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仮想の現実は無法地帯  作者: 雪斎拓馬
仮想の現実は無法地帯 上
17/55

第二話 「悪魔は日常に潜む」 8


    8


「やめて……こないで!」

 珍しく彼女は大声を出した。その為か、喉が焼けるように痛い。走り続ける足もとうとう動かなくなる。対して()()はまだ余裕の表情を浮かべて近づいてくる。大通りに人はいない。この街はそんな場所だ。

「こないで! 嫌だ!」

 ただひたすら走り続ける。ああ、自分が悪かった、と何度も頭の中で繰り返す。いつも通りにしていたのが駄目だった。やはり私は()()ではなければいけないのか? 私達人間は、誰かの()()になって踊らなければならないのか?

 どうして日常に現れた。自分の人生と価値観と考え方を一から何もかも変えたあの男が。あのタブーが。何故、ここに。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ! 誰か、助けて下さい……!」

 ああ、すみません。私は理科が嫌いだった。理科がとてつもなく嫌いになった。すみません。理科は「世界の原則」と法則を学ぶ。確かに法律や政治を習うのは社会だ。でも、「世界の原則」という一つの自由を愛しているのに、心底理科が嫌いだった。矛盾していた。すみません。私は間違っていた。人は自由を求めるが、全員が自由を手に入れればこの街のどこかの私のようになるのだろう。私は自由を手に入れた。仲間に出会えて心の底から嬉しかった。自分を仲間として認めてくれたヨル、リナ。私を友人として話してくれるヒビヤ。私に同情してくれる霊猫。ああ、嬉しかった。だけど、こうして誰からも逃げて、皆を否定し続けた、悪人の私は幸せになってはいけない。報いだ。これは罰だ。罪深き私を罰しているのだ。

 かのんはやがて歩き出し、更に重くなる足を持ち上げるが、踏み出せなくなる。近くの建物のドアを開き、暗い部屋へ倒れこむ。ドアをすぐに閉める。電灯はなく、陽も射さず、暗闇の小さな物置部屋で彼女は荒々しく肺呼吸する。

 だが、鍵のかかっていないドアは――


   *


 数分前。便利屋にて。

「…………」

 ヨルは思わず言葉を失った。無法地帯で目覚めた彼は目的を果たす為に素早く部屋へ向かったが、予想もしていない展開が彼を待っていた。

「おまえ、何をしているんだ?」

 ソファーの上で、ヨルのコートを抱いて顔を埋めている、如何にも変態らしい行動をリナが取っていた。彼女は彼を見るなり、おはようと言って、彼女の特徴の鋭い眼つきで彼を見つめた。

「ああ、すまないな、つい」リナは目を反らして答える。

「まるで()()()()()だぞ、おまえ」彼はいつも通りの強い口調で続ける。

 数秒後、ヒビヤがあくびをしながら部屋へ入ってくる。

「おはようヒビヤ」と毎回のようにリナ。

 彼も毎回のように少し頷くだけだ。しかし、ヨルもヒビヤも今日だけは行動に目標を持っている。彼らはいつも、無造作に煙草を吸うようにこの街にログインしては時間を潰していた。寝ている時間をはっきりとした意識を持ち、経験している為に、徹夜と言っても過言ではないが、彼ら中毒者にとっては関係がない。何の目的もなくログインするのも問題はなかったが、今日は頭に目標を刻んでいる。

 蔵里英司を殺す。彼は一度も聞いたことがなかったその男を殺す為に今は動いているのだ。話は昨日の朝に戻る。

 ヨルは霊猫と共に橘と会っていた。彼はそこで初めて状況を理解した。正確には、理解はしていなくとも、事態を知った。許せぬと頭の中で怒りが満ちたあの瞬間、切っ掛けといえば橘の言葉だった。

「これは依頼でもない情報だが、おまえが気にすべきことだろう」

 と情報屋としての話は始まった。

「その情報だが、蔵里英司という男を知っているか?」橘の的外れな言葉に彼は眉をひそめ、答えた。

「いや、知らないが。俺と何か関係があるのか?」

 橘はそう訊かれるとわかっていたように、一度溜息をついてから、やれやれと話を再開する。不気味に笑いながら、君との関係はないよ、と老人は口を開いた。

「蔵里英司が猟奇殺人の犯人だ」

 ヨルは首を傾げた。自分とは関係がないとはいえ、自分の周囲の人物、例えばリナや霊猫、かのんともあまり関係がないはずだ。猟奇殺人鬼はヒビヤ曰く最近有名になった事件である。データの新聞に掲載されている、女性だけを斬る殺人鬼。

「本当にそうかね? 対象が女性である限り、関係性がゼロとは言えないのではないのかね?」

「まさか……?」ヨルは徐々に怒りを覚えた。

「ああ、私は見たよ。蔵里英司がナイフで女性を切り刻んでいるところを。数日前だな。まだ新聞にも載っていないがね。だが蔵里がつまらなそうに女を斬っていたところを見て、私は訝しんだ」

 蔵里英司が猟奇殺人鬼である証拠は、新聞には掲載されない死体の写真を裏のルートで入手して、現場の状況や英司の斬り方と比較した結果、同一であると考えられたからだ。確たる証拠はないものの、十中八九英司が殺人鬼であった。

 だが、英司は女を斬る時につまらなそうな表情をしていた。橘はそれが気になり男を調べた。無論、現実世界の情報など出るはずもなかったが、英司が次に誰を狙い、その目標が本命であることまでは情報収集できた。

「蔵里英司の次の目標、もとい本命は――おまえのとこのリーダー、リナだ」

 ヨルは言葉を失った。猟奇殺人鬼の次のターゲットがリナ?

 英司はストーカーのような行動を時間が許す限り常にしていたという。便利屋が一直線に見える建物に籠り、外から自分を見辛くする為に部屋を暗くしていた。外出したリナの後を追い、情報を集め続けた。

「おいとっつぁん、それは本当か? 笑えない冗談はよしてくれよ。リナは人間だ。超能力者でもない。あいつが殺されるとなれば俺がどうなるかわかるよな?」

「それは知っておるよ。だから事実だ。リナが狙われている」

 橘は不気味な笑みを崩さぬまま淡々と話を続けた。とうとうヨルの顔に怒気が現れる。眉間に皺が寄る。歯を軋むまで噛みしめて、後方を睨む。

「特徴はスーツ姿だ。蔵里英司は常にスーツを着ている。あの服は公務員……いや、()()だな。学校の教師の服装をしている」

「他は?」スーツ姿の住民も沢山いる。その中で一人を見つけるのは労働だ。

「若い、二十五かね。それほど若い。身長は平均的。髪型も普通だ」

 とにかく普通な男だった、と笑いながら橘。

「もう一度訊こう。それは本当だろうな?」

「ああ、少なくとも私は君に嘘の情報を上げた覚えはないがね?」

 ヨルは簡潔に礼を言うと、霊猫をおいて走り出した。超能力を使い、跳躍する。建物の間、屋根を飛び回り蔵里英司という男を探すも、その日は見つからずに鐘の音が街へ響いた。

 そしてその日の学校にて、夜神は良一へ一つの頼みをした。

「金髪、何があってもリナを外に出さないでくれ」

 良一は深く聞かず、依頼を承諾した。夜神はリナが猟奇殺人鬼に狙われているとは言わなかった。それで彼が変な気を起こして猟奇殺人鬼を殺そうとなればリナが危険だ。彼はリナを部屋から出さないことが目標となった。

 現在、彼はリナを外へ出さないように話のネタを考えている。ヨルは、まだ自分がこの部屋にいるなら、危険は減ると考えた。彼は少し自信過剰だ。自惚れることが多い。ただ、彼は実際に超能力者ランクの中で一位だ。この世界の最強であると言っても過言ではない。相手は自分の情報を少なからず聞いているはずだ。自分が盾になれば相手も少しは怯むと自惚れた。

 そこでようやく事の重大さに気付く。このまま少しは部屋でやり過ごし、その後周囲を探索、見つけ次第英司を殺すと計画していたヨルだったが、人がいない。いなくてはならない人がいない。

「かのんはどこだ? それと、霊猫は?」

 かのんがいない。霊猫がいないことは大きな問題ではないのだが、それも懸念すべきだ。彼は焦ってリナの方へ訊く。いつもなら軽視する人のいない空間を、ヨルは妙に気にする姿を彼女へ見せてしまった。

「かのんなら二分前、どこかへ行ったわよ?」リナは笑顔を崩さず、いつも通りのことでしょう、と答えた。

 ヨルは橘から聞いていた。英司が狙っている女性というのはリナだけではない。本命はリナであるが、他にもかのんが狙われていた。正確には、かのんを見た英司が一定の妙な動作をするからだという。

「肩?」彼は橘へ問うた。「肩がどうした」

「肩を触るのだよ。かのんという女を見ると必ず、自分の肩を撫でる」

 理解できなかったヨルへ橘は、「彼女のタブーと関係があるのではないのかい? ああいう奇行を取る奴は大抵、目標へ何かしらの念を持っている」

 彼はまだ理解できなかったが、学校にて良一が言った。

 かのんの禁句が『教師』である、と。

 全てが繋がった。橘は目が非常に良い。予想したものは大抵当たる。信憑性が高い訳ではないが、仮に事実だとするなら、全てが一つに繋がる。

 英司はかのんの過去と何かがあり、彼女への想いを未だに何かしらの形で残している。ここでリナという目標を発見し、ストーカーとしての本領を発揮する。ヨルは便利屋が一直線に見える建物を見つけた。しかし誰もいなかった。つまりリナが外出したことになる。学校にて良一はかのんと二人きりだったと話した。リナが外出していたことを意味する。今までの出来事を一つに収集できる。これは事実だ。

「――畜生!」

 ヨルは便利屋を飛び出し、駆け出した。超能力を使ってまで、かのんの居場所まで走る。リナからは彼女がどの方角に行ったかを教えて貰った。

 あいつが危ない。女子と男性教師、それに『禁句』。駄目だ、あいつが危ない。


    *


「やめて! やめてよ!」

 幸い、ドアは蝶番が変に回り、少しの間しか開かなかった。それを契機に彼女の頭は少し回り、ドアノブを手で掴んでドアを強引に閉めようとした。

 その僅かな隙間から見える不気味な笑顔を浮かべる英司。

 蔵里英司。かのん、もとい木原奏の中学校の理科教師である。セクハラが問題で前の学校から彼女の学校へ飛ばされた。

「やめてください……怖い、怖い、怖いよ、誰か!」

 途中から本格的に泣き出し、涙が頬を流れ、口元が痙攣し上手く発音できずに独り言となった。叫ぶこともままならない。

 ドアが少し開いた。光が彼女の顔に射す。

「怖い、誰か、助けて――助けて下さい、お願いします、誰か」

 恐怖に体が震え始める。自分が迂闊に外に出た所為だ。心に不満を抱いて、人形のように生きても尚、傀儡子に逆らった罰なのだ。ああ、昨日まではこんな残酷な場所ではなかったのに、私は仲間と共に楽しくしていられたのに。

 しかし世界は彼女を救わない。この世界にログインする時間は決まっていないが、ログアウトする時間は自由ではない。何が起ころうとも、全員が朝五時に無法地帯から追放される。大きな鐘の音が鳴るのは朝五時だ。彼女がここで英司に殺されても、現実世界の自分は通常通りで、夜になれば再びここへログインできる。

 ただ、リセット可能な無法地帯は、飽く迄も現実だ。痛みがあり、記憶がある。彼女はナイフで何度も斬られる痛みを覚える。死ぬ痛みを覚える。無法地帯で死亡すると、五時まで二度と無法地帯を見れない。それこそが麻薬の効果である。自殺志願者はここへよく訪れるという。だが、その痛みのトラウマで立ち直る。

「誰か……助けて、下さい、お願いします、お願いします……」

 恐怖は消えない。彼女が例え八時間後に目を覚まそうとも、この記憶は消えない。抹消されない。記憶に留まり続けて、タブーに触れる。

 英司は彼女のタブーだ。彼女は英司によって人生を狂わされた。

 鬱陶しいくらい眩しい光が部屋を照らした。これは陽ではない。恐る恐るドアの隙間を見やると、英司がナイフを持って反射光で部屋を照らしている。彼女が抵抗をやめれば、きっと彼女はそれで肉体を削られる。

 彼女は知らない。記事を仲間に語ったヒビヤも知らない。リナもヨルも霊猫も知らない。だが、橘だけは知っている。猟奇殺人鬼が一体、どのような殺人をするのか。どのような卑猥な殺人をするのか。

「や……やめて、やめて!」

 ああ、自分が悪かった。自由を求めすぎた私が悪かった。私は心に闇を抱えていた。自覚はある。他の人達と比べて自分はおかしな思考ばかり巡らせていた。私はおかしな無口の子だと自分のことを間違いだった。私は最低な人間だ。

 ドアが完全に開いた。逆光で英司が影の巨人に見える。手には怪しげに光るナイフ。

 私は間違っていた。窮鼠猫を噛むなんて都合のいい言葉を信じていた。でもそれは間違っている。絶対的な差はどこにでも生じる。筋肉量でも差はできるし、上下関係や地位権力でも差は生じる。

 私は勘違いをしていた。私はただのか弱い女子中学生だ。はい、はいと頷いていれば生きていける子供だ。

 私は何も現実を見ていなかった。人間なんてものがどれだけ醜いかを知っていながら、それを酷く非難しながら、自分は人間だと言い張った。

 私は臆病だ。こうして何からも逃げていながら、私は誰かに操られる人形ではないと何度も何度も繰り返して自分へ聞かせた。誰かから何かを学ばなければ人間は生きていけないと知っていながら、その学習を人形の行う恥ずべき行為だと言った。

 私は卑怯な奴だ。自分の記憶や考え方を都合のいいように変えて、自分でいながら周りと一緒になる為に努力していた。

 私は愚か者だ。自分一人の訴えだけで世界が変わるとは思えないのに、自分の考えを頑として変えなかった。自分の考え方が馬鹿にされると言い返した。

 私は都合のいいことばかりをしていて、現実など気にしていなかった。このセーラー服を、自分の身を保証してくれる便利な防具だと思っていた。でも、間違いだった。これを見る度に自分の墓穴を掘った。

 私は綺麗ごとしか言えない奴だ。皆が皆、自由を求めている。抗っている。だというのに私だけ特別扱いをして、棚に上げていた。仲間と楽しい生活を送っていたと言っても、心底から楽しめていた訳ではなかった。便利屋は楽しい空間だったが、仲間から一歩離れていた。近寄り難かった。自分と同じく自由を求めている者達だというのに、心の底から楽しんでいるようで、眩しかった。

 私は、私は、私は…………私は間違っていた。

『自由』という万能な言葉を利用して、現実から逃げていただけなのだ。

 ああ、私はどうしたらいい。英雄は私の前に現れない。

「やめ……お願い、助けて、助けて下さい――許して、ごめんなさい、ごめんなさい」

 彼女は何も悪事を働いていないが、英司に対してか世界に対してか、あるいは自分に対してか謝り始めた。

 英司が彼女へ一歩踏み出し、ナイフを振り上げた。にたっと不気味に笑い、英司は自分の左肩を、ナイフを持った右手で撫でる。それを見たかのんは呼吸を忘れ、口を痙攣させた。涙が増して溢れ出る。恐怖に体が震える。ああ、私が悪かった。私が蔵里英司先生へ何をしたのか完璧に忘れていた。私が悪かった。

 ナイフが彼女の胸元、正確には心臓へ向けられ、ゆっくりと下されていく。

 やめて、やめて、お願いだから、こないで……怖い、怖い、嫌だ、許して、私が悪かった、だから許して、ごめんなさい許してください、お願いします、ここで死にたくない……全て謝るから、許してよ、ああナイフが……刺さって、痛いからやめて――血が、血が出てる、死にたくないやめて下さいお願いします、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、許して下さいお願いします、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ああ、ナイフが刺さって――――――








 刹那、空間が震えた。衝撃と鈍い重低音が響く。背景が一瞬にして変わった。目の前にいた英司の姿はどこにもなく、代わりに一人の男が立っていた。

「おまえは間違っていない」

 男は彼女へ言う。力強い意志を持って。

「だから、おまえは悪くない。謝るなんてみっともないことはするな」

 この声、この姿、私は見たことがある。彼女は心の中で呟き、爆発した。


 ああ、()()は私の前に現れた。


 ヨルだ。便利屋の副リーダーであり、超能力者ランク一位の最強。そして、他ならぬ彼女の仲間だ。彼女を仲間と認め、彼女が心から想う、

 たった数人しかいない、彼女の仲間の一人だ。




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