第1話 【俺、嬢の予約日にゾンビ始まるとか聞いてないんですけど】
薄い潮の匂いが、朝の空気に混じっていた。
白いカップから立ちのぼる湯気が、風にほどけていく。テラスの向こうには、どこまでも広がる海。
光を散らしながら揺れる水面と、遠くで鳴くカモメの声。音は、それだけでよかった。
「……今日も変わんねぇな……」
相沢湊は、コーヒーを一口だけ飲んで、ぼんやりと呟いた。苦味が舌に残る。嫌いじゃない。
背後で、ふいに足音がした。
「ねえ、、」女の声。
柔らかくて、けれどどこか距離の近い声だった。
湊が振り返る。そこで、世界が途切れた。
◇◇◇
目を開けると、いつもの見慣れた天井だった。
少し黄ばんだ壁紙。回りっぱなしの天井扇が、ぎ、と小さく軋む。
「……はぁ…また今日が始まった…」
短く息を吐いて、体を起こす。
夢の余韻は、もうほとんど残っていない。
ただ、妙に静かだったことだけが、引っかかる。
腹がぐぅ〜っと鳴った。
仕方なくベッドを抜け出して、階段を降りる。
足音を立てないように歩く癖は、いつからだったか。
「こら!仕事してないからって遅いわよ!ちゃんと朝は起きなさいって言ってるでしょ!」
キッチンから母の声が飛んできた。
ダイニングテーブルには、すでに朝食が並んでいる。焼き魚、味噌汁、冷めかけたご飯。
父は新聞を広げたまま、ちらりとだけこちらを見た。
「お前…いつまでそんな生活してるつもりだ」
座るなり、それだ。
湊は何も答えず、椅子に座り味噌汁を手に取る。
湯気が、ほんの少しだけ顔に触れた。
「仕事、探してるのか?」
「……一応」「“一応”じゃダメだろ。“一応”じゃ」
間髪入れずに被せてくる声。
新聞の向こう側からの圧力は、いつもと同じ重さだった。
テレビでは、朝のニュースが流れている。
『海外で原因不明の感染症の拡大が確認され、、』
画面には、どこかの国の街並みと、慌ただしく動く人影。マスク姿の記者が、緊張した声で何かを説明している。
「ふんっ!なんだそれ」父が鼻で笑った。
「どうせまた大げさに騒いでるだけだろ。映画の見すぎだ」箸を置きながら、興味もなさそうに言う。
「日本に来るわけないだろ、そんなもん」
そのまま、話題は切り替わる。
「それよりお前、、」また始まる。
湊は味噌汁をすすりながら、ぼんやりとテレビを見ていた。内容は、ほとんど頭に入ってこない。
ただ、さっきの夢の“静けさ”だけが、やけに耳に残っていた。
やがて父は立ち上がり、時計を見て舌打ちする。
「まったく…聞いてんだか、聞いてないんだか…もう行くぞ」
「はいはい。行ってらっしゃい」
母も手早く食器をまとめながら、ちらりと湊を見る。
「湊、食べ終わったら洗い物、やっといてね」
返事を待たずに、バッグを肩にかける。
玄関の扉が開いて、閉まる音。
足音が遠ざかって、やがて消える。
家の中に、静けさが戻った。
テレビの音だけが、やけに浮いている。
湊はしばらくそのまま座っていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。
「……はぁ」同じため息。
皿を流しに置くと、水の音がやけに大きく響く。
蛇口を閉める。静かだ。さっきの夢みたいに。
「ふぁぁ、……また寝よ」
誰に言うでもなく呟いて、湊は階段を上がっていった。
◇◇◇
目が覚めたとき、部屋はすでに薄暗かった。
カーテンの隙間から、夕焼けがわずかに差し込んでいる。オレンジ色はほとんど沈みかけていて、代わりに青黒い夜が入り込もうとしていた。
スマホを見る。「えっ?……18時?」
思ったより寝ていたらしい。
体を起こすと、妙に静かなことに気づく。
家の中が、やけに音を失っていた。
「……こんなもんだっけ」
寝起きのぼんやりした頭のまま、ベッドを降りる。
足取りは重いが、どこか引っかかるものがあった。
階段を降りる。一段、また一段。
きし、と小さく軋む音だけがやけに響く。
リビングは暗かった。電気もついていない。
人の気配もない。
「……母さん?」声をかける。返事はない。
一拍、間が空く。
「……あれ?いつもなら夕方には帰って来るのに…残業かな?」
毎日仕事から帰ってくる時間じゃないにしても、この“無音”は少しだけ気持ち悪い。
、、まあいいか。
湊は肩をすくめて、キッチンへ向かう。
冷凍庫を開けると、見慣れたパッケージがいくつか並んでいる。
「とりあえず飯食うか!」
チャーハンを一つ取り出して、電子レンジに放り込む。ピッ、という無機質な音。
回り始める皿を眺めながら、ぼんやりと立っていた。しばらくして、チン、という音がやけに大きく響いた。
皿を取り出して、リビングへ戻る。
そのままソファに腰を落とし、テレビの電源を入れる。ぱっと光が部屋を照らした。
スプーンを手に取り、チャーハンを一口。
少し冷めている場所がある。でもまあ、食えればいい。
画面の中では、見覚えのある“朝の続き”みたいなニュースが流れていた。
『速報です!本日未明、例の感染症が日本国内でも確認され、感染が拡大しています。感染者には近づかず、家の中に避難してください』
「……え?」スプーンが止まる。
画面には、どこかの街。
人が走っている。叫んでいる。倒れている。
カメラがぶれて、音声が乱れる。
『感染者は強い興奮状態にあり、冷静な判断が出来ない様です』
「いやいやいやいや」思わず声が漏れる。
「急展開すぎない?朝“海外です〜”って言ってたやつ、夕方には日本上陸してんの?仕事早くない?」
もう一口食べる。味がしない。
「え、なにこれドッキリ?俺だけ置いてかれてる?新手のサプライズ?」
テレビの中では、誰かが押し倒されていた。
複数の人影が群がっている。
その動きは、人間のそれじゃない。
「……いやいや、ちょっと待て」
スプーンを持ったまま、身を乗り出す。
「ゾンビじゃん。どう見てもゾンビじゃん。いやいやいや、日本のコンプラどうなってんの?それ放送していいやつ?」
一瞬、沈黙。
「……え、これガチ?」
ようやく、少しだけ声が小さくなる。
スマホを掴む。まず父。コール音。
、、出ない。「……おいおいおい」
すぐに切って、母にかける。
コール音。、、出ない。
「いやいやいやいやいや」立ち上がる。
チャーハンの皿が、軽く揺れた。
「ちょっと待って、待って待って。落ち着け俺。こういう時はあれだろ、冷静に、、」
一呼吸。
「って……いや無理だろ!!」思わずツッコむ。
「親どっちも出ないって何!?タイミング悪すぎるだろ!今だけは出ろよ!普段出なくてもいいから今だけは出ろよ!」
もう一度かける。出ない。
「……え、なにこれ。俺だけ通常運転で、世界だけバグってる感じ?」
テレビからは、なおも断片的な映像が流れてくる。
目を血走らせた人間。不自然な動き。誰かに食らいつく影。
「……いやいやいや」乾いた笑いが漏れる。
「映画ならここで主人公覚醒するやつだけど、俺ただの無職だからな?」
スプーンを置く。手が、ほんの少しだけ震えていた。
「……マジかよ」
画面の向こうで、世界が壊れ始めている。
その実感だけが、じわじわと滲んでくる。
ポケットの中で、スマホが震えた。
取り出して画面を見る。
「……は?」
表示されたのは、スケジュール予約通知。
本日21時。ルナの名前。
「そんな場合じゃねぇっっ!!でもっ!」
叫びながら、なぜか通話ボタンを押していた。
コール音。一回、二回、三回、、
『……もし…もし!?』
「あっ、もしもし、あの〜本日21時に予約した相沢ですけど……」
『はぁ!?あんたニュース見てんの!?それどころじゃないでしょ!?』
「いや、それはそうなんですけど、僕にとっては今日めちゃくちゃ大事な日でして……」
『知らんわ!命の危機と今日を天秤にかけるな!』
「いや、でもこっちも精神の危機というか……」
『うるさい!今それ言ってる場合!?』
「いやっ!でも…ワンチャン来れるかな〜って」
『行けるか〜!!外見てみなよ!地獄だよ今!』
「えっ、そんなに……?」
『そんなにだよ!こっちも店閉まってるし、動けないの!無理!てか直電すんなっ!」
「えっ?マジですか……」
『はい。マジです!てかアンタも外出んな!死ぬよ!?』
「……あ、はい……」
通話が切れる。
しばらく、スマホを見つめたまま動けなかった。
「はぁぁぁ……終わった……楽しみにしてたのに…」
ぽつりと呟く。「俺の、今日の全てが……」
膝から力が抜けそうになる。
そのとき。、、ガタン。ガタガタ。
外から、何かがぶつかるような音がした。
「……?」ゆっくりと顔を上げる。
音は、家のすぐ近く。玄関の向こう側。
喉が、ひどく乾く。足が勝手に動いた。
ドアノブに手をかける。冷たい。
少しだけ、開ける。隙間から外を覗く。
「……母さん?」
そこに、立っていた。見慣れた背中。見慣れた服。
けれど、、返事はない。
ゆらゆらと、意味もなく体を揺らしている。
「おいっ!母さん?」もう一度、声をかける。
反応はない。ただ、そこにいるだけ。
「……何やってんだよ」一歩、近づく。手を伸ばす。
肩に触れた、その瞬間。母が、ゆっくりと振り返った。
「、、ッ!?」思わず声が漏れる。
目が、血走っていた。焦点が合っていない。
口元からは、糸を引くように涎が垂れている。
「……あ、あ……」喉が引きつる。
母は、何も言わない。
ただ、湊の方を向いたまま、、すぐに視線を外した。
きょろきょろと、周囲を見回す。
まるで、何かを探しているように。
「……え?」一瞬、理解が追いつかない。
今、目が合ったはずだ。なのに。
「母さん……?」震える声。
しかし母は反応はするが、まるでそこに誰もいないかのように、ふらふらと歩き出す。
「おい……待てよ……」近くを通る。
肩が、ぶつかる。キョロキョロと反応はするが、またふらふらと歩き出す。
「……は?」息が止まる。
次の瞬間。遠くから、悲鳴が聞こえた。
振り向く。通りの向こう側。
誰かが、何かに押し倒されている。
複数の影が、群がっている。
「……っ」頭の中が、ぐちゃぐちゃになる。
「なんだよこれ……」声が震える。
「なんなんだよ、これ……!!」涙が滲む。
母はもう、こちらを見ない。
世界も、止まらない。
湊は、反射的に走り出していた。
「うわああああああああああああああああああああ!!」叫びながら。涙を零しながら。
どこへ向かうかも分からないまま、ただ走る。
崩れ始めた街の中を。誰にも気づかれないまま。
続
ゾンビ映画見てたら書きたくなったんで書き始めてみました。まったく先の展開、何も考えてません。気楽に楽しんで読んで貰えたら嬉しいです。気が向いたら感想、リアクション、ブックマーク、評価お願いします。




