家に、もう帰らないぞと怒鳴ってやりたい。
街は同じことを繰り返す。人間にも言える。だからこそ、街に死角はないのだ。父親はいつも通りに出勤し、母親はいつも通り家事をする。僕はいつも通り学校へ通う。大人は自由なき街で動き回り、犯罪者はいつも通り法律に叩き潰される。
令嬢はどうなのだろう。彼女は何を繰り返しているのだろう。
「舞歌……なんてね」
試しに彼女の名前を呟いてみたが、恥ずかしさが襲い、一人顔に両手をあてていた。
家に帰り、自分で料理して夕食を作った。テレビに映るニュースでは、先ほどまで自分がいた遊園地に爆破予告が入っていて、近くにいた女子中学生が予告犯を押さえ、事件は無事に解決されていたという記事を報道していた。
知らずの内に、彼は非日常へ足先を触れていたのかもしれない。




