第1章:仮面の誕生
<ジョーベーと光子>
──天文20年(1551年)和泉国。堺の南、禁忌の森。
「日の本の歴史は、すべて嘘で塗り固められている」
それが、ポルトガル人宣教師ジョーベーが息子に遺した最後の言葉であり、この世界の構造をハッキング(内部解析)するための唯一のパスワードであった。
当時の堺は南蛮船が行き交い、世界中の富とキリシタンの信仰が集まる「東洋のベニス」と称される自由都市であった。
しかし、その賑わいからわずかに南へ下った場所に、奇妙な静寂に包まれた広大な森があった。地元の大工や農民たちはそこを「みささぎ」と呼び、立ち入ることを激しく恐れていた。
古代の王が眠る盛り土──仁徳象徴陵である。
現代であれば国の厳重な管理下におかれ、一歩足を踏み入れることすら許されない最重要機密エリア。
だが、当時の晩廷は、応仁の乱以降の長引く戦乱によって完全に困窮していた。
内裏の屋根は破れ、その日の食事にも困るほどの貧困の極みにあった晩廷には、数百年前に建てられた巨大な古墳を整備する資金も人手も残されてはいない。
結果としてその場所は、「ただの鬱蒼とした巨大な森」として不気味に放置されていたのである。
「ヒデ、よく見ておきなさい。この世界の形を」
当時、まだ10歳にも満たない幼い少年であったヒデ──のちの明智十兵衛光秀は、父ジョーベーの大きな手に引かれながら、その森の境界線に立っていた。
ヒデの瞳は、太陽の光を浴びると、かすかに海の青さを湛えて輝いていた。
南蛮人である父の血と、美濃の貧しい農村から流れてきた母・光子の血が、彼の身体の中で美しく混ざり合っていた。
父のジョーベーは、キリスト教を広める宣教師の仮面を被っていた。
だが、その本質はイエズス会から送り込まれた極秘の「測量士」であり「インテリジェンス(間者)」であった。
彼は南蛮から持ち込んだ真鍮製の天体観測儀や、精巧な縮尺定規を使い、日の本の正確な地図を作り上げる密命を帯びていた。
そのジョーベーが堺周辺の地形を測量している最中、偶然にもその「不自然な巨大な山」に気づいた。
「おかしい。自然の地形ではない。これは、人間が明確な意図を持って造り上げた、世界最大級の建造物だ」
ジョーベーは森の隙間から測量儀を覗き込みながら、息を呑んだ。
そして、その森の奥深く──崩れ落ちた石室の隙間から、夜になると怪しく漏れ出している「冷たい光」の存在に気づいてしまったのだ。
それは松明の炎でもなければ、月の光の反射でもない。
見たこともない硝子のような物質が、それ自体で発光しているかのような、この時代には存在するはずのない異質な輝き──オーパーツ(場違いな工芸品)の胎動であった。
「あの森の奥には、この国の人間が『神話』と呼んでいる偽りの歴史を、根底からひっくり返す何かが眠っている」
ジョーベーは息子のヒデの頭を撫でながら、その記憶を少年の脳髄へと深く刻み込んだ。
母の光子もまた、夫の言葉を静かに聞きながら、ヒデを優しく抱きしめた。
「ヒデ、お前の名前は『日』が『出』る、と書くのです。いつかこの狭い島国を飛び出し、世界の海を渡る男になりなさい」
ジョーベー、光子、そしてヒデ。貧しくとも、世界の真実を見通すインテリジェンス(知性)を持った3人の家族の暮らしは、新世界の輝きに満ちていた。
だが、その幸福の時間は、あまりにも唐突に、そして凄惨な暴力によって強制的に闇に葬られることになる……
<三好の凶刃と、最後のプログラム>
「邪教徒どもを、一匹残らず叩き斬れッ!!」
闇夜を引き裂く怒号とともに、数本の松明がジョーベーたちの小さな庵に投げ込まれた。
襲撃してきたのは、当時、京都や畿内で急速に勢力を拡大していた「三好三人衆」の手先たちであった。
彼らは表向きには「神聖なる仏教の地を汚す、不届きなキリシタン狩り」を叫んでいた。
しかし、その裏にいたのは、ジョーベーの測量によって「秘密」を暴かれそうになった京都の権力者──すなわち、晩廷の影であった。
「お前だなァ? 何か知らんがコソコソ嗅ぎまわる南蛮野郎めがッ! 覚悟しやがれぃ!」
(俺たちは何も知らないし、ただ殺戮を愉しむ、いかにもイヌらしいザコの代表だッ!)
心の奥底ではそう感じながらも、そう言わんばかりの、表向きのよく聞く輩の決まり文句を吐き散らかすしかなかった。
「光子、ヒデ! こっちだ、早く来るんだッ!」
瞬く間に激しい炎が庵を包み込む中、三好のヒットマン(刺客)たちは、狂気の笑みを浮かべ容赦なく刀を振り下ろした。
異国の卓越した知識を持ちすぎた父と、それを支えた母は、古い日本のシステム(秩序)を守ろうとする保守的な暴力の前に、なす術なく血に染まっていく。
ジョーベーは咄嗟に燃えかけた椅子を投げつけ、隙を見て奥の部屋へ光子とヒデを誘導した。
「ヒデ……来い! この中に入れ。さあ、早く!」
背中に深い一太刀を浴び、崩れ落ちながらも、ジョーベーはヒデの身体を床下の隠し穴へと押し込んだ。
「いいか、忘れるなヒデ。堺の、南の森だ……! そこに、この国のすべての嘘がある。
日の本などどうなろうと構わん。生き延びて……いつか海を渡れ! きっとお前の力になってくれる」
「あなた……ヒデを、ヒデだけは、なんとしても守らなければ!」
光子は夫の体に覆いかぶさり、迫り来る輩たちの刃の盾となった。
床下の暗闇の中で、ヒデは自分の口を両手で必死に塞ぎ、声を殺して泣いた。
床板の隙間から流れ落ちてくるのは、混じり合う父と母の赤い血。
そして、炎に包まれて崩れ落ちていく、愛する家族の日常。
(すべては、この国の、晩廷の嘘のせいだ!)
幼きヒデの心に、絶望とともに、氷のように冷徹な「日の本へのあざ笑い」が定着した。
(神の国? アマノラスの末裔? なんてくだらないんだ。そんな嘘八百の権威を守るために、なぜ私の父と母が襲われなければならないんだ……くっ、くそ! 今に……今にみておれっ!)
涙はやがて涸れ、静かに崩れ落ちるように、深い眠りにおちた。
──どれくらい時間が過ぎたのか、襲撃犯たちが去り、長い夜が明けた頃、焼け跡から這い出したヒデの瞳からは、すでに子供らしい涙は消え失せていた。
周囲は騒然としていた。一人の老婆が、ひょっこり現れたヒデに気づいた。
「ああ、ヒデや……お前は無事だったんだねぇ」
「おぉ、ヒデ。ジョーベーと光子のことは……ワシらも本当に悔しいぞ。お前だけでも助かって……あぁ、神の救いだ!」
集落の仲間たちが、無惨にも焼け落ち、かすかに苦い煙が立ち上がる形無き思い出の空間に集まりだした。
「なんということじゃ……」
「くッ、ジョーベーよ……お前の無念は、きっとこの子が……」
仲間たちは、わずかに人の面影を残したジョーベーと光子の亡骸を、丁寧に丁寧に、何重にも布に包んで地中深くに埋葬し、代わる代わるそっと十字を切っていった。
「ヒデや、お前の父ジョーベーは、ワシらの誇りであった。ワシら皆、どれほど勇気や救いをもらったか……」
「しばらくは、集落の中心にある秘密裏の南蛮寺で過ごしなさい。お前は、ワシらの宝じゃ。……しかし、この地ではまた何があるかわからん!」
「そうじゃぞ、お前の引き取り先はワシらが必ず何とかする。よいか、忘れるでないぞ。お前も父ジョーベーのように……いつか立派な大人になってくれ……」
「はい……ありがとうございます。感謝いたします……」
ヒデはただ静かに頷き、虚無感の中で呆然と立ち尽くすも、涙は決してみせなかった。
ただ脳裏に深く刻み込まれている、父が遺した「堺の南」という言葉だけが、消えない記憶として彼の心臓の奥でまだ小さな火種となり、静かに、しかし確実に燃え出していた。
<明智十兵衛光秀の完成>
身寄りを無くし、異国の血を引く孤独な少年を拾ったのは、堺の南蛮寺を通じてジョーベーと密貿易のネットワークを持っていた、美濃の「明智」の一族であった。
当時の明智家は美濃の守護大名・土岐氏に仕える名門であったが、実質的には没落の一途をたどる、地方の弱小勢力にすぎなかった。
彼らは南蛮の最新技術や資金を喉から手が出るほど欲していた。
そのため、ジョーベーの遺品である「南蛮の医療書」や「鉄砲の測量技術」をほぼ全て暗記している天才児・ヒデの異常な知能の高さに目をつけたのだ。
「今日からお前は、我が一族の亡くなった子供の籍に入り、『明智十兵衛光秀』を名乗るが良い!」
明智の家長はヒデにそう告げた。ヒデは無表情のまま、その言葉を受け入れた。
(……明智十兵衛、光秀……か)
ヒデにとって、その名前に愛着など1ミクロンもなかった。
「明智」という家柄も、「武士」という身分も、日の本の狭い島国の中でしか通用しない、ただの滑稽な「記号」にすぎないからだ。
(家督を継ぐ? 天下を目指す? 笑わせるなッ! こんな泥の椅子の取り合い、いつでもやすやすと捨てて……海外へ逃亡してやるぞッ!)
しかし、その唇の裏側で、ヒデは静かに呟いた。
(ジョーベーの『十兵衛』と、光子の『光』
──父さん、母さん。私はこれからは、あなたたちの名前を纏って生きていくぞッ!)
「明智十兵衛光秀」という名前は、日の本という檻を欺くための完璧なペルソナ(仮面)であり、同時に、最愛の両親を忘れないための復讐の誓いでもあったのだ。
だが、この日の本という国で武士として生きていくためには、致命的な問題があった。
ヒデが成長するにつれ、その瞳は父の血を受け継いだ鮮やかな「青」へと変わっていったのだ。
髪の毛も、太陽の光に透かすと純粋な黒ではなく、どこか異国の赤みが混ざっていた。
古い格式と偏見に満ちたこの国で、「ハーフの青い目」を持つ武士など、一発で間者か化け物として処刑される。
「クク……ハはは。ならば、それならば染め上げれば良い! それだけの話だ!」
美濃の明智城の一室。青年へと成長した十兵衛は、鏡の前に座っていた。
彼の手には、南蛮寺のルートから密かに買い付けた硝子の小瓶が握られている。
中に入っているのは、植物の樹液や鉱物を調合した、特製の「漆黒の薬液」である。
十兵衛は冷徹な手つきで、その黒い液体を自らの美しい青い瞳へと直接注ぎ込んだ。
「う、ぐっ……ぐうぅぅああぁぁぁッ!」
凄まじい激痛が脳髄を突き抜ける。視界が真っ赤に染まり、あまりの痛みにのた打ち回りそうになる。
だが、十兵衛は声を上げなかった。歯を食いしばり、畳を爪が剥がれるほどに掻きむしりながら、その苦しみを耐え抜いた。
やがて痛みが引き、十兵衛が再び鏡を見上げた時、そこには──海の青さを完全に塗り潰した、底知れぬ、漆黒の冷徹な瞳を持った「完璧な日の本の武士」が誕生していた。
髪もまた、南蛮の黒い染料で完全にカモフラージュされている。
「よし、お膳立ては完了だ! これしきの痛みなど、あの悲しみに比べれば……父さんと母さんの意思を継ぐためならば如何ほどでもない」
十兵衛は鏡の中の自分に向かって、不敵に笑ってみせた。だが、十兵衛自身も気づいている。
(私はもはや、普通には生きられぬ運命だ! ……普通とはなんだ? 恨まないってことか?
ちがうッ! この世にそんなヤツはいないッ! 私にはわからない……ただ、父と母を愛していた。
私の決めたこと……そう、父の意思を、無念を果たすまでは仮面を被り続けることだッ!
私は絶対に、何があろうがこの信念はブレないッ! 私は、私を演じ続けるんだ……)
この時から、歴史の教科書が知る「生真面目で、教養高く、伝統を重んじる明智光秀」という壮大なフェイクニュースがスタートした──
彼は完璧に日本のインテリ武士を演じ、誰もが彼を「誇り高き美濃の明智の男」だと信じ込んだ。
しかし、その黒い仮面の奥底で、十兵衛は常に牙を研いでいた。目指すは、この国のシステムそのもののハッキング。
そして、いつかあの「堺の南の森」の闇を暴き、父と母の仇である晩廷の千年の嘘を笑い飛ばして、世界の海へと打って出ること。
青年・明智十兵衛光秀は、腰の刀を軽く叩くと、自室の引きこもり部屋から静かに戦国の大地へと歩み出した。
美濃の斎藤道三、あるいは越前の朝倉義景──古い日の本のシステムに縛られた滑稽な大人たちを、その卓越したインテリジェンスで手玉に取り、長き流浪の旅を始めようとしていた。
(第1章・完)
すぐに続きます。




