第2.5章(特別番外編):半分の仮面と1つの魂
<異国の空、世話人の少女>
──時は少し遡る。弘治2年( 1556年)ポルトガル渡航時のヒデ。
長崎の霧深き港から、イエズス会の秘密ネットワークを頼ってポルトガル船に滑り込んだ青年──ヒデ。
日の本の檻を脱出し、新世界へと向かうその孤独な航海には、イエズス会組織から派遣された1人の「世話人」が帯同していた。
それが、美濃の豪族であり、裏では熱心な隠れキリシタンの一族であった妻木家の娘──煕子であった。
「ヒデ様。お食事をお持ちいたしました」
船室の扉を叩く煕子の声は常に穏やかで、海の上の荒々しい日常にあって、唯一の清涼剤のようであった。
彼女は流暢なポルトガル語を操り、ヒデがヨーロッパの環境や学問にスムーズに溶け込めるよう、影のように付き従ってあらゆる雑務をこなす優秀なエージェント(工作員)でもあった。
だが、ヒデの心は凍りついたままであった。両親を晩廷の罠で殺され、この世界のすべてをあざ笑うために生きている男。
ヒデにとって煕子は、イエズス会からあてがわれた便利な「道具」にすぎず、決してその心の奥底を見せることはなかった。
彼は常に「真面目で無口な日の本の青年武将」を演じ続け、彼女に対しても完璧なファイアウォール(防壁)を作っていた。
ポルトガルへ到着し、南蛮寺での過酷な英才教育が始まってからも、2人の距離はつかず離れずのままであった。
ヒデが「明智十兵衛光秀」という偽りの仮面を完成させるために牙を研ぐ日々。煕子はその背中を、ただ静かに、祈るような目で見守り続けていた。
しかし、ポルトガルの熱い夏の夜。その「絶対に破ってはならない檻」が、偶発的なアクシデントによって崩壊する。
<半分の顔の共有>
修道院の一室。ヒデは、自室の鏡の前で、日の本へ帰るための『定期的なメンテナンス(偽装工作)』を行っていた。
本来の、海の青さを湛えた鮮やかな青い瞳。それを、南蛮寺の奥底から取り寄せた漆黒の薬液で、再び日本の武士の目へと染め上げる儀式。
いつもの激痛に、ヒデは床に膝をつき、肩を激しく上下させていたその瞬間、部屋の扉が音もなく僅かに開いたのだ。
夜食のトレイを持った煕子が、そこに立ち尽くしていた。
月光に照らされたヒデの顔──それは、片目がまだ鮮烈な「青」であり、もう片方の目が薬液で「黒」く染まりつつある、世にも恐ろしいハーフ(半分)の怪物の姿であった。
「見たな……」
ヒデの脳髄に、落雷のような殺意が走った。この秘密だけは日の本の誰にも知られてはならないと……
もし自分が「南蛮の血を引くハーフの間者」であると日の本に露見すれば、晩廷をぶっ潰すプログラム(復讐劇)はすべて水の泡になる。
「煕子……悪く思うな!」
ヒデは電光石火の速さで壁の刀を抜き放った。鋭い銀光が、狭い部屋の空気を切り裂く。ヒデの漆黒と青の斑の瞳には、一切の躊躇はなかった。
──口封じ。
組織の世話人だろうが、これまで自分を支えてくれた従順な少女だろうが関係ない。
牙を剥いたヒデの刃が、煕子の細い首筋へと向かって真っ直ぐに突き出された。
だが、煕子は逃げなかった。悲鳴すら上げなかった。
ただ、その大きな瞳に涙を溜め、向けられた刃を、そして怪物の姿をしたヒデを、どこまでも愛おしそうな眼差しで真っ直ぐに見つめたのだ。
(ああ、このお方は……どれほどの痛みと孤独を、この小さな身体で背負ってこられたのだろう)
彼女は知っていた。ヒデが毎夜、悪夢にうなされ、うわ言で亡き両親の名前を呼んでいたことを。
誰にも頼れず、世界のすべてを敵に回して、たった1人で暗闇を歩き続けてきたことを。
「──デウスの御名において、この身をあなたに捧げます」
ドンッ!!!
次の瞬間、煕子は自らの白い顔の右半分に、棚から鷲掴みにした強酸性の劇薬を躊躇なくぶち撒けたのだ。
「あ、あああああああッ!!!!!」
すさまじい白煙が立ち上り、皮膚が焼ける悍ましい音が室内に響く。
煕子は激痛のあまり床を転がったが、ヒデの刀の前に自らの体を投げ出し、血と脂の混ざった顔を歪めながら、喉を締め上げられたような声で、しかし世界で最も美しい微笑みを浮かべてみせた。
劇薬は彼女の美しい右顔を容赦なく溶かし、その右目の視力を永遠に奪い去っていく。
「煕子……お前、何を……!? 何を考えておるッ!!」
刀を突きだしたまま、ヒデは生まれて初めて、恐怖で手を震わせた。
世界中のあらゆる知識をインストールしてきた天才の脳髄が、目の前の少女の「規格外の行動」を前に、完全にフリーズ(処理落ち)していた。
床に這いつくばり、溶けた右顔から血を流しながら、煕子は残された左目だけでヒデを見上げ、至福の歓喜に満ちた声を絞り出した。
「これで……これで、私もヒデ様と同じでございます……! 私の顔も、半分になりました……!」
「お前……、正気か……っ!?」
「私の右目は、もう機能いたしません。だから、私はヒデ様の『青いお目々(秘密)』を、半分しか……左目でしか拝見できませぬ。
誰かに聞かれても、私は何も見ていないと、デウスの神に誓って嘘をつけます。
……これで、あなたを脅かす証言者は、この世界に1人も存在しておりませぬ……!」
「……なッ!」
ヒデの胸の奥底で、千年続く呪われた闇陵への復讐心だけでガチガチに凝り固まっていた氷の壁が、音を立てて粉々に砕け散った。
この熙子は、ヒデの秘密を守るために。ヒデの命を救うために。女の命である自身の容姿を、自らの眼球を、一瞬の迷いもなく自傷して破壊してみせたのだ。
ハーフという呪われた肉体を持ち、誰にも本心を明かせず、孤独の深海をただ1人で泳いでいたヒデ。
その底知れぬ孤独のド真ん中に、この少女は自らの顔を焼き切って、笑顔で飛び込んってきた。
彼女は、ヒデの張り巡らせた絶対的な防壁を、暴力ではなく、圧倒的な「愛」によって完全に上書き(ハッキング)したのだ。
「煕子ッ!!!!」
ヒデは刀を床に落とすと、激しく煙を上げる煕子を狂ったように抱きしめた。
南蛮の高度な解剖医学の知識を総動員し、彼女の止血を行い、包帯を巻く。その手が、生まれて初めて、激しい感情の昂りで震えていた。
「煕子。ワシの負けだ。お前という、途方もない愛しき存在に、ワシの氷塊のような心は完全に砕かれ、跡形もなく溶けたよ。
……クク、ハはは! ワシは……ワシは一体、お前の何を見てきた? それなのに、お前というやつは……」
包帯まみれの煕子を抱きしめながら、ヒデの目から、10年の留学生活で一滴も流れなかった本物の涙が溢れ落ちた。
「誓うぞ、煕子ぉ!! ワシの生涯の正室は、お前1人だ。日の本へ帰り、どれほど大きな泥の椅子に座ろうとも、ワシの隣にはお前しか置かん。
この日の本の嘘をすべて灰にし、新世界へ脱出するその日まで、いや、その先も永遠に、我が魂はお前と共にある!」
包帯の隙間から、煕子の残された左目が、世界で最も美しい三日月のように、優しく微笑んでいた。
<約束の地、海の向こうへ>
1566年、2人は日の本へと凱旋した。 世間は、明智十兵衛光秀が「妻木家の煕子」という正室を迎えたことを知る。
煕子は常に、顔の右半分を格式高い絹の布や、美しい仮面で隠して十兵衛の側に侍っていた。
世間の噂話はこう伝わった。
『煕子様は病(天然痘)の傷を隠されているのだ。十兵衛光秀様はなんと情の深いお方かッ!』
そう彼らを美談として書き残した。
だが、その仮面の裏にあるのは、そんな生易しい倫理ではない。
それは、2人の絆が、世界の真実を打ち砕くために交わした、血塗られた『心中契約』の証明になるのであった。
煕子は十兵衛の部屋の引きこもりベッドの横で、彼が毎月、激痛に耐えて目を黒く染める姿を、ただ1人、愛おしそうに見守り続けた。
十兵衛がどれほど過酷な環境で信長に仕えようとも、彼女が隣にいる限り、十兵衛の精神が混乱を起こすことは決してなかった。
そして──物語は、魔王・信長との出会いから、1582年のあの本能寺の夜へと、螺旋のように繋がっていく。
(第2.5章・特別番外編・完)
すぐに続きます。




