第二七話 天内あかね
蜂ヶ海中学の教室では、窓から差し込む光の中で女子達が賑やかに着替えを済ませていく。
体操服に着替え終えた天内さんは周囲の輪に混ざることなく、影に溶け込むように教室を抜け出そうとしていた。私はその先回りをして、彼女の前に立ち塞がった。
「あーまないさん!」
「…なに?」
足を止めた彼女の声は、どこか遠い。
「何って、次は体育だよ。一緒に行こうよ」
昨日までの距離が嘘のように、今日の彼女はよそよそしい。差し伸べた私の手を、彼女は困惑を隠さないまま、冷たく払った。
「あなた、昨日の言葉を忘れたの?私とは関わるなって意味だったんだけど」
「きみだって、私の言葉を忘れた?私達は、友達なんだよ」
そそくさと歩き出す彼女の隣に、私はぴったりと張り付いた。困惑を隠しきれない彼女の横顔を盗み見ながら、私はわざと明るく微笑む。
彼女は小さくため息を吐くと、それ以上私を拒絶することを諦めたようだった。結局、私たちは肩を並べて体育館へと向かった。
この学校には給食がなかった。昼休みでクラスメイトたちが机を寄せ合い、購買のパンやお弁当を広げ始める喧騒。私は自分の弁当箱を持って、後ろの席に陣取った。
「天内さん!一緒にお昼食べよ~!」
「…甘野さん、いつも一緒に食べてる人たちはいいの?」
彼女が視線を向けた先には、教卓の周囲に集まる賑やかなグループがいた。私は一度そちらを見てから、迷いなく彼女に向き直る。
「うん!私がいなくても楽しめるって言ってたし。…って天内さん、お昼それだけ?」
彼女の手元には、味気ないチョコレートバーが握られている。机の上には、まるで城壁のようにブックカバーに守られた文庫本が積み上げられていた。
「食事より、読書に時間を使いたいから」
彼女は無造作にチョコバーを口に放り込み、数回咀嚼してすぐに本を開いた。「美味しい」と呟く声はあまりに薄っぺらで、その直後に彼女の胃袋が裏腹にぐぅ、と小さな悲鳴を上げた。
「やっぱり、足りないんじゃん」
顔を赤らめる彼女を前に、私は鞄から二つ目のお弁当箱を取り出して彼女の机に置いた。
「はい、お弁当。天内さんのために作ってきたんだよ」
「…なんで」
睨むような視線を送る彼女に、私は人差し指を顎に当てておどけてみせた。
「友達だから…これじゃ、説明にならないかな」
自分でも少し気取ったセリフに気恥ずかしくなっていると、彼女は無言で包みを解いた。現れた彩り豊かなおかずを、彼女はためらうことなく口に運ぶ。
「うん、美味しい…美味しいよ」
その瞬間にこぼれた彼女の微かな笑みに、私は心の中で小さくガッツポーズをした。
放課後、エリが真っ先に私の元へ駆け寄ってきた。
「ゆいな、今日の部活オフだって。一緒に帰る?」
「ごめん、エリ。今日は先約があるんだ」
申し訳なさを込めて断ると、エリはそっけなく頷いて教室を去った。すると、後ろから恐る恐る私の背中をつつく感触があった。
「…いいの? 断っちゃって」
自分のせいで私たちが仲違いするのを恐れているような、あどけない気遣いである。
「うん。天内さんのこと、もっと知りたいから」
学校を出た私たちは、昨日と同じく彼女の家へと向かう道を歩いていた。
「へぇ、趣味で執筆もしてるんだ。すごいね」
「別に…誰かに見せるわけじゃないし」
昨日の拒絶が嘘のように、彼女はポツリポツリと自分のことを話し始めた。ミステリアスな彼女の殻が、一枚ずつ剥がれていく。その変化が、私にはたまらなく嬉しかった。
「あ、もうすぐだね。じゃあ、また明日!天内さん!」
「ま、待って…!」
敷地に入った彼女が、背を向けた私を呼び止めた。振り返ると、玄関の扉に身を隠すようにして、彼女が控えめに手招きをしていた。
「今日、家に誰もいないんだけど…上がっていく?」
案内された彼女の自室は、天井まで届く本棚が壁を埋め尽くしていた。
「うわ…すごい!これ全部、ジュンブンガク!?」
「全部じゃないけど…興味あるのがあったら、見ていいよ」
ベッドに腰掛けた彼女の許可を得て、私は背表紙を指でなぞった。そして一冊、可愛らしいタイトルの本を抜き出す。
「じゃあ、これにする!」
『人魚』と記されたその本を見た瞬間、彼女は息を呑んだ。
「た、谷崎潤一郎…初見で谷崎は、刺激が強すぎるかも…」
何に怯えているんだろうと思いながらページをめくると、そこには未知の世界が広がっていた。活字に触れるのは国語の授業以来だったけれど、目の奥が熱くなるような興奮に、私は我を忘れた。
「すごい…面白いよ!胸が、ぞくぞくするっていうか!」
「わ、わかったから落ち着いて。後で返してくれるなら、何冊か持って帰っていいよ」
私は興奮冷めやらぬまま、気になった本を片っ端から腕に抱えた。すると、背後に座る彼女の声がふっと温度を変えた。
「あと…少しお願いがあるんだけど、いいかな」
貸し出しの対価を求められるのかと思い、私は腕に本を抱えたまま微笑んだ。
「私にできることなら、何でも聞くよ」
彼女は喉に詰まった餅を飲み込むように咀嚼して、ようやく口を開いた。
「甘野さんのこと…ゆ、ゆいなって、呼んでもいいかな」
予想外の願いに、私は勢いよく頷いていた。
「いいよ! ていうか、大歓迎!」
「そう? 嬉しいな…」
彼女の顔が火がつくように赤くなる。その表情がかわいくて、私は一歩踏み込んだ。
「じゃあ、私も天内さんのこと…あかねって呼んでいい?」
私の提案を聞いた彼女の瞳が、曇天に差し込んだ日光のように輝く。
「うん、嬉しい…嬉しいよ、ゆいなっ!」
あかねは何度も何度も首を縦に振り、私はその手を握って、二人で無邪気に跳ねた。
翌朝、一晩で小説を読み切った私は、本を詰めた紙袋を抱えてあかねの席へ向かった。
「面白かったよ。谷崎もいいけど、三島も私好きだな~」
「ふふ、ゆいなって、けっこう耽美派なんだね」
「タンビ…?なにそれ!」
そこからホームルームが始まるまで、私達は文学の話に花を咲かせた。他の誰との会話でも味わえない、純粋で濃密な時間であった。
その後、小説の探索を目的に図書館へ向かった私たちは、棚の隅にちょうど二人が入れるくらいの隙間を見つけた。
「あかね!動画撮ろうよ!」
「えぇ、踊れるかな…私が隣に立つと、ゆいなのかわいさが半減されそう」
遠慮するあかねの手を引き、棚の間で流行の縦型動画を撮影した。最初は戸惑っていたあかねも、出来栄えを確認すると満足げに微笑んだ。彼女の許可をもらって、私はその動画をSNSにアップした。
昼休みには、昨日よりもさらに豪華なお弁当を彼女の机に広げた。
「美味しい…」
「よかった! あかねの好きなもの、いっぱい詰めたんだよ」
夢中で食べるあかねの姿を、私はどこか誇らしい気持ちで見守った。出会った頃の頑なな表情が嘘のように、彼女は私の前で柔らかく笑う。
「うん…ありがとう、ゆいな」
その直後、移動教室のために席を立つと、周囲の女子たちがこちらを見てひそひそと笑っていた。
「気味悪いよね、あの机」
隣で肩をすくませたあかねの背中に手を添えて、私は耳元で囁く。
「気にしないで。私がいるじゃん」
「…うん」
あかねは、すがるように私の腕に抱きついてきた。その幼い甘え方が愛おしくて、私は彼女の頭を優しく撫でてやった。
放課後になると、あかねは委員会があるからと、一人で先に帰るよう私に頼んだ。帰り支度をして廊下に出ると、背後から聞き慣れた声が届く。
「ゆいな…」
振り返ると、夕闇が迫る廊下でエリが棒立ちしていた。その表情は、今までに見たことがないほど真剣でどこか刺々しい。
「エリ、どうしたの?」
「最近、よく天内さんと一緒にいるよね」
「驚いた。エリにも、あかねが見えるんだね」
「見えるっていうか、ずっと同じクラスじゃん。…ゆいな、あんたのために言うけど、あの子と付き合うのは控えた方がいいよ」
エリのぶっきらぼうな言葉に、私は思わず彼女を射抜くような視線を向けた。
「それ、どういう意味?」
私の言葉で空気が凍りつくと、エリは居心地悪そうに目を泳がせながらも、必死に言葉を繋いだ。
「周りの子が、ゆいなの付き合いが悪くなったって言い出してるんだよ。このままだと、ゆいながひとりぼっちになっちゃう」
「そんなの、好きに言わせておけばいいじゃん。エリは、あの子の側にいるのがおかしいって言いたいの?」
怒りがふつふつと腹の底で湧き上がる。親友のエリであっても、あかねを否定することだけは許せなかった。
「そ、そんなんじゃない! 私はゆいなを心配して…!」
「大丈夫だよ。お互い暇になったら、また遊ぼう」
私は張り詰めた空気を無理やり笑顔で切り裂き、昇降口へと駆け出した。
「ゆいな…っ」
背後でエリの声が響いたけれど、私は一度も振り返らなかった。
下駄箱で靴を履き替えようと上履きを脱いだ瞬間、スマホがひとつの通知が届いた。画面を確認した私は、重いため息とともに足を止める。
「…忘れてた」
足早に昇降口を出た私は、そのまま目的地へと走り出した。そのメッセージの送り主は、最近めっきり連絡を返さなくなっていた、とある人物からだった。
作者の『月雲とすず』です!
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