第五九話 崩壊
緊迫した空気が、見えない手の平となって私の心臓を締め上げる。自室の入り口、廊下の闇に揺らめく不確かな影を、私は困惑と恐怖の入り混じった眼差しで見つめた。
「あ、あやみ…先輩…?」
本来そこにいるはずのない彼女の名を呟くと、壁の裏からぬるりと犬猫のような毛皮の塊が姿を現した。それは私がかつて彼女に贈ったウサギのぬいぐるみで、前髪を乱し鳥肌に身を包んだ私を、その純粋無垢な瞳が見つめ返してくる。
「違うよぉ。僕はウサギの『キャロット』!ゆいなちゃんが心配で、様子を見に来たんだよ~」
腹話術のように、声帯を持たぬはずの綿の塊から発せられたその声に、私は激しく狼狽えた。冗談好きの先輩の茶目っ気だとしても、今の私には微塵のユーモアも届かない。舌の上には、冷めやらぬ恐怖の苦味だけが残っていた。
「…冗談はやめてください」
「なによ、そんなに怖い声出しちゃってさ…」
ベッドの上で腰を抜かしながら絞り出した拒絶の言葉に、直後、空中で踊っていたぬいぐるみが放り投げられて綿の詰まった物体が床に落ちる鈍い音が響いた。
一拍の静寂が過ぎ去ると、その影の主がゆっくりと廊下から姿を現したのだ。
「やっほ~。君が大好きな、あやみ先輩だぞ~」
下半身不随を患い、自力では一歩も歩けないはずの彼女が満面の笑みで軽やかなステップを見せた。シワの寄った制服のまま、動かないはずの両足を艶かしく交差させて恍惚とした表情を浮かべる。
理解の追いつかない頭で、私は荒い呼吸を繰り返した。彼女はじりじりと、獲物を追い詰める歩調で近づいてくる。窓際まで後退する私を彼女は狩人のような冷酷さと、愉悦に満ちた瞳で射抜いた。
ふと、彼女の視線が部屋の隅に転がる残骸へ向く。私が暴いたばかりの黒光りする盗聴器と、無惨に引き裂かれたテディベアを見比べると、わざとらしく溜息を吐いた。
「あらら…それ、壊しちゃったんだ。高かったんだけどな」
床に転がるクマを拾い上げ、彼女はそれを愛でるように抱きしめる。ハサミで切り開かれた傷口から、綿が内臓のように溢れ出してフローリングへ崩落していく。
その目玉をあやみ先輩が熱烈に舐めとる姿を見て、私は戦慄を隠せなかった。
だが何よりも私の目を釘付けにしたのは、彼女の脚だった。私の介護がなければ歩行すら叶わない彼女が今、さも当然のように自分の足で立っている。
「先輩…車椅子は、どうしたんですか…?」
「あぁ、あれは玄関に置いてきたよ。窓から、見えるでしょ?」
突き放すような言葉に、私は吸い寄せられるように窓の下を覗き込んだ。そこには、横転した車椅子が月光を反射し、無機質な金属の死骸のように転がっていた。
さらにその隣で、一台の車がエンジンを吹かしていることに気づく。
「あれは…犀川先生の…」
それは何度も同乗した、犀川先生の自家用車だった。車が一瞬にして加速し、走り去っていく光景に、私は悪夢に閉じ込められたような不気味な浮遊感に包まれる。
「それにしても、ダメじゃん。授業中に逃げ出したりしてさ」
思考が焼き切れそうな私を嘲笑うように、先輩はベッドへと這い上がってきた。
「ち、近づかないでッ!」
反射的に、最も拒絶したくなかったはずのその手を振り払う。だが先輩は子猫の威嚇を愉しむように微笑むと、スカートのポケットからスマホを取り出した。
「えぇ~、なんで拒絶するの?ゆいなは、私のことが大好きでしょう?」
甘い毒を吐き捨てた彼女が画面を操作すると、スピーカーから音声が溢れ出した。激しい水音に荒い呼吸が混じる、情欲に身を焦がす女の隠微な喘ぎ声だ。
『好き…っ、好きです、先輩…大好き…っ!』
紛れもなく、その声の主は私であった。昨日、独りで彼女を想った秘め事、目の前の彼女によって再生されている。
霜降りの肉を品定めするような、卑猥でしつこい視線が私の全身を這い回った。
「…いつから、ですか?」
喉の奥から振り絞った呻き声に先輩は首をかしげ、糸の切れたマリオネットのような瞳で私を凝視した。
「…なにが?」
「私を、盗聴していたのは…いつからですか!?」
真相を暴こうともがく私の問いに、彼女は天井を仰いで指を顎に添えた。
「それは…難しい質問だね。盗聴や監視が成功したのは、君の誕生日にそれをプレゼントした時かな」
私の脳裏に、テディベアを贈られた誕生日からの記憶が走馬灯のように巡る。ぬいぐるみショップでの従業員の違和感から、林間学校でクマの瞳を不気味に感じた沢柳の怯え・・・博愛の象徴だと思っていたぬいぐるみが、私の日常を侵食する耳となっていたのだ。
「だけどね…それ以前から、私は君を追い続けていたんだよ」
「どういう意味…ですか…?」
「蜂ヶ海学園だけじゃなく、休日にもよく遭遇したよね。あれ、全部偶然だと思ってたの?」
「ま、まさか…」
とても偶然とは思えない遭遇の頻度に、私は最悪の事態を想像した。待ち合わせもしていない場所で、いつも平然と現れていた彼女の笑顔を思い出すたびに心臓が強張る。
「そう。君をずっと尾行していたんだ。どこまでもね」
彼女は私の胸元を指先で突き、邪魔だと言わんばかりに枕元のカレンダーを払い除けた。普段は裸眼の彼女が遭遇時にだけ伊達メガネをかけていたのは、私の居場所を把握していたからだったのだ。その違和感に気づかなかった私は、恋は盲目という言葉の真の恐ろしさが身に染みる。
「足が不自由というのも…嘘だったんですか?」
本来ならば麻痺で動くはずのない両足を指さすと、彼女は無邪気に膝を屈伸させて恍惚としながら私の脚に自分の脚を絡ませてきた。
「いや、怪我は本当だよ。事故に巻き込まれたのは計算外だったけど…でも、好都合だった」
じりじりと距離を詰め、彼女の膝が私の股の間へと食い込む。異常な距離感に瞳を揺らすと、先輩は私の臑に指を滑らせた。
「ゆいなに介護してもらえるなんて、夢みたいだった…まぁ、足なんてとっくの昔に治ってたけどね」
先輩の言葉が真実ならば、私は完治した彼女を相手に献身という名の道化を演じていた事になる。手の平の上で踊らされながら恋心を告白させられた私が、彼女の目にどれほど滑稽に見えたことか。
「な、なんで…そんなことを…」
「なんでって…決まってるじゃん」
積み上げてきた彼女への理想と信頼が、瓦礫となって私を圧迫する。策士であった彼女は私の顎を強引に掴み、目を背ける事ができないように視線を固定した。
「私も、君のことを愛しているからだよ…ゆいな」
その言葉は、地獄の底から極楽へと引き上げられるような、沈没船の錨を抜くような、倒錯した幸福感となって私を突き刺した。
あれほど望んでいた言葉が、これほどまでに恐ろしいとは思わなかった。しかし、私を見据える彼女の瞳に嘘の色はなかった。
「…あやみ先輩が、私を…?」
「ずっと昔っから、君に憧れてた。ゆいなが初めて私の手を取ってくれた、あの日からね」
心臓が空気を読まずに昂ぶるも状況は最悪で、私は袋のネズミだった。それなのに、彼女に触れられ、求められることに抗いがたい悦びを感じている自分が一番恐ろしい。
「やっと…君を私のものにできる。ほら、怖がらないで。私に全部、預けて」
震える指先が私の制服のボタンに掛かると、愛欲に乱れたその手つきに私は涙を浮かべて首を振った。
「だ、ダメです…あやみ先輩…」
「ダメ…?本当にダメなら、必死に拒絶してみなよ」
退路を断つような冷たい一言に、既に上着は脱がされて私の腕は無防備に晒される。ワイシャツ一枚になった私を、先輩は舌なめずりをして見下ろした。
「ほら、助けを呼びたいなら…呼んでみなよ」
その囁きは死刑宣告のようで、私は頷くしかすべが無かった。淡々と脱がされる絶望感に、私は溺れる者が藁を掴むように頭に浮かんだ人々の名を呟く。
「つ、つばめ姉…」
「ママはもう、君のことなんて見えてないでしょ?」
スカートのファスナーを下ろされながら、同時に梯子を外される。自分の娘より仕事を優先した彼女を拒絶したのは、私自身だ。
「松島さん…沢柳さん…」
「その二人も、同じだよね」
ワイシャツのボタンを引きちぎる勢いで外され、彼女は残酷な現実を銃口のように突きつける。影の薄かった私を寄り添ってくれた友人達は、所詮は好奇の目を持った傍観者だったのだ。
「白崎先輩…」
「ヒカリは今頃、病院のベッドで昏睡状態だよ」
膝下まで履いていた靴下を脱がされ、彼女はそれを愛おしそうに嗅ぐ。私やあやみ先輩など、幼馴染みをずっと気にかけていたた白崎先輩は今、死の淵を彷徨っている。格好つけで凶暴な一面もある優しかった彼は、もう二度と起き上がることができないだろう。
「姫山先輩…」
「ちぐさは、実家で謹慎中。もう助けには来ないよ」
肌が剥き出しになった私の貧相な脚に、ねっとりと彼女の舌が這う。お嬢様でありつつ秀才の姫山先輩は、白崎先輩を刺した事件後は実家の権力のために監禁されているようだ。
私のことも案じてくれていた彼女があやみ先輩の介護を申し出たのは、この運命を想定していたからだろうか。ならば、私が彼女を拒絶したのは痛恨の過ちだった。
「エ、エリ…」
「エリちゃんを捨てたのは、ゆいな自身でしょ?」
器用な手つきで胸当てが外され、あやみ先輩の呼吸が荒くなる。私を側で見守ってくれていた親友の求愛を、冷たくあしらった代償が私を襲った。
「おじいちゃん…」
「知らないの?ゆいなのお祖父さんは、老人ホームで暮らしてるんだってさ」
ついに最後の砦であった一枚が奪い去られると、先輩は唇から涎を垂らして私を凝視する。唯一の家族であった祖父を家に残し、自ら退路を焼き払った私の愚かな選択が、私の後悔を促すのだった。
「お、お母さん・・・」
「ふふ…もう、諦めたみたいだね」
生まれたままの姿で晒された私の肢体を、彼女はハイエナのような飢えた目で眺める。身体は震えているのに、どこかでこの絶望を受け入れている自分がいた。
彼女は私の首筋から爪先まで、スケートのように指を滑らせると私の頬に深い口づけを落とした。
「いい子だね…ゆいな」
「せ、先輩…」
頬を紅潮させた私を、彼女はもう逃がそうとはしない。先輩は自らの制服を、ホウセンカが弾けるような勢いで脱ぎ捨てた。
私達の制服が床に散らばり、二人の肢体が隠すものなく重なり合う。もはや恐怖ゆえの震えか、昂ぶりゆえの疼きかも判別できない心臓の高鳴りに、私は身を委ねることしかできなかった。
「それじゃ、楽しもうね・・・ゆいな」
窓の隙間から差し込む冷たい月光が、絡まり合う私達の身体を静かに串刺しにしたのだった。
作者の『月雲とすず』です!
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!
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