第五八話 発覚
昨夜の豪雨をそのまま浴びたかのような、酷い寝汗で目が覚めた。身体を起こしてもなお、雷鳴の残響とともに最後にエリが見せたあの不可解な笑みが網膜に焼き付いている。
「…夢、だよね」
悪夢と片付けるにはあまりに生々しい衝撃に頭を抱えながら、私はよろめく足取りで洗面台へ向かった。習慣に従って無意識に歯ブラシを口に含むと、私はふと鏡に映る自分の顔を凝視した。寝ぼけ眼で歯ブラシを咥える滑稽な姿が映っているはずだったが、その結果は予想に反する物だった。
「…なに、これ」
古ぼけたアナログテレビのように、鏡の中の私の輪郭が激しくぼやけているのだ。まだ夢の続きを見ているのかと思って瞼を擦ったが、結果は変わらない。私の顔、特に目元の部分が不気味にぼやけているのだ。
背筋を冷たい嫌悪感が駆け抜けると、私は口に含んでいた泡を吐き出して口をゆすいだ。拭いきれない気味悪さを振り払うように、私は階段を駆け上がる。
あやみ先輩の部屋に入ると、彼女はまだベッドの深みに沈んでいた。気のせいか、この部屋だけが肌にまとわりつくような湿り気を帯びているように感じる。
「おはようございます…あやみ先輩…」
私の声に、毛布から顔を出した先輩が微かに瞬きをした。ゆっくりと上半身を起こすその動作は、下半身不随に慣れたのか以前よりもずっと滑らかである。
「おはよ…ゆいな、もう大丈夫なの?」
「はい。昨日、休ませていただいたので…今日は、もう大丈夫です」
「そっか…じゃあ、いいんだけど」
寝起き一番に私を心配してくれるのは嬉しいが、本来なら救いになるはずの優しさが今は鋭利な棘となって胸を刺す。私がどれほど献身を捧げようとも、かつて彼女が私を拒絶したという事実は心の底に沈んで消えないのだ。この悔しさを噛み殺しながら介護に徹している自分の健気さを、誰かに猛烈に褒めてほしかった。
いつも通りの朝といつも通りのルーティンで、私達は蜂ヶ海学園へと向かった。正門前を盗み見るが案の定、そこに姫山先輩の姿はない。
正門をくぐった直後、あやみ先輩が車椅子のブレーキを引いた。彼女は昨日から、校内の介護をクラスメイトに頼んでいるのだという。
「じゃあ、また正門前でね」
「はい…お気を付けて」
車椅子のハンドルから手が離れると、彼女は一度も振り返ることなく小さく手を振りながら独りで昇降口へと進んでいく。入れ替わるように駆け寄ってきたクラスメイトらしき女子生徒が、慣れた手つきでハンドルを握った。
用済みとなった私の両手は、手持ち無沙汰で震えていた。爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめながら、私は逃げるように自分の教室へと足を早める。
教室に入ると、そこには朝の清涼な空気が流れていた。談笑する声が渦巻く喧噪で、私はそそくさと自分の席に荷物を下ろす。
この重苦しい気分を切り替えるために私は、教室の後ろで輪を作っている松島や沢柳のグループへと歩み寄った。彼女達の弾んだ笑い声に、私は言葉を差し込む。
「おはよう、松島さん…」
昨日の欠席に対する、微かな罪悪感を含んだ挨拶だったが、私の声は沢柳の嬌声に無慈悲にかき消された。
「それでさー、マジで彼氏ウザいの!」
「えぇー、ほんと~?」
二人は互いの顔を見合わせ、私の存在など最初からなかったかのように笑い合う。私は何度も口を開くが、彼女達の視線は一向にこちらを向かない。まるで面会室のガラス越しのような、隔絶された感覚だった。
「ま、松島さん…?沢柳さん、おはよう…聞こえてる?」
普段なら彼女達の方から私に群がってくるはずだが、耳栓でもしているのかと疑うほど私の声は届かない。私は焦燥に突き動かされ、身振り手振りを交えながら強引に彼女たちの視界の真ん中へ割り込んだ。
その瞬間、松島と沢柳の瞳が私を捉えたはずだったが、彼女たちの瞳は私を透かして向こう側にある景色を眺めていた。そこに私は映っておらず、ただの虚空として処理されている。
「なんで…無視するの…?」
震える声で呟き、私は他のクラスメイト達にも無差別に話しかけた。机を叩いては大きく手を振り、自分の存在を叫ぶように主張する。
「みんな、おはよう!私だよ、聞こえないの!?」
三十人近い生徒の誰一人として、顔すらを上げない。本を読み、談笑し、眠る彼らの徹底した無関心は、もはや無視という意志すら感じられない自然さだった。
「誰も…私が見えてないの…?」
私は発狂したように教室中を駆け回った。男子生徒の前でわざとスカートを捲り上げるという、正気とは思えない行動に出ても誰の瞳孔も動かない。晴れない胸のざわめきが激しい動悸となって全身を突き上げると、私は自分の席に崩れ落ちて頭を抱えた。
たった一日休んだだけでクラス全員で私を無視するなんて、あまりに陰湿で酷いいじめだ。自尊心をなぶり殺しにされる嫌悪感で、込み上げる嘔吐感を必死に飲み下していると教室の扉が勢いよく開いた。
「皆さん、おはようございます!出席を取りますよー!」
現れたのは、憎き犀川先生だった。もう二度と口をききたくない相手だったが、この異常事態では彼女さえ救世主に見えた。
「さ、犀川先生!お願いです、みんなが私を無視するんです…!」
教卓に歩み寄る彼女に縋り付くが、彼女の視線も私に落ちることはなかった。まだあの件を怒っているのかと、苛立ち紛れに彼女のスーツの袖を強く引いたが彼女は眉ひとつ動かさない。
「犀川先生…!?」
教壇の上で大袈裟に跳ね回っても、注意の一言すら飛んでこなかった。
静まり返って行儀よくホームルームを聞き続けるクラスメイト達の異常な光景を前に、私は忘れていたはずの記憶を強制的に引きずり出された。
この世界から自分が消滅する感覚、視認されずに透明人間や幽霊のように扱われる日々の感覚だ。高等部一年生の三学期まで、私が過ごしていたあの影の薄い絶望が、最悪の形で再発したのだ。
「い、いやあああああああ!」
私は感情を爆発させ、教室を飛び出した。転倒しそうな勢いで廊下を駆け抜け、手当たり次第に他の教室の扉を蹴り開ける。しかし、どの部屋でも結果は同じで、教師も生徒も侵入者である私に目もくれず黒板だけを凝視していた。
「なんでッ!なんで誰も私を見てくれないのッ!?」
職員室に事務室、学園の隅々まで突撃したが、誰一人として私を制止しなかった。世界は平然と、私という存在抜きで成立している感覚である。
かつての苦渋が舌の上に戻ってくると、私は逆流する胃液をこらえながら学園を彷徨った。せっかく手に入れた存在意義が、音を立てて崩れていく。
「誰か…お願い、誰か私を見つけて…」
肺が張り裂けるまで叫び走り回ったが、私の希望は無残に踏みにじられて誰も私の姿を認めようとはしなかった。
「結局…誰も、いなかった…」
地球の重力が十倍になったかのような重い足取りで、荷物を引きずりながら通学路を逆走する。背後で授業開始のチャイムが鳴り響くが、今の私には関係のないことだ。
心に深い亀裂が入るのを感じながら、私は犀川家の玄関を乱暴に開けた。静寂に支配された屋内にドアの閉まる音が虚しく反響すると、靴を脱ぎ捨てて階段を這い上がるように進む。
自室のベッドに倒れ込んだ瞬間、私の内側で何かが決壊した。目を限界まで見開き、喉を掻き切るような勢いで絶叫する。
「うわああああああああああッ!!」
マットレスに全身を叩きつけ、行き場のない憎悪と怒りをぶつけた。だが凶暴な絶望は私を食らうばかりで、一向に薄れる気配がない。
居場所を奪われ、世界から放逐された事実だけが重くのしかかる。
「なんで…!せっかく、せっかく普通になれたのにッ…!」
あかねへの贖罪を果たしてようやく手に入れたはずの普遍を、神様はまた奪い去るのか。残酷な運命を呪って毛布を千切れんばかりに握りしめていると、ふと肌を刺すような視線を感じた。
人間のものではない視線の原因を探して部屋を見渡すと、棚の上に鎮座する彼と目が合った。それは、あやみ先輩がプレゼントしてくれたテディベアだった。
ガラス玉の瞳が、誰も私を見ない世界で、このぬいぐるみだけが私を凝視している。その事実に、私の理性の手綱が限界を迎えた。
「なに見てんのよ…なんで、あんただけが見てんのよぉッ!」
覚束ない足取りで立ち上がり、棚からテディベアを引きずり下ろした。宙ぶらりんになったクマの腹をベッドに叩きつけ、馬乗りになって綿をむしり取る。
「このッ、このぉッ!!」
軋むベッドの上で、サンドバッグを叩くように拳を叩き込む。殴り、引き裂き、傷つけても、心の中の怪物は静まらない。増幅し続ける絶望に突き動かされ、肩が外れるほどの力でクマのみぞおちを殴りつけた、その時だった。
・・・パリィン
「…え?」
綿と繊維だけでできているはずの体内から、明らかな固形物の壊れる響きだった。その瞬間、かつて訪れたぬいぐるみ店の店員の言葉が、雷に打たれたように蘇る。
「お客様、このテディベア…ご自身で縫い直されました?」
私は取り憑かれたように勉強机へ向かい、鋭利なハサミを掴んだ。正常な判断力はどこにもないため、迷わずクマの腹部へと刃を突き立てる。
ボスッ、という鈍い音とともに綿と埃が舞い上がると、私は一心不乱に布を裂いて中に手を突っ込んだ。内部をまさぐり、指先にガラス片に触れたような鋭い痛みが走る。
「いった…なに、これ…」
引き抜こうとした指先に触れたのは、細長く硬い質感だった。ボールペンに似たその感触から、脳が最悪の答えを導き出す。
「まさか…そんなはず、ない」
予感が外れることを祈りながら、私はその物体を綿の海から引きずり出した。現れたのは、先端が少し欠けた精密なガジェットである。
「ひぃっ…!?」
私はそれを目の当たりにすると、部屋の隅へと放り投げた。ぬいぐるみの中に、あってはならない物体・・・私のあまりに豊かすぎる想像力が弾き出した正解は、一つしかなかった。
・・・盗聴器。
「はぁッ、はぁッ、はぁッ…!?」
なぜ先輩からの贈り物にこんなものが、 なぜ私なんかの部屋、疑問が濁流となって押し寄せる。私の部屋に忍び込んで仕掛けるのは不可能に近いため、手渡される前から仕込まれていたのだ。
そして、それが可能な人物は、この世にただ一人しかいない。
「も~…ダメじゃない、ゆいな。授業中に勝手に帰ってきちゃ…」
狼狽する私の背後に開け放たれた廊下から、心臓を直接掴むような声が響いた。弾かれたように振り返ると、そこには誰もいない。だが、その声は私が一生忘れることのできない彼女の声だった。
「あ、あやみ…先輩?」
震える声で名を呼ぶと、誰もいないはずの廊下で窓からの光を遮るように、微かな影が煙のようにゆらりと揺れた。
作者の『月雲とすず』です!
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!
【ブックマーク】や【★評価】等をしていただけると、励みになります!
次回も、お楽しみください!




