第二六話 青い春
蜂ヶ海中学校は、蜂ヶ海学園よりも極めて普遍的な学び舎だった。
朝のホームルームが近づくと、無機質な箱に詰め込まれるように、ぞろぞろと生徒たちが教室へ吸い込まれていく。
私は、その退屈な箱の空気をかき混ぜるように、勢いよく教室の扉を開け放った。
「おっはよ~!みなのしゅう!」
漆黒の髪をなびかせて挨拶を振りまけば、クラスメイトたちが一斉にこちらを向く。
「おはよう、ゆいな!今日も朝から元気だね」
教卓に集まっていた女子が笑いかけてくると、私はその手のひらに、元気よくハイタッチを返した。その直後、私の控えめな胸元を骨ばった指先が小突く。
「おっす、甘野。今日も相変わらず、ちっこいなぁ」
指の主は、クラスの人気者の男子だった。私は彼の脇腹を肘で突き、わざとらしく顔を赤らめて胸を隠した。
「なにがちっこいだ!お前、セクハラだかんな!」
「違ぇよ、タッパのことだよ!」
男子の軽口に教室がドッと笑いに包まれる。これが私の役割だった。いじられキャラとまではいかないが、皆がからかいやすく、それでいて場が明るくなる役割。
多少の居心地の悪さはあっても、それが居場所を維持するための対価だと思えば、悪い気はしなかった。
「ねえゆいな、昨日のドラマ見た?」
女子たちの輪に戻ったが、私はすまなそうに首を振る。
「ごめん、昨日はこれ買うのに必死だったから!」
鞄から取り出したのは、最新のファッション誌だ。蜂ヶ海市の書店を三軒回ってようやく手に入れた、流行の最先端である。
「じゃーん!見てよ、このモデルさん超可愛くない?」
「ホントだ、おしゃれ~」
そんな記号的なやり取りをこなしてから、私はようやく窓際の後方の席に腰を下ろした。景色を見下ろしながら息を吐いた瞬間、背後に重みが加わる。
「おはよ、ゆいな」
挨拶もそこそこに私の机にどかっと尻を預けてきたのは、茶髪をゆるく巻いたギャルであった。私は彼女の臀部をぺしっと一つ叩いてから、短く返した。
「エリ、おはよ」
クラス向けの元気な声ではない、少し低いトーン。エリの前でだけは、このぶっきらぼうな温度が一番落ち着くのだ。
「今日さ、移動教室ばっかだよ。だるすぎ」
「本当だ…。あ、今日部活ある?」
問いかけると、エリは残念そうに首を振った。
「今日用事あんの。一緒に帰れなくてごめんね」
「そっか、了解」
短い会話を終え、エリが自分の席へ戻っていく。私はその背中を見送りながら、担任が来るまでの僅かな静寂を噛みしめた。
ホームルームが終わるやいなや、一時間目の移動が命じられた。慌ただしく準備をしていると、朝の女子グループから声がかかる。
「ゆいなー、早く行こ!」
「うん、ちょっと待って!」
教科書を抱えて廊下へ出ると、女子たちが身を寄せ合って、ひそひそと声を潜めていた。
「…やっぱり、不気味だよね」
「先生も、あそこの席だけは触れないようにしてるみたいだし…」
「なになに!?なんの話?」
後ろから首を突っ込むと、彼女たちは周囲を警戒しながら、私の耳元でささやく。
「ゆいな、知ってる?うちのクラスの、机の噂!」
「…私の後ろの席?」
話を聞いて頭に浮かんだのは、私の真後ろで窓際の一番後ろの席。入学してから一度も、誰かが座っているのを見たことがない空席だ。
「そう!誰もいないのに、ずっとあそこに置いたままでしょ。掃除の時も、先生が片付けようとしないし」
誰も使わないため教科書や体操服を詰め込むも、明日には綺麗さっぱりともとの場所に戻されることがよくある。
クラスメイトの悪ふざけで花瓶を飾っていた時期もあったが、ごく稀に女性がすすり泣く声が聞こえるので、すぐに片付けた。
「噂では、あの前の席に座ると…呪われて、誰からも認識されなくなるらしいよ」
「やめてよ、怖いじゃん!」
きゃあきゃあと騒ぎながら階段を降りている途中で、私は手元が軽いことに気づいた。
「あ…筆箱、教室に忘れた」
「もー、ゆいなってば、うっかりさん!」
「よせやいっ!じゃあ、先に行ってて!」
私はひとり、廊下を逆走した。予鈴のチャイムが校内に鳴り響き、焦りで足が速まる。教室の後方の扉を曲がって中に飛び込もうとした、その瞬間だ。
ゴツッ、という重たい衝撃が、私の額に走ったのだ。
「いったぁ…っ!」
まるで、そこに透明な壁があったかのような不自然な衝突。尻餅をついた私は、じりじりとした痛みに涙目になりながら前方を見た。
そこには私と同じように額を押さえ、床にへたり込む少女がいた。
「ご、ごめん!大丈夫…!?」
慌てて駆け寄り、彼女の細い腕を掴む。少女の手は驚くほど冷たく、けれど確かな体温があった。
「う、うん…大丈夫…って」
顔を上げた彼女は、私の顔を見るなり急速冷凍されたように固まった。野暮ったい眼鏡の奥で、大きく見開かれた瞳が小刻みに震えている。
・・・誰だ?クラスメイトの顔は全員覚えているはずだ。けれどこんなに地味で、それでいて磁石のように目を引く危うい雰囲気の女子の記憶は、私のどこにもなかった。
「ど、どうしたの?立てる?」
声をかけると、彼女は弾かれたように立ち上がった。床に散乱した教材をひったくるように集めると、私の横をすり抜けて廊下へ走り出す。
「…早く行かないと、遅刻だよ」
消え入りそうな、しかし鈴の音のように透き通った声だった。彼女の長い影が廊下の光に溶けていくのを、私はただ呆然と見送ることしかできなかった。
移動教室が終わり、自席に戻った私は息を呑んだ。いつもは空席のはずの真後ろに、あの少女が何食わぬ顔で座っていたのだ。
「ねえ」
声をかけて振り返ると、彼女はぎろりと険しい視線をこちらに向けた。
「…なに」
「そこ、君の席であってる?そこって、誰も使ってないんじゃなかった…」
「ここは私の席。最初から、ずっと・・・」
彼女は頑なに言い張るが、私の理解が追いつかない。けれど授業が進むにつれて、さらに奇妙なことが起きた。
先生が配布したプリントが、私のところで止まったのだ。先生が数え間違えたのかと思ったが、後ろの彼女はそれ以上に奇妙な行動に出ていた。
少女はプリントがないことも当たり前だと言わんばかりに、隣の席を覗き込んでノートを書き進めようとしていたのだ。
胸がざわついた私は、自分のプリントを無言で後ろの机に置く。
「…え?」
驚く彼女をよそに、私は真っ直ぐに手を挙げる。
「先生!プリント一枚足りませーん!」
教卓まで取りに行って戻ると、背中に刺さるような視線を感じた。冷たいだけじゃない、戸惑いと、ほんの少しの熱を持った視線である。
「さ、さっきは…ありがとう」
放課後、帰宅の準備をしていた私の背中に、小さな声が届いた。朝の刺々しさは消え、消え入りそうなほど柔らかな声。
「全然いいよ。そういえば、君の名前はなんて言うの?」
振り返って尋ねると、彼女は窓から差し込む夕日の影に隠れるようにして、唇を震わせた。
「あ…天内、あかね」
「天内・・・ああ、出席番号一番の…!」
私は合点がいった。朝の点呼でいつも返事がなく、欠席だと思っていた名前である。彼女は誰にも気づかれずに、ずっとそこにいたのだ。
「私は甘野ゆいな。よろしく!」
「知ってるけど・・・よろしく」
今更なにを、といった目を向けられる。しかし、この謎多きクラスメイトへの興味は沸き続けるばかりである。
「ねえ、突然だけど…今日、一緒に帰らない?埋め合わせして欲しいんだけど・・・」
「はあ?嫌なんだけど・・・そういうのは、友達に頼めばいいでしょ?」
拒絶して鞄を握りしめる彼女の手を、私は逃がさないようにそっと包み込んだ。
「何言ってるの。私ら、友達じゃん」
天内さんは顔を赤くして、わなわなと震え出した。鞄で口元を隠しながら、潤んだ瞳で私を睨む。
「…ばか」
それはそれは、私の心を強く揺さぶる罵倒だった。地味ではあるが、顔立ちは整っている彼女の手を引いて、昇降口へと向かった。
赤く染まった住宅街で、私は天内さんに質問攻めをしていた。
「ねぇ、天内さんって好きな物あるの?」
「好きな物って・・・趣味なら、読書が好きだけど」
物静かな印象から察していたが、彼女は文学少女らしい。活字に精通していない私は、かろうじて読む機会のあるライトノベルを話題に出してみる。
「へぇ・・・どんなの読むの?ラノベ?」
「言っても、わかんないよ。純文学だし」
「ジュンブンガク・・・なにそれ、面白そう!」
「だ、だから、わかんないって・・・」
聞いたことのないジャンルに言及するも、天内さんは警戒して口を閉じてしまう。そして、彼女が私のような人間を避ける人見知りであることを悟った。
「ねぇ。天内さんっていつも隠れてるけど、もしかして人見知り?」
尋ねると、彼女は必死に首を横に振った。まるで、雨に濡れた子犬のようである。
「私は、影が薄いから…誰にも気づかれないの。授業だって、あの席で受けてるのに・・・」
「そうなんだね・・・」
天内さんの主張が本当ならば、彼女は影が薄いを超越して透明化でもしているのではないか。寂しげに笑う彼女だけれど、授業中もずっとそこにいたという話を聞いて私は確信した。
彼女は単に地味なのではなく、特別な孤独の中にいるのだ。
「だから、嬉しかったよ。今日、初めてクラスメイトに名前を呼ばれた…嬉しかったんだよ」
天内さんは、今日一番の笑顔を私にみせた。けれど彼女はすぐにその笑顔を消し、うつむき加減で電柱の影に身を隠した。
「い、今の、忘れて・・・もう甘野さんと話すことなんて、ないと思うから…」
「え、なんで?」
「だって・・・私なんかと一緒にいたら、甘野さんまで変な目で見られちゃうから・・・」
かける言葉に迷っていると、天内さんがとある一軒家の前で立ち止まる。表札には、天内と刻まれていた。
「じゃあね、甘野さん…気をつけて帰って」
閉ざされようとする玄関の扉。影の濃くなる天内さんの背中を横目にしたとき、私は危険な思考が頭をよぎった。
私が引き留めなければ、彼女は本当に消えてしまうのではないか。そんな得体の知れない恐怖が、私を突き動かした。
「待って、天内さん!」
扉の隙間に、私は声を叩きつけた。
「私、天内さんの友達だから・・・私は、天内さんの友達だからね!」
バタン、と扉が閉まった。返事はなかった。けれど、閉まる直前に扉の向こうで彼女が息を呑んだ気配だけが伝わってきた。
夕闇が迫る帰り道、私は自分の心臓がうるさいほど鳴っていることに気づく。
この出会いが、私の運命を大きく左右することになるとは、このときの私は未だ気づいていなかった。
作者の『月雲とすず』です!
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!
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