第二話 「悪魔は日常に潜む」 9
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ヨルは蔵里英司を発見すると、全力で走り込み、手加減なしに蹴り飛ばした。怒りに怒っていたため、位置が頭部から腹部へとずれてしまったが、目標は数メートル軽く飛んでいき、壁に衝突した。僅か半秒の出来事である。
暗い部屋で涙を流し続け、目を丸くしているかのんへ言った。
「おまえは間違っていない。だから、おまえは悪くない。謝るなんてみっともないことはするな」
その後心の中で、すまない遅くなったなと呟いた。
「伊達に化け物の仲間している訳ではないのだがね、君は残酷すぎるよ。中学生に豚の目の解剖をさせたことはあるが、それよりも君は残酷だ」
英司が壁から崩れた後にヨルへ放った。彼は腹部を手で抑え、しかし笑っていた。ナイフは握ったまま離さず、敵に向かって構えている。ルックスも身長も服装も口調も何もかもが平均的なこの若い教師は奇妙すぎた。
「許せないな。いつもはこの言葉を脅しに使うのだが、今回は本気だ。だからあえて言わせてもらおうか」
彼は歯を怒りに食い縛り、拳を爪が平を抉るほど強く握り、言い放った。
「死んでも尚、ぶっ殺してやる」
英司が鼻で笑い、攻撃をしかけようと一歩踏み出した刹那、既にヨルは攻撃をし終えていた。一瞬のことで英司は愚かかのんさえヨルの動きを視認でいなかった。
ヨルの拳が英司の顔面にクリーンヒットしていたのだ。英司は後方へ吹き飛び、先ほど衝突した壁に再び激突した。建物全体が唸り声を上げる。こんな光景を誰も見たことがなかった。まるで建物全体が生き物のように振動している。
英司は崩れ込み、一度小さな息をついてからヨルへ問うた。
「何故あいつを助ける」次第に自虐的な笑いも伺えた。「君には、何の得もないだろう?」
顔面へヨルの蹴りが入る。無防備な大人を手加減なしで蹴る高校生の姿がそこにはあった。それを見ていた者は三人。
「おまえの性欲にかのんとリナを巻き込ませるわけがないだろう」
意識が朦朧としているのか、英司の体が痙攣し始めた。それと比例して不気味な笑みもこみ上げていた。タフ過ぎる公務員だった。
かのんはその残酷で、日常とはかけ離れている光景を目に焼き付けていた。自分ができなかったことを英雄は私の代わりにしてくれている――否、彼は悪人でも、正義がない訳ではない。彼は私を守ってくれている、優しくて強い英雄なのだ。
英司は額から流れる血を気にもせず減らず口を叩いた。
「対馬里奈への道中でこれか……」
彼はリナへ向かう道中、かのんと遭遇し、昔を思い出すように彼女を襲った。本命に会う前に彼はヨルに殺されたことになる。
だが、ヨルは全く別の点に怒りを隠しきれなかった。
「おまえ、今なんて言った?」
「何故敵の頼みを聞かなければならない」
ヨルは再び英司の顔面を蹴り飛ばした。後頭部が勢いよく壁へ衝突する。鈍い、肉体が弾け飛ぶ音がした。
「おい、何故おまえがリナの本名を知っている!」
怒鳴る彼に対して英司は薄く不気味な笑いをしたまま、最後に返した。
「敵に、教える情報など……持ち合わせていない、な」
怒りを抑えきれなくなったヨルは英司の顔面を更に強く蹴った。今度は蹴りの衝撃で頭部が破裂したように砕け散り、多くの血を空中にまき散らしながら英司は絶命した。だが彼の怒りは収まらない。腹にも一度蹴りを加え、いつの間にか手にしていた英司のナイフで、英司の心臓を突き刺した。その上から更に蹴りをくらわせ、釘のようにナイフをねじ込む。瞬く間に壁と地面が赤に染まった。
ああ、本人から訊く前に本名を聞いてしまった。その味の悪さに腹が立ち、血だらけの顔面を力強く殴り飛ばした。
かのんはおもむろに立ち上がると、ヨルに歩み寄り、彼の腰のホルスターから拳銃を抜き取った。その行動が何を意味しているのか彼には一瞬わからなかった。
彼女はまだ一度として銃を握り、引き金を引いたことがない。だが、初めて彼女は銃を握り、引き金を引こうとしている。彼は止める必要がなかった。タブーを殺した自分を撃つならそれでいいと思っていたからだ。
しかし予想は外れた。彼女は泣きながら屍と化した英司へ発砲したからだ。罵声を浴びせ、彼女は弾が切れるまで撃ち続けた。その後脱力し、くずおれた。
「何で私の逃げた先がわかったのですか?」とかのん。
「人間は面白いな」ヨルは苦笑すると、周囲に手を広げて言った。「ここ、おまえがリナに拾われた場所だろう?」
何故ここに、と言わんばかりに周囲と自分を見やる彼女。
「かのん、教えてくれないか。おまえとこいつの間に何があった?」
ここでは禁句の「タブー」についての質問だった。彼は彼女が嫌だと承知の上で聞かなければいけないと思った。
「蔵里英司は私の中学の理科教師です……私と先生が最初に会ったのは、先生がセクハラで訴えられ、違う学校から飛ばされてきた、私が中三になった春の中旬です。先生は中一担当だったので、五月頃が初めてです」
かのんは隠しもせず、淡々と話を進めていく。
「私は虐められていました。それを解決してくれたのが先生です。けれど、それを契機に先生はしつこく私と絡んで……」
口を濁した。だが、言わなければと思ったのか、おもむろに口を開いた。
「私を、犯そうと……しました」
ヨルはなんとなく予想していた。女子生徒、セクハラ教師、そして禁句ときたら卑猥な話しかない。
「場所は体育倉庫でした。無理矢理連れていかれ、そこで……でも、近くにあったスコップで先生を突き飛ばしました。それでも近付く先生に私は……スコップを振り下ろして……」
後ろめたいことがあるのだろう、再び口を濁した。
「左肩にあたって、一生傷ができたそうです……私を見る度に左肩を撫でるのは、その為です。学校でも、そうなんです」
ヨルは無言で彼女の話を聞いていた。
「学校では先生を避けていて、あれ以来話もしていないのに……」
彼女の仕草からして話を終えたそうだった。話を全て聞いたヨルは、しかし何の感情も抱かずに彼女へ言った。
「それだけか?」
「え?」
当然、何を言っているのかわからない、という応答が返ってきた。
「おまえは自由を求めていたのだろう? 虐められていても、きっと『校則や成績が邪魔で抵抗できない』とでも思っていたのだろう? そういった考え方は、あいつと出会い、事件があった後から付いたものなのか?」
蔵里英司あっての今なのか?
「いや……それは……」
「なら、その考え方はおまえ自身の特徴だ。蔵里英司がいなくてもおまえは自由を求めていた。教師に卑猥なことをされようとも訴えることができない理不尽さを、おまえは憎んでいるのだろう? それは、おまえの特徴だ」
おまえは信念を持っている、と続けた。
「それは捨ててはいけない。おまえは蔵里英司によって人生が狂ったわけではない。むしろその事件があっておまえはおまえ自身を理解できたはずだ。なら、おまえは自分自身に素直になれ」
気付けばヨルは支離滅裂な、期待もしていない言葉をかのんへ投げかけていた。
「世界なんざたかが一人で傾げる。だから、おまえは自由を求めて世界を変えてみろ」
「そんなことができるのですか?」
涙目でかのんは彼へ問う。恐怖は既になくなっていて、彼との会話を真剣に自分の心へ刻んでいた。
「ああ、きっとできるさ。俺達人間は決して人形なんかではないからな」
彼女は生まれて初めて、英雄と言葉を交わした。




