第五七話 欠席
後世に語り継がれるべき凄惨な事件が幕を閉じた翌日、起き上がろうとする意志に反して、失恋という名の重力が私をベッドに縫い付けていた。涙を吸い込みすぎて重くなった枕に顔を埋めたままでいると、耳元で毛布を小さく引く音がした。
「…ゆいな、大丈夫?」
鼓膜を揺らしたのは、あやみ先輩の声だった。また隣の自室から私の部屋へと這ってきたのかと呆れる余裕すら今の私にはなく、視線を合わせることなく掠れた声で呟く。
「…あやみ、先輩…ごめんなさい。少し体調が優れないみたいで…今日は、休みます」
その体調不良の根源が、目の前のあやみ先輩であるという事実を包み隠す。すると過敏になった私の鼓膜に、先輩が漏らした微かな溜息が冷たく響いた。
「…わかった。じゃあ、私はママに迎えに来てもらうね」
「はい…いってらっしゃいませ」
ケージの隅で震えるウサギのような弱々しく寂しげな声で先輩は、そのまま床と衣類が擦れる乾いた音を後に残して廊下へと消えていった。
頭から毛布を被って寝たふりを続けるとしばらくして、窓の外から滑り込んできたエンジンの振動が玄関前で止まった。それが犀川先生の車だと気づくのと同時に、玄関が開いて硬いパンプスの足音が床を叩く。
遠ざかっていく車の駆動音を毛布越しに見送ってから、私はようやく這い出すように頭を出して重い溜息を吐き出した。
「…あやみ先輩。私のことなんて、気にかけないでくださいよ」
私がこれほどまでに無惨に打ちのめされている原因が自分にあるとも知らず、無自覚な慈愛を振りまく彼女を私は心の底で呪った。彼女への片思いが粉々に爆散した私の胸には、まるで至近距離から銃弾が通り抜けたような風穴が開いて萎びている。
しかし、修復不能なほどに壊れ果てた恋心を捨て去ることもできず、私は再びシーツの海へと沈み込んだ。
己の汗と涙の匂いに包まれながら、必死に瞼を閉じ続ける。夢の中で全てを忘れ去ろうと試みるが、世界は私の願いなど聞き入れなかった。
「…眠れない」
秒針の音がまるで心臓を急かすように聞こえ始め、私はたまらず素足を床に下ろした。ひんやりとしたフローリングの冷たさに、不意に切実な尿意が込み上げてくる。
起き上がりこぼしのように不安定な頭を抱え、先輩の残り香が微かに漂う廊下をとぼとぼと進んだ。階段を下りてトイレに向かい、用を足すために便器に腰を下ろす。
静寂にささやかな水音が響き、ふと横を見ればトイレットペーパーが芯だけを晒しているのに気がついた。昨日のうちは確かに残っていたはずなのに、そんな些細な違和感に苛まれながら予備の紙を補充する。
洗面台で手を洗い、鏡の中の自分と視線がぶつかった。涙袋は虫刺されのように赤く腫れ上がり、その下には深いクマと乾いた涙の筋が醜くこびりついている。目覚めた時、あやみ先輩にこの顔を見られなくて良かったと心から安堵した刹那だった。
流水で顔を洗ったが、憑りついた倦怠感は剥がれ落ちない。重い足取りで階段を上り始めたとき、先ほどは見落としていた異変にようやく意識が向いた。
「先輩…部屋の扉、開けっぱなし…」
あやみ先輩の自室が、誘うように開け放たれていたのだ。その不用心さに呆れつつ、扉を閉めようとノブに手を掛けたその時である。
彼女の香りが、逃げ場のないほど濃密に充満した部屋を一目見た瞬間、私の心臓がどくんと脈打つ。生温かい唾液を飲みこむと、足は勝手に彼女の部屋へと踏み込んでいた。
棚の上のウサギのぬいぐるみが私の侵入を許すと、ピンクと白で統一されたガーリーな色彩に視界を埋め尽くされた。全身が言いようのない多幸感に麻痺させられていくと、私の視線は吸い寄せられるように彼女が今朝まで横たわっていたであろうベッドへと向けられる。
乱れたシーツと脱ぎ散らかされたままの毛布、それを目にした瞬間に私の情欲は制御を失った。気づけば、私は既に先輩の温度を求めてその場所へ身体を預けていたのだ。
仰向けで天井を見つめていると、自分があやみ先輩と同化していくような危険な錯覚に陥る。すると、腰のあたりに触れる湿り気に気づいた。
寝返りを打ってシーツを確かめると、そこだけがスコールでも降ったかのように濡れていた。幼馴染が消えた悲しみで、彼女が夜通し流した涙の痕跡だろうか・・・考えるよりも先に、私はその湿り気へと自分の身体を胎児のように丸めて熱い吐息を漏らした。
「…んく、っ…」
全身が感電したように痺れ、頬が朱肉を塗りつけたように赤く染まった。彼女のベッドで指をかき混ぜると、呼吸が荒くなって酸素が足りなくなる。私は先輩の香りが染み付いた枕を狂おしく抱きしめ、窓の外の景色も刻まれる時間も気にせずに情欲の渦に身を委ねた。
「はぁ…っ、あやみ、先輩…あやみ、先輩…!」
どれほどの時間が経過しただろう、汗にまみれた私は彼女の名前を呪文のように唱え続けていた。告白を拒絶された絶望から逃避するように、昨夜の浴室で目にした光景を思い返しながら唇を枕に押し当てる。
「好き…っ、好きです、先輩…大好き…っ!」
胸の奥底に沈んでいた激情を解き放つように、私が叫んだその瞬間だった。
・・・ピンポーン
「…っ!?」
無機質な呼び鈴の音が、静まり返った家中に突き刺さる。私は湿った指先をシーツで乱暴に拭い、床に脱ぎ捨てていた寝間着を震える手で着込むと階段を駆け下りた。
素足で一階に降り立つと、いつの間にか屋外が猛烈な豪雨に見舞われていることを知った。リビングや浴室の窓を雨粒が執拗に叩く音が響く中、私は玄関へと近づく。雨足が強まるほどに、あやみ先輩が濡れていないかという心配が胸をかすめた。
玄関に並んだローファーを履いて扉を開け放つと、既に日は落ちていたようだ。
「だ、誰…?」
玄関灯が反射する雨のカーテンの向こう側へ目を凝らすと、私はその光景に息を呑む。雨粒がアスファルトで激しく跳ねる中で、濡れた前髪を瞳に貼りつかせた人影が私に向かって照れくさそうな笑みを浮かべていたのだ。
「やっほ〜!ちょっと、雨宿りさせてくれない?」
「え、エリ…っ!?」
豪雨の中で微笑んでいたのは、まさかの戸坂エリだった。私は混乱したまま彼女を犀川家の中へと招き入れ、急いで浴室へと導く。
締め切られた浴室に熱い湯気が立ち上るのを見届けてから、彼女が着ていた制服を洗濯機に放り込む。洗浄と乾燥のボタンを押し、廊下に点々と残されたエリの足跡を雑巾で拭い上げた。
脱衣所の隙間から白い湯気が漏れるのを見て、自室からスペアの寝間着を持ってきて手渡した。いつもあやみ先輩にそうしているように、エリの茶髪にドライヤーを当てて彼女をリビングへと誘う。
「ありがと〜!シャワーまで借りちゃって、本当に助かったよ」
冷えた身体に熱が戻ったのか、彼女は機嫌良さそうにソファへ腰を下ろした。脚をぶらぶらと揺らして朗らかに笑うエリの隣に、私は眉間に深いシワを刻んだまま座り込む。
「なんで…エリは、こんな雨の中で外にいたの?それに、よくここが分かったね」
かつての親友が、傘も持たずに雨に打たれていた理由を問い質す声は、どうしても心配の色を隠せなかった。彼女は後頭部を掻きながら、他人事のように笑い飛ばす。
「いや〜、学校の帰りに急に降ってきちゃってさ。この家は、前に犀川先輩が教えてくれたんだよ」
エリが通う蜂ヶ海中央高校から、この住宅街まではかなりの距離があるはずだ。雨宿りのためにわざわざここに来るのは不自然極まりない。思考が迷路に迷い込んでいると、エリが不意に私の顔を覗き込んできた。
「それより、どうしたのさ。今日のゆいな、顔色がすごく悪いよ?」
額を合わせるほどの距離まで顔を近づけてくる彼女を、私は反射的に手で遠ざける。一人で抱え込むには昨日からの出来事はあまりに重すぎたので、私はエリに全てを吐き戻すことにした。
「…実は」
淡々と、けれど抑えていた感情が漏れ出すのを止められないまま私は語った。震え出す私の声をなだめるように、彼女の温かい手が背中を撫でる。すべて供述し終えると、エリは同情を露わにして、一緒に涙を浮かべてくれた。
「…そうか。犀川先輩に、フラれちゃったんだね」
「うぅ…うん…私、もう、どうやって生きていけばいいか分かんないよ…」
先ほどまでの背徳的な熱が嘘のように、嗚咽しながら嘆く私をエリは抱き寄せるようにして肩に手を回した。
「うんうん、辛かったね…大丈夫、私がいるよ」
彼女の胸元に鼻先が触れると、そこから立ち上る安心感に身を委ねていた。しかし次第に、私の肩を抱く力が尋常ではない強さに変わっていくことに気づく。
肩に彼女の爪が食い込むほどになった時に火山の噴火寸前の地鳴りのような、おどろおどろしい声が私の鼓膜を叩いた。
「だからさ、ゆいな…全部、私に委ねてよ」
「…え?」
言葉の意味を理解する暇もなく、私は瞬きする間にソファへと力任せに押し倒されていた。
「ちょ、ちょっと…エリ!?」
蒸気機関車のような荒く熱い息を吐き散らしながら、エリは私の両肩をソファに釘付けにする。痛みを訴えようとした瞬間、彼女は私の身体から片手を離して貸したばかりの上着を乱暴に脱ぎ捨てた。
「私が、ゆいなの全てを受け止めてあげる…だからゆいなも、私のことを受け止めてよ」
下着の替えがなかったため、上着一枚だった彼女の柔肌があらわになる。その瞳は血肉を目の前にした鮫のように、どす黒い光を放っていた。正気を失ったその視線に、私の背筋に猛烈な悪寒が走る。
「ど、どうしたの…エリ。怖いよ…!」
「犀川先輩の穴なんて、私が埋めてあげる。あの人のことなんて、今すぐ忘れさせてあげるから…!」
強引な手つきで、エリが私の寝間着のボタンをむしり取るように外し始めた。必死に拒絶してその手を止めようとするが、執念に突き動かされた彼女の怪力に抗うことができない。
「いやっ…やめて、やめてよエリ!」
「大丈夫、怖くないって…私に、全部まかせて」
されるがままに上着を剥ぎ取られ、下着さえも引き裂かれようとしたその時だ。得体の知れない嫌悪感と羞恥心が限界を超え、私は無意識に右手を振り抜いていた。
「いや…いやあああッ!!」
悲鳴と同時にリビングでパシンッ、という乾いた破裂音が響き渡る。恐る恐る目を開けると、そこには赤く腫れ始めた頬を抑えて目を見開くエリがいた。
「ゆ、ゆいな…なんで…」
狼狽える彼女の言葉を遮るように、私は震える唇で冷たい言葉を突きつける。
「…帰って」
それは、これまでの友情も思い出も、すべてをゴミ捨て場に投げ捨てるような拒絶の声だった。
「帰ってよ!エリなんて…あんたなんて、もう絶交だよ!二度と、私の前にその顔を見せないで!」
喉の奥から鉄の味が競り上がってくるのも構わず叫ぶ私を前に、エリは呆然としている。そこへ脱衣所から洗濯機の場違いなアラームが鳴り響くと、彼女は観念したようにソファから降りた。
「…わかった」
自分に言い聞かせるように呟いた彼女の背中を、私は憎悪の籠もった視線で睨み続けた。エリは貸していた寝間着を床に叩きつけると、廊下の明かりを逆光に受けて裸の背中を晒した。
「…最低だね、ゆいな」
「…はぁ!?」
襲われた側である私に放たれたその言葉に、怒りの火にガソリンが注がれる。しかし彼女は目に涙を溜めたまま、廊下へ向かって呪詛のように言葉を吐き捨てた。
「天内さんにも、同じことしたクセに…!」
その一言に私の心臓が凍りつき、言葉が喉に張り付いて出てこなかった。好きでもない同性に無理やり襲われる嫌悪を誰より知っているのは、私に接吻を強要されたあかねのはずだ。そして、それを間近で見ていた私自身も、その罪を知っていたはずなのだ。
「え、エリ…」
私が過去の罪悪感に内側から食い荒らされると、その隙に脱衣所で制服に着替えたエリは、振り返りもせずに玄関へと向かった。慌てて追いかけるが、彼女は私の呼びかけを黙殺して嵐の夜へと飛び出していった。
雷鳴が轟く中で、生乾きの制服の背中が雨へと消えていく。私ははだけた下着の上に辛うじて上着を羽織っただけの姿で、裸足のまま夜道へ飛び出した。
少し離れた電柱の街灯の下、光に照らされた彼女が足を止めた。エリは私の方を向き、雨に濡れた顔で残酷なほど美しい笑顔を浮かべて手を振った。
「さようなら、ゆいな!どうか、お幸せにね!」
それだけを残して、彼女は暗闇の豪雨の中へと溶けていく。私はその背中を掴もうと、必死に腕を伸ばした。
「ま、待って…!エリッ!」
追いかけようと一歩を踏み出した足が泥に滑り、裸足の私は無様に地面へ叩きつけられる。頭上で雷が嘲笑うように咆哮する・・・私はエリの背中を二度と捕まえることができなかったのだ。
作者の『月雲とすず』です!
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!
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次回も、お楽しみください!




