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第二八話 トラウマ

 むせ返るほど甘ったるい安価なフレグランスが、充満するラブホテルの一室。湿り気を帯びたシーツの上で、無様に四肢を投げ出す私にクラスメイトの男子が満足げな溜息を吐きかけた。


「…よかったよ、ゆいな」


「…そう。お粗末様でした」


 あらわになった肌を隠すように毛布をたぐり寄せると、彼はまずい緑茶を喉に流し込み、私の毛布を無造作に奪い去った。舐めるような視線が這い回り、手入れを欠かさない私の肢体を眺めた後で断りもなく太ももに厚い手のひらを置いてくる。


 熱を帯びた指先が這うと漏れ出してしまう私の吐息を、彼は卑猥に愉しんでいるようだった。


「心配してたんだぜ? 最近急に付き合い悪くなったからさ。他の奴らも、待ちくたびれてんじゃないか?」


 脚をまさぐる手を冷めた動作で払い除けると、私は膝を抱えて窓のない壁に目をそらす。


 あかねのことを明かしたところで、私の優位が揺らぐわけではない。けれど、この男に彼女の存在を開示すること自体、泥を塗られるようで癪だった。


「別に。ちょっと、お気に入りの友達が増えただけ」


「友達もいいけどさ。彼氏のことも、きちんと見てくれよな…」


 耳元でささやかれるキザな台詞と同時に唇が間近に迫る。私はその接近を、相手の口元を手のひらで押さえつけることで拒絶した。


「ちょっと待って…君、私を彼女だと思ってたの?」


 冗談のつもりで笑い飛ばすと、彼は唖然とした顔で私を凝視した。


「は…?俺たち、付き合ってるんじゃねえのか?」


「まさか。私はただ、そういうことする男友達だと思ってたけど」


 彼は本気で付き合っていると思っていたようだ。だとすれば、私が複数の男と関係を持っている噂を知らないはずがない。見境のない交友関係を黙認している時点で、対等な恋仲など成立し得ないというのに。


「お前、俺と何回寝たと思ってんだよ…これでも、恋じゃないって言うのかよ!」


「いいえ、違うね。だって…」


 私は残酷な宣告を、彼の唇に人差し指を立てることで封じた。驚愕に目を見開く彼を見下ろした私は小悪魔的な、あるいは酷く空虚な笑みを浮かべる。


「キス、したことないじゃん」


 言葉を失った彼は私の瞳に宿る冷ややかさに触れ、やがて噴き出すように大笑いし始めた。

「お前、意外と乙女なんだな」


「何を隠そう、立派な乙女だよ。…ということで、これからもよろしく」


 布一枚の隔たりもない裸のまま、私たちは虚飾の友情を繋ぎ止めるように、互いの手を握りしめた。


翌日、昨日の激しい運動の余韻は、砕けたような腰の痛みとなって身体に刻まれていた。


 渡り廊下にて、昼食を終えた私とあかねは、校庭を見下ろす特等席で談笑していた。彼女の表情は、出会った当初よりも確実に明るくなっている。


「ゆいな、大丈夫…?」


 あかねのいたわる声に、私は痛む腰をさすりながらおどけて見せた。


「うん。昨日ちょっと、激しい運動しすぎちゃってさ。筋肉痛だよ」


「ふふ、なんか、ゆいならしいね」


 陽光に温められた廊下に二人の笑い声が溶けていくと、ふいにあかねが控えめに紙袋を差し出してきた。


「これ、読んでもらえるかな…」


「どれどれ…三島?夢野?それとも乱歩?」


 新しいおすすめの純文学かと思い、私は期待に胸を弾ませて袋を覗き込む。しかし、そこに入っていたのは市販の文庫本ではなく、コピー用紙を丁寧にとじて作られた一冊の小冊子だった。


 作者の名前はなく安価な作りだが、折り目一つないその冊子から、並々ならぬ熱量が伝わってくる。


「それ、私が書いたんだ。…ゆいなのために」


「私の、ために…」


 言葉を聞いた瞬間、手の中の冊子が、鉄のように重さを増した。表紙には、ボールペンで凛とした文字が記されている。


『天使の梯子』


 いかにも純文学的なタイトルから、内容を推し量ることはできなかった。誘われるように表紙をめくると、そこに並んでいたのは物語ではなく、研ぎ澄まされた刃のような詩であった。


 ――

 

 曇天であった。限りのない、晴れる見込みのない曇天であった。

 寝ても覚めても苛まれる曇天のそこに、私は確かに生きていた。

 暗い道を歩けば、最後には傷だらけになって這い出る。

 人混みに紛れば、痣だらけの玩具になりさがる。

 もしも神様がいたのなら、私のことが嫌いなのだ。だから曇天なのだ。


 ――


 それはそれは、とても透明で、自然主義的な暗い叫びだった。誰にも認識されなかったあかねの痛みが、文字となって私の舌に染み渡る。けれど、ページをめくるにつれ、詩の色調は劇的に変化していった。


 ――

 

 ある日、光の矢が貫いた。曇天を切り裂き、貫いたのだ。

 私は初めて日光に触れた。とても温かく、眩しかった。

 暗い道がふたたび現れようとも、人混みに蹴散らされようとも。

 その光があれば、生きてゆけると思った。私はそれを願った。


 ――


 この文章を前に、いつの間にか頬を一筋の涙が伝っていた。


 これは、彼女が言葉にできなかった私への想いなのだと確信した。私が彼女を救う光になれたのなら、それ以上に幸福なことがあるだろうか。


「…どうかな、面白い?」


「…うん、最高。すごく、とっても!」


 顔色を窺う彼女に、私は溢れんばかりの笑顔を向けた。


「私、本当に嬉しかったんだ。誰にも気づかれずにいた私を、見つけてくれたのはゆいなだけだったから…」


 あかねは頬を林檎のように紅潮させ、照れ隠しに背を向けた。そして、ゆっくりと振り返る。満開の花が綻ぶような、汚れのない笑顔であった。


「ありがとう、ゆいな…大好きだよ!」


 その瞬間、胸の奥で何かが決壊した。抑えきれない衝動に私はつま先立ちになり、彼女の唇に、自分のそれを重ねた。


「ちゅ…っ」


「んむっ…」


 曇天の雲間から光が差し込む中、少女特有の柔らかい感触を味わう。


 男達との夜には決して得られなかった、胸を締め付けるような初恋の成就である。


「私も、大好きだよ・・・あかね!」


 キスの余韻に浸りながら、私は幸福の絶頂にいた…次の瞬間、衝撃が走るまでは。


 パチン・・・ッ!


「…え?」


 頬に焼けつくような熱と痛みが走り、視界が揺れた。呆然として前を見ると、あかねが肩を激しく上下させ、自分の手のひらを必死に擦り合わせていた。


「な…何してんのよ…!」


 彼女は涙を浮かべ、何度も、何度も、手の甲で自分の唇を拭った。


「し、信じられない…同性に、キスされちゃうなんて…」


「あ、あかね…大丈夫…?」


「触らないでよッ!」


 伸ばした手を、烈火のごとき拒絶がはね退けられた。なぜ・・・あの詩は告白ではなかったのか。私の理解が追いつかないうちに、あかねの口からどす黒い嫌悪が吐き出された。


「気持ち悪い…うぇっ、女からなんて…最悪…!」


「あかね…」


「最初っから、私の身体が目当てだったんだ。最低…!」


 嗚咽混じりで彼女はそれだけ言い捨てると、ふらつく足取りで逃げ出した。


「待って! 待ってよ、あかね!」


「ついてこないでよ!あんたなんて、絶交だよ!」


 害虫を焼き尽くすような侮蔑の視線・・・生まれて初めて、他人に底から拒絶された。それでも私は彼女を失いたくなくて、その腕を強引に掴み止めた。


「私は、本当に君のことが好きで!そんなつもりじゃなくて!」


「それが気持ち悪いって言ってるんだよッ!」


 腕を振り切ろうともがくあかねの顔が、急速に青ざめては鈍くなっていく。


「うぅ…おえぇえ…」


 彼女の口から胃袋の内容物が逆流し、廊下へぶちまけられた。涙と共に撒き散らされたそれは、今朝、私が彼女のために作ってきた弁当の成れの果てだった。


「わ、私の…お弁当…」


「げほっ、ごほっ…最っ低…」


 猛烈な吐き気に襲われながら、あかねは自らが吐き出したものを踏みにじり、階段へと向かう。


「待って、危ないよ!」


 私の声は届かなかった。吐瀉物に滑った彼女の身体が、一瞬だけ宙に浮く。


「…あっ」


 あっけない声が鼓膜を切り裂いた。重力に従い、彼女は階段を転げ落ちたのだ。


 ダン、ゴロン、ドパァン…


 生物から出ているとは思えない硬質な衝撃音が踊り場に響き、最後に不気味なほどの静寂が訪れた。


 階段の上から見下ろした先には、あかねの額から鮮血が泉のように湧き出し、床を深紅に染めていく。


「あ、あ…あ」


 その惨状を、私はただ他人事のように俯瞰することしかできなかった。


「きゃああああ!」


 下階から上がってきた女子生徒の悲鳴に、野次馬がぞろぞろと集結する。


「誰か救急車を!誰か!」


 彼女を追い詰めてしまった現実の重みが、遅れて私の胃を直撃した。


「う、うぅ…っ、あかね、あかねぇ…!」


 私は自身の吐瀉物を絞り出し、彼女へ手を伸ばしたまま意識を失った。


 次に目を覚ました病院のベッドで、私は警察に「彼女は吐瀉物で足を滑らせた事故だった」と証言した。


 事実だったけれど、決定的な真実を私は隠し通した。


 一日置いて登校した教室は、氷のように冷え切っていた。私はいつもの「甘野ゆいな」を演じようと、精一杯の声を出す。


「おっはよ〜!」


 返ってきたのは、ぎこちない沈黙と怯えを含んだ視線である。


 私の席の後ろには、あかねの不在を強調する白い花瓶が置かれていた。


「あいつ、女の子を突き落としたらしいよ」


「レズで、ずっと付きまとってたんだって」


「ファッション誌のモデルの子をかわいいって、そういう目で見てたんだ」


「男とめちゃくちゃ寝てたくせに、レズだったのかよ。感染するんじゃね?」


「やべぇ、俺ホモになるかも」


 悪意に満ちたささやきが、無数の針となって私を刺す。私は逃げるようにトイレの個室に飛び込み、残っていない胃の内容物を吐き出し続けた。


 そして、悟った。私は、もう「こちら側」にはいられない。


 あかねを殺したのは、私の傲慢な恋心だ。洗面台の鏡を睨むと、憎き女がそこにいる。


 男ウケを意識して整えた髪、かわいく着崩した制服、念入りなメイク・・・そのすべてが、あかねを追い詰めた醜悪な武器に見えた。


 私は必死に水道水で顔を洗い、漆黒の髪をかき乱した。私は、光の中にいるべき人間ではないのだ。


「ゆいなっ!」


 トイレから這い出た背後から声をかけたのは、エリだった。


「あんな奴らの話なんて気にしないで! 悪いのはあいつらだよ」


 彼女は、泥沼に沈む私を救おうと手を差し伸べてくる。けれど、その善意が何よりも痛かった。


「…いや、悪いのは私だよ。自分がおかしいことに気づかないで、あかねを追い詰めちゃったんだ」


「違うよ、一緒に帰ろう!また、私と一緒に遊ぼうよ!」


 彼女の切実な声は、もう私の心には届かない。


「…私は、もう戻れない所まで来ちゃったんだよ。エリ」


 最後に一度だけ、私はエリに微笑みを見せた。


「今までありがとう。……もう、話しかけないで」


 その日を境に、私の姿が他人の目に映ることはなくなった。影の中に身を潜め、二度と誰をも光の矢で射抜かないよう、私はただ、消えていくことを選んだ。


 曇天の空を、見上げ続けるのを私は選んだのだ。

作者の『月雲とすず』です!

ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

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次回も、お楽しみください!

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