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第七話 図書室での一幕

「はぁっ、はぁっ…早く、行かなきゃ…!」

 

 斜陽が差し込む廊下を、私は袖を振り乱して走っていた。今日は冬休み明け、久々の部活動だというのに。顧問のつばめ姉に職員室で捕まってしまったのが運の尽きだ。

 

 のんびりと下校する生徒たちを縫うようにして向かう先は、我が蜂ヶ海学園の誇り、蜂ヶ海学園大図書館だ。市内の公立図書館に匹敵する蔵書(ぞうしょ)数を誇るこの場所は、現在、白崎先輩の手によって一般公開の準備が進められている。

 

 茜色の光が満ちる渡り廊下を駆け抜け、重厚な扉を押し開ける。途端、懐かしい古本の香りが鼻腔をくすぐった。犀川先輩が待っているはずの二階の活動拠点へ、私は階段を一息に駆け上がった。

 

「はぁっ、はあっ…すいません! 遅くなりました!」

 

 肩で息をしながらたどり着いたその場所で、私は、信じられない光景を目にした。

 

「犀川先輩! 教えてもらった本のおかげで、国語の赤点回避できました!」

 

「ずるいぞ! 先輩、俺にもおすすめ教えてくださいよ!」

 

「犀川さん! 去年の文芸誌、最高にロマンチックでドキドキしちゃいましたぁ!」

 

 そこには、いつもの静寂など微塵(めじん)もなかった。椅子に腰掛ける犀川先輩を囲んで、大勢の生徒たちがひしめき合っている。


 先輩を訪ねてくるファンは以前からいたけれど、これほどの津波のような勢いは初めてだ。

 

「はいはい、皆さん順番ですよー」

 

 肝心の先輩はというと、ひよこの雌雄(しゆう)を見分ける鑑定士のような手際で、一人ひとりの話題を的確に捌いている。けれど、あまりの人口密度に、その人だかりは一つの巨大な塊のようになっていた。

 

「ありがとうございます先輩! 明日もまた来ます!」

 

「はーい、待ってますからねー」

 

 最後の一人が去り、ようやく嵐が過ぎ去った。先輩はぐったりと深く背もたれに身を預ける。椅子が小さく軋み、本来の静寂が戻ってきたのを確認して、私は棚の陰からそっと彼女の隣に歩み寄った。

 

「…やっと帰りましたね。先輩も大変ですね、いつもあんなのに絡まれて」

 

「もう! 見てたんだったら助けてよ、ゆいな!」

 

 先輩はポケットから伊達メガネを取り出してかけ直すと、頬を膨らませて私の肩をぽかぽかと叩いた。


 まるでサンドバッグにされたような気分だが、その柔らかな拳を受け止めながら、私は苦笑する。

 

「無理ですよ。止めに入ったところで、彼らに私の姿は見えませんから。…人気がありすぎるのも、考えものですね」

 

 無意識に、少しだけ拗ねたような声が出てしまった。すると先輩は叩く手を止めて、ニヤリと不敵に笑う。

 

「ははーん? 遅刻したくせに、生意気なこと言うんだ…」

 

「うっ…ごめんなさい」

 

 見事なカウンターパンチである。遅刻という負い目がある私に、反論の余地はない。悶絶する私を面白そうに眺めると、先輩は背筋を伸ばし、悪戯っぽくウィンクをした。

 

「さっ! 邪魔者もいなくなったことだし、執筆開始! 今年は去年より売上を伸ばすんだからね!」

 

 私はノートパソコンを立ち上げ、先輩は使い込まれた原稿用紙を机に広げる。

 

 ワープロソフトを使う私に対し、先輩は往年の文豪を気取ってか、頑なに手書きを貫いている。この令和の時代には珍しい光景だが、万年筆の走る音は図書館の空気に不思議と馴染んでいた。

 

 さて、去年の在庫は先日の即売会で完売したので、今日からは今年度の新刊に向けたネタ出しだ。

 

「それで、先輩はどんな物語を考えてるんです? また去年のようなロマンスですか?」

 

 問いかけると、先輩はペンを止めて首を傾げた。去年、先輩が書いたのは甘酸っぱい学園ラブストーリー。対して私は、人間の内面を(えぐ)るような純文学まがいの散文を書いた。

 

 大人たちからの評価は私の方が高かったけれど、同世代の心を掴んだのは、圧倒的に先輩の恋の物語だった。

 

「んー、今年は少しテイストを変えようと思って。いわゆる『メリーバッドエンド』ってやつに挑戦してみようかな」

 

「メリバ、ですか。読者には悲劇に見えても、当人たちにとっては幸福な結末…という」

 

 私の浅い読書歴ではあまり馴染みのないジャンルだが、どうやら今の彼女のマイブームらしい。

 

「そうそう! 最近ハマっちゃって。私もああいう、歪んでるけど純粋な愛を書きたいなって」

 

「…そうですか。私は、あまり読んだことがありませんが」

 

 年頃の男女が結ばれる物語…それを読むと、心の奥底でチリリと焼けるような嫉妬が(うず)く。それは私には無縁の、文字通りの夢物語だから。

 

 それに、過去の経験から恋愛という言葉そのものに強い忌避感があるのは、私だけの秘密だ。

 

「ゆいなは何を書くのさ」

 

「私は……やっぱり、純文学寄りになると思います」

 

 文豪たちの耽美(たんび)な世界に浸ってきた私には、それしか書けない。けれど、私の書く捻くれた文章は、いつだって同世代には届かず、年上の方々にばかり褒められる。

 

「さっすがゆいな。私にはわからない世界だよ、羨ましいなぁ」

 

「それを言うなら私も、先輩みたいなポップな小説が書きたいですよ。さっきの生徒たちみたいに、女の子を熱狂させるような…」

 

「そーかな。…あれだね、隣の芝生は青いってやつ。ないものねだりだよ」

 

 先輩はケラケラと笑いながら、指の間でペンを躍らせる。

 

 確かに、自分の作品を恥じたことはないけれど、誰かの心を真っ直ぐに揺さぶる先輩の瑞々(みずみず)しい感性は、私にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。

 

 影の薄い私が、この世界に存在することを証明するための唯一の手段。それすらも、先輩の輝きの前では霞んでしまうような気がする。

 

 隣の芝生は青い、か。


 自分にないものに焦がれるのは、なんて残酷な性なのだろう。敬愛する中原中也(なかはらちゅうや)の言葉を借りるなら、今の私は、空に浮かんだ青鯖のようにひどく間抜けな顔をしているに違いない。

 

「…ちなみに、今日の下着は青のセットアップだよ?」

 

 不意に、先輩の声が艶を帯びた。

 

 視線を上げると、彼女はスカートの裾を指先で数センチ持ち上げ、白い肌を覗かせている。その挑発的な眼差しに、私の理性は崩壊寸前だ。

 

「い、いらない情報を垂れ流さないでください!!」

 

「図書館では、静かになさい」

 

 叫んだ直後、本棚の向こうから司書さんの鋭い声が飛んできた。慌てて周囲を見渡せば、静かに本の整理をする司書さんと目が合う。

 

「「ご、ごめんなさい…」」

 

 私たちは小さく身を縮め、黙々と作業に戻った。

 

 私が迷いながらキーボードを叩いていると、ふと視線を感じた。先輩がペンを止めて、じっと私の顔を覗き込んでいる。

 

「…何ですか?」


「…いや、不思議だなって」

 

 先輩は目尻を下げて、慈しむような笑みを浮かべた。

 

「昔はさ、私たちがこうして二人で部活に入って、一緒に小説を書いてるなんて、想像もつかなかったでしょ?」

 

 その言葉に、幼い頃の記憶が鮮明に蘇る。木陰で独り、同級生を眺めていた少女と、その手を日向へと強引に引きずり出した天真爛漫な少女。

 

 頬杖をつく今の彼女の顔に、当時の面影はあまり残っていないが。

 

「…そうですね」

 

 傾いた夕陽を背負いながら、一文字ずつ想いをつづる犀川先輩。

 

 ただの幼馴染だったはずの私たちの関係は、この古本の香りに混ざって、少しずつ、けれど確実に形を変えようとしていた。

作者の『月雲とすず』です!

ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

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次回も、お楽しみください!


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