第二三話 バレンタイン
二月十四日は、私からすればただの平日だ。しかし世間では、この日をバレンタインデーと呼ぶらしい。恋仲やお気に入りの相手にお菓子を押しつける行事だが、その騒がしい波はここ蜂ヶ海学園にも容赦なく押し寄せていた。
「犀川先輩っ!受け取ってください!」
「先輩、私のもお願いします!」
「こ、困っちゃうなぁ…!みんな、落ち着いてぇ~!」
登校してすぐに昇降口で目に入ったのは、大勢の女子生徒に囲まれて裸眼を白黒させている犀川先輩の姿だった。パパラッチに追い詰められた芸能人のように、彼女は次々と差し出される紙袋や小包の山に埋もれている。
「けっ…女同士でチョコ送りあって、何が楽しいんだか」
「だよな。俺たちにも少しは慈悲が欲しいぜ」
背後から男子たちの妬ましい声が聞こえてきた。かつては女子が意中の男子に渡すのが主流だったらしいが、今のトレンドは友チョコ文化なのだという。
気になる男子も、馴れ合う女友達もいない私にとっては、月面の出来事くらい無関係な話だ。
捕食される直前の小動物のように先輩の目が回りだした頃、暴走する女子たちの間に、制止するように姫山先輩が割って入った。
「こら!あやみが困ってるでしょ。一気に押し寄せるんじゃなくて、時間を分けて渡しに来なさい!」
「姫山さん…それ、解決になってないよぉ」
姫山先輩の背中に隠れて身を縮める犀川先輩。周囲の女子たちが気まずそうに口を閉ざしたのも束の間、先頭にいた一人が新たな紙袋を姫山先輩へと差し出した。
「じ、実は…姫山先輩の分も、あるんです!」
「えっ…?わ、私にまで?」
まさか、犀川先輩だけでなく姫山先輩までもがターゲットだったとは。緊張の糸が切れると、他の女子たちも次々と彼女へ迫り出した。
「私も、姫山先輩に!」「私のも受け取ってください!」
標的は変わり、今度は大量の包みに埋もれる姫山先輩。それを犀川先輩が、呆然とした顔で見つめている。
「こ、こんなに…!?どうしよう、あやみぃ…」
「ミイラ取りがミイラになっちゃったね…」
止むことのない猛攻に満身創痍の先輩たちを尻目に、私は関わりを避けるように教室へ歩き出した。
「人気だね、彼女たちは」
背後から声をかけてきたのは、靴箱の陰で待ち伏せていた白崎先輩だった。彼は周囲の熱い視線を涼しい顔で受け流しながら、私の肩に腕を回す。
「何言ってるんですか。白崎先輩だって、山ほど貰っているんでしょう?」
「いいや。僕の本番は、放課後だからね」
「あ…そうですか」
午前中の主役はあの二人で、午後はこの男に女子生徒が群がるというわけか。正真正銘のハーレム状態に微かな嫌悪を覚えるが、白崎先輩は私の体を離してくれない。
「そろそろ離してください。教室に行かないと」
「渡さないのかい? その包み」
彼が指さしたのは、私が握りしめている紙袋だった。なかには、今朝焼いてきたクッキーが入っている。
日頃の感謝として犀川先輩に渡そうと考えたもので、決してバレンタインに便乗したわけではない。あくまで弁当のデザートとして持ってきたのだ。
「今は、受け取ってもらえる状況じゃありません。また、機会ができたら渡します」
「僕は、早めに渡す方がいいと思うけどね」
癪に障る捨て台詞を残し、神々しいオーラを振りまきながら彼は去っていった。チョコレートの山に押しつぶされてしまえばいいのに・・・そう毒づきながら、私は教室を目指した。
休み時間、私は二年生のフロアを訪れた。教室を覗くと、犀川先輩は後ろのスペースで級友達と談笑していた。
「せ、先輩っ!」
私の声が届いたのか、彼女がこちらを向こうとした瞬間、教室内に個包装の菓子が舞った。
「ほら犀川、チョコだ!持っていけ!」
「んもぉー!こんなに食べきれませんよぉ!」
宙に舞う菓子を器用に抱え込んだ先輩が、いたずらっぽく笑う級友たちに頬を膨らませている。
後輩だけでなく、同級生からもこれほど慕われているのだ。私がわざわざ届けなくても、彼女の周りは甘いお菓子で溢れている。
私は紙袋の取っ手を強く握りしめ、自分の教室へと引き返した。廊下の道のりが、普段よりも長く、寂しく感じられた。
しばらくして昼休み、いつもの屋上への階段に向かう。
しかし、いつもなら既に到着しているはずの先輩の姿はなかった。二つの弁当箱と紙袋を抱えたまま、私は途方に暮れる。
『生徒会役員に連絡です。至急、会議室に集合してください』
校内放送から、無機質につばめ先生の声が流れた。議題が何であれ、彼女がここへ来られないという明確な拒絶の知らせだった。
私は片方の弁当と紙袋をそっと脇に置き、一人で静かに弁当箱を開けた。
授業終わりの放課後、緊急会議の影響か今日の部活動はオフとなった。
気づけば、私は再び彼女の教室へと向かっていた。遠目から様子を伺うと、ようやく生徒達が帰り始め、静かになった教室に、大量の荷物を抱えて苦しそうにしている犀川先輩がいた。
「うわぁ、すごい荷物だね。それ全部チョコ?」
「はい…もう一つたりとも持てません。これ以上は断るしかないですね」
級友と話すその言葉を聞いて、私は足を止めた。
そうだ・・・彼女は私が手を伸ばさずとも、自然と愛が集まってくるような人だ。私なんかが、釣り合うはずもなかったのだ。
いつも世話を焼いてもらっているからと、勘違いして得意げにクッキーを焼いてくるなんて・・・自分勝手な行動が、急に気味悪く思えた。
それに、白崎先輩の言う通りにもっと早く渡しておけば、彼女の負担を増やさずに済んだのかもしれないのに。
私は逃げ出すように教室を去り、昇降口へと辿り着いた。手元には、渡し損ねた紙袋が風に揺れている。
今朝、味見のために散々食べたクッキーのため、もう自分で食べる気にもなれない。いっそ、帰り道の川にでも捨ててしまおうか。
そんなことを考えていた時、不意に肩に手が置かれた。
「何してるの、甘野さん」
驚いて振り返ると、そこには両腕に紙袋を提げた姫山先輩が立っていた。
「…帰るんです。さようなら、姫山先輩」
ぶっきらぼうに告げて歩き出そうとすると、背後から深いため息が聞こえた。
「それ…渡さなくていいの?彼女に」
その一言に、足が止まる。どうして誰も彼も、このありふれた紙袋を気にするのだろう。これではまるで、私が先輩を好きみたいではないか。
「…ええ。私の手土産なんて、ただの荷物になるだけですから」
「じゃあ、何であの子は校舎裏で一人でいるの?誰かを待ってるんだと思ってたけれど」
その言葉に心臓が跳ねると、途端にスマホが震えた。恐る恐る画面を見ると、短いメッセージが書かれている。
『校舎裏に来てほしい』
私は、そのまま走り出していた。姫山先輩が呆れたような、それでいてどこか楽しげな様子で手を振るのが見えた。
高等部の校舎裏、影の落ちた地面を駆けていくと、見慣れた姿がそこにあった。
「あ、ゆいな!遅いよ、待ちくたびれちゃった」
両腕に紙袋を抱え、少しだけずれた伊達メガネを掛けた犀川先輩が、そこに立っていた。
「な、何ですか…先輩。ご用件は」
「なに、ちょっと冷たくない?…まあいいや。待ってて!」
先輩は重そうな荷物を器用にさばき、上着のポケットをまさぐった。そして、丁寧なラッピングが施された、ハート型のチョコレートを私に差し出した。
「はい、バレンタインのチョコ」
私は首を傾げながら、手渡されたそれを見つめた。
「…あ、わかりました。食べきれないからお裾分けですね。ありがとうございます、いただきます」
「違うよっ!」
静かな校舎裏に先輩の声が響くと、彼女は心なしか耳まで赤くして、手元の紙袋で口元を隠しながら呟いた。
「私からの、バレンタイン・・・食べてほしいな、ゆいなに」
「…本気、ですか?」
「嘘つくわけないでしょ。いつもお世話になってるお礼。特別だよ」
にわかには信じられなかった。手の中には、犀川あやみから渡された、たった一つのチョコレート。それは学園中の男子が喉から手が出るほど欲しがった、何よりも価値のある贈り物だ。
それを大切に仕舞おうとすると、先輩は悪戯っぽく私の顔を覗き込んできた。
「もしかして…ゆいなからは、何もないのかな?」
「あ…」
代価を求められるとは思っていなかったが、丁度いい代物を私は持っているではないか。
「こ、これ…チョコじゃないですけど、クッキーです。チョコはいっぱい貰うだろうなと思ったので」
「うわぁ…!ゆいなの手作り?嬉しい!」
先輩の目が、宝石のように輝いたけれど、彼女の両手にはそれを握る余地など、どこにもなかった。
「でも…その荷物じゃ、持てませんよね。やっぱり今度…」
「そうだね。指一本分も空いてないや」
やはり、渡せないのか・・・そう肩を落とした瞬間、先輩は驚くべき行動に出た。
「ん、あ・・・っ」
彼女は少しだけ腰を屈め、私の目の前で、あんぐりと口を開けたのだ。
「…えっ?」
「持てないから、今食べる。食べさせて?」
まぶたを閉じ、味覚だけに集中しようとするその無防備な姿だった。
湿り気を帯びた紅い舌先と、白い歯。艶やかな唇に喉奥に溜まった唾液・・・誘うようにわずかに動くその様子に、頭に血が上る。
何か、いけない遊びをしているような背徳感に襲われながら、私は紙袋を破ってクッキーを一枚、彼女の口へと滑り込ませた。
「…んっ、おいしいっ!」
噛み締めるその表情を見て、ようやく私の強張っていた心も解けていく。
「こんなところで何をしているの? 下品じゃない」
その光景を見届けていたのは、やはり姫山先輩だった。犀川先輩は平然とポケットから別の包みを取り出し、姫山先輩へと投げる。
「ちぐさったら真面目なんだから。ほら、これはちぐさの分」
彼女が受け取ったのは、私と同様のラッピングをされたホワイトチョコレートだった。
「…嬉しくはないけれど、一応貰っておくわ。私は何も用意してないからね」
そう言いながらも、姫山先輩はそれを丁寧にバッグへ仕舞った。
「ほら、二人とも早く帰りなさい。もう日が暮れるわよ」
気づけば茜空は紫へと混ざり、夜の足音が聞こえていた。祖父が待っていることを心配して、私は背中を彼女達に見せる。
「は、はい!さようなら!」
逃げるように校舎裏を後にすると、後ろから次のようなやり取りが聞こえてきた。
「ちぐさぁ、荷物持ってよぉ」
「嫌よ、自分の人気を呪いなさい」
彼女達の漫才を背景に昇降口を出ると、目の前から箱の山が歩いてきた。
「あれ、甘野さんじゃないか」
その声で、目の前の妖怪が白崎先輩だと気づいた。犀川先輩とは比にならないほどのチョコレートの壁に、彼は埋もれていた。
「白崎先輩…ものすごい荷物ですね。あの二人とは比にならないくらい」
「いやぁ、困っちゃうよね。でも、良かったじゃないか。甘野さんも、チョコを貰えて」
「ええ…。まあ、たった一つだけですけどね」
「一つ…?」
彼は私の言葉を復唱し、すべてを理解したように満足げに笑った。
「そうか…君は、罪な女だね」
「どういう意味ですか」
「いいや、何でもないさ。気をつけて帰るんだよ」
足早に自宅へ戻った後、自室で制服を脱いだ。ポケットから顔を出したのは、犀川先輩からのチョコレートだ。
夕食前だというのに、我慢できずにラッピングを解いた。犀川先輩の心臓をそのまま取り出したような、綺麗なハート型に私は歯を立てた。
「…苦い」
口の中に広がったのは、深いコクとほろ苦さだった。コーヒーや紅茶を好む私の味覚に、ぴたりと寄り添う風味である。
その奥に潜むかすかな甘みに身を委ねながら、私は椅子の背もたれに深く体重を預ける。
窓の外では薄紫の空に、孤独な三日月が静かに光っていた。
作者の『月雲とすず』です!
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!
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次回も、お楽しみください!




