第五六話 鬱病
重苦しい濃霧のような湯気が充満する浴室で、私は震えるあやみ先輩の背中を泡で撫でていた。頭の上から降り注ぐシャワーの音に混じって、彼女の咽び泣く声と拭いきれない涙が排水溝へと吸い込まれていく。
「うぅ…ヒカリ…ちぐさ…」
幼馴染み二人の痴話喧嘩の末、警察や救急車まで出動する騒ぎになった。その惨劇を思い返しているのか、先輩の華奢な肩が細かく波打つ。私はその脊椎に指を走らせながら、言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「大丈夫ですよ、あやみ先輩…」
恐怖や後悔を洗い流すように、私は先輩の背中にタオルを密着させる。白く艶やかな肌の上で柔らかな泡が弾ける質感に、私は無意識のうちに喉を鳴らした。
身を縮ませてすすり泣く先輩の背中は、いつにも増して美しかった。庇護欲ゆえか、あるいは窮地に立たされた彼女の姿に、抗い難い官能を見出してしまったのだろうか。
普段から行っている介助のはずなのに、胸の奥には泥のような罪悪感がこびりついて離れない。けれど腹の底からせり上がるどろりとした欲求に抗いきれず、私はついに自分の胸を先輩の背中へと押しつけた。
「はぁ…っ、はぁ…っ、あやみ先輩…」
肩甲骨から脊椎にかけて、マーキングをするように控えめな膨らみを押し当てる。憧れのあやみ先輩をこの腕の中に独占している・・・その背徳的な事実が、私の脳を甘い幸福感で麻痺させていった。
「…ゆ、ゆいな?」
異常に荒い私の吐息や、肌越しに突き刺さる鼓動に気づいたのだろう。先輩がおずおずと、肩越しにこちらを振り返った。涙に濡れたその瞳に見つめられ、私の情欲はもはや沸点を超えていた。
「先輩は、私が守らなくちゃ…」
獲物を捕食するクリオネのバッカルコーンのように、あるいは砂流の底で獲物を貪るアリジゴクのように、私は彼女の両肩に縋りついて盲目的な愛でその存在を侵食していく。肌から伝わる熱、早鐘を打つ心音、微かに混じる涙の匂い、そのすべてが愛おしくて堪らない。
「どしたの、ゆいな…具合でも、悪いの?」
「先輩…私、もう…我慢できません」
密着した胸の感触に違和感を覚えたのか、先輩が心配そうに問いかけてくる。しかし暴走を始めた恋情にブレーキは効かなかった。今日まで心の奥底に封じ込めていた感情が、濁流となって溢れ出す。
「私、先輩のことが…ずっと前から好きだったんです」
「ゆいな…」
打ち上げ花火が破裂するような衝撃を胸に抱き、私は告白を叩きつけた。センチメンタルな今の彼女にぶつけるべき言葉ではないと理解していても、一度走り出した心は止まってくれない。
「先輩…私と、付き合ってくれませんか…?」
直後、浴室から一切の音が消えた。ただ、シャワーの飛沫がタイルを叩く音だけが無機質に反響する。狭い空間を満たす沈黙の中、私の頬は朱の盆のように赤く染まっていった。けれど、そこには後悔など微塵もなかったのである。
これまで地道に距離を縮めてきたため、先輩が私を嫌っているはずがない。そんな傲慢な自負を胸に返答を待っていると、彼女は重たい溜息を吐き出してようやく唇を開かせた。
「…ごめん、ゆいな」
「…へ?」
張り詰めた空気が一気に凍り付くと、確信していた未来が崩落して視界がシャワーの飛沫で滲んでいく。
先輩は密着していた私の身体を優しく、けれど拒絶するように引き剥がした。自らの肩を抱くようにして守り、背中に残った泡を冷淡に洗い流していく。
「ごめん、ちょっと驚いちゃって…でも、返事は少し待ってほしいかな」
重苦しい声が、湯煙の中に溶けていく。意識の手綱が手から滑り落ちるのを感じながらも必死に現実に踏みとどまっていると、彼女は引きつったような微笑をこちらに向けた。
「安心して!私がゆいなを大好きなのは、変わらないから…絶対に」
真意を煙に巻くような、あるいは自分自身に言い聞かせているような虚言である。私は揺れる視界を必死に固定し、ただ人形のように首を縦に振ることしかできなかった。
「そ、そうですか…」
私は逃げるように湯を張った浴槽へと先輩を浸からせ、一足先に脱衣所へ飛び出した。シャンプーの香りさえ纏わぬまま、ただの湯水で濡れた体を乱暴に拭き、寝間着を引っ掴んで階段を駆け上がる。
千鳥足のまま自室へなだれ込み、私は拳を固めてベッドへと崩れ落ちた。シーツを引き千切らんばかりの勢いで掴み、枕に顔を埋めて先ほどの言葉を呪詛のように繰り返す。
「ふ、振られた…?私、あやみ先輩に、振られた…?」
片思いの結末が拒絶であったという事実が、高揚していた心臓を無残に食い破っていく。
弱り切った先輩に付け入ろうとした自分の浅ましさと、独りよがりの傲慢さが前頭葉を腐食させるように疼いた。
「うぅ…うぁあああああ!」
シーツを握りしめたまま、マットレスを乱暴に殴りつける。貧弱な拳が弾むたび、心の中に溜まったどす黒い感情が火花を散らした。
「なんで…なんで、ぇええ!」
声帯が千切れるほどの悲鳴を上げ、痛みも忘れて枕に拳を沈め続ける。拒絶された現実から目を逸らすように、悲哀と憎悪が混ざり合った激情を柔らかな寝具へと叩きつけた。
やがて腕の力が尽き殴る気力さえ失せると、涙袋から決壊したように涙が溢れ出した。その時、脳内で張り詰めていた物が、ぷつりと断絶する音が聞こえた気がした。
私はうつ伏せのまま、涙と涎で汚れた枕を湿らせ、震える唇から最後の言葉をこぼす。
「もう…どうでもいいや」
私を拒絶したあやみ先輩も、私の前から消えていった白崎先輩や姫山先輩も、すべてが他人事のように遠ざかっていく。拭う気力も失せた顔に睡魔が這い寄る中、遠のく意識の最果てで浴室のドアの蝶番がぎぃ、と重たく軋む音だけが、いつまでも耳に残っていた。
作者の『月雲とすず』です!
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