第二一話 風邪
ぼんやりと霞む自室の風景の中で、私はまち針を飲み込んだような不快感に苛まれていた。
「けほっ…、けほっ…」
咳き込む私の隣では、祖父が鳴り響く体温計の数値を、近視の目を凝らして確認している。後頭部を鈍器で打ち付けられたような鈍い衝撃・・・こめかみに手を当てると、沸騰したやかんに触れたかのように熱かった。
「こりゃあ、ひどい風邪だ。今日は学校を休みなさい」
「ごめん、おじいちゃん…」
昨日、運悪く誰かに傘を盗まれ、あの大雨に打たれたのが原因だろう。犀川先輩とラブホテルに駆け込んで暖を取ったはいいが、病原菌の侵入の方が一足早かったらしい。
自分のものであることを疑いたくなるほど重い上半身をどうにか持ち上げると、祖父は腕時計を眺めながら顔をしかめた。
「私もそばにいてやりたいが、今日は役所に行かなきゃならん。一人で留守番、できるかい?」
「けほっ、うん…大丈夫。薬も、飲んだし」
枕元には空のコップと、中身のない錠剤のシートが散らばっている。唯一の家族である祖父に風邪をうつすわけにはいかない。
「それじゃあ、しっかり休むんだよ。米は炊いてあるからね」
祖父はキッチンを指差し、上着を羽織って部屋を後にした。
「いってらっしゃい……」
掠れた声が届いたかは定かではない。カチャリ、と玄関の鍵が閉まる無機質な音だけが、今の私に残された唯一の繋がりだった。
一人きりの自宅では、換気扇の回転音や給湯器の低いうなり、そのすべてが頭痛を加速させた。私はたまらず毛布を頭まで被り、母胎へ帰るように身を丸くする。
普通の学生なら休校は幸運かもしれないが、私のような影の薄い人間は一日休むだけで、担任のつばめ先生にさえ存在を忘れられそうで生きた心地がしない。
何より、気になるのは昨日のことだ。意識を朦朧とさせるほど美しかった、あの犀川先輩の姿。……先輩に、うつしてないといいな。
連絡が来ているかもと淡い期待を抱いてスマホを見るが、通知は一つもなかった。期待した自分が馬鹿らしくなり、私は自らの二酸化炭素で満たされた毛布の暗闇を見つめた。
「…お腹、すいた」
回復のためには食べねばならない。這い出るように身体を起こすと、視界がぐにゃりと歪む。平衡感覚を必死に繋ぎ止め、要塞へ潜り込むスパイのような姿勢でキッチンへ向かった。
期待を込めて冷蔵庫を開ける。だが、そこに広がっていたのは虚無だった。
「なにも…ないじゃん」
肉も野菜もなく、どこの家庭にもあるはずの卵ポケットまで、空腹に耐えかねて口を開けている。私は絶望と共に冷蔵庫を閉め、すがるように炊飯器を開けた。白米はあったが、それを茶碗に盛る気力さえ今の私には残されていなかった。
結局、一杯の水道水で腹を誤魔化し、ベッドへ逆戻りする。
訪れない眠気を咳と頭痛のハイブリッドと共に待ち続けていると、いつの間にか夕暮れの市内放送が鳴り響いた。窓の外は、どろりとした茜色に染まっている。毛布の中がタイムマシンにでもなったのだろうか。
空腹で胃袋は伸縮し、喉にはハリセンボンの大群が棲みついている。震える手で首筋に触れると、あまりの熱さに指先が跳ねた。
その、玄関の蝶番が控えめな音を立てた。祖父が帰ってきたのだろうか・・・足音が近づき、私の部屋の扉がそろりと開く。
「おかえり、なさい…」
靄がかかった視界の先、浮かび上がったシルエットは、腰の曲がった祖父のものではなかった。
「ゆいな、大丈夫…?」
「さ、犀川…先輩?」
夢でも見ているのだろうか。廊下に立っていたのは、制服姿でメガネを少しずらした犀川先輩だった。乱れた衣類と額の汗・・・学校からここまで、猛烈に走ってきてくれたのだろうか。
「ごめんね、ゆいな。昨日、私があんなことさせちゃったから…」
先輩は手に持っていた買い物袋を床に落とし、私の元へ駆け寄ってきた。今にも泣き出しそうな彼女に風邪をうつさぬよう、私は慌てて腕を伸ばして距離を取る。
「だ、大丈夫です、先輩…ただの熱ですから。明日にはお弁当、作って行きますし」
「お弁当なんてどうでもいいよ! まずは治さなきゃ!」
無理に作った冗談も、今の彼女には届かないようだ。その時、空気を読まない私の胃袋が情けなく鳴り響くと、先輩は心底沈んだ表情で私を覗き込む。
「ご飯、食べてないの?」
「…冷蔵庫が、空っぽで。卵くらいはあると思ったんですけど」
「じゃあ、買ってきて正解だったね」
先輩は廊下の袋から、私がいつも使っているスーパーの卵を取り出した。
「あと、解熱剤と、スポーツドリンクと、ゼリーと、それから…」
四次元ポケットのように次々と現れる品物達。それを見ているだけで、凶暴な空腹が私を襲った。
「よし、私が何か作ってあげる。お米はあるよね?」
先輩の手を煩わせるのは申し訳なかったが、今の私には彼女の優しさにすがることしかできなかった。
遠ざかる意識の手綱を必死に掴んでいると、しばらくして湯気を立てるお盆を持って先輩が戻ってきた。
「はい、どうぞ。卵雑炊」
黄金色に輝く卵が白米を包み込み、出汁に浮かぶネギが鮮やかな彩りを添えている。しかし、ネギなど冷蔵庫にはなかったはずだ。
「あの、ネギって…?」
「買ってきたんだよ。さあ、熱いうちに食べて」
先輩はどこまで気が回る人なのだろう。差し出されたレンゲで一口運ぶと、優しい味が身体の芯まで染み渡った。
「…おいしい、です」
「よかったぁ…」
完食する頃には、薬のおかげか、熱が少し引いていくのを感じた。
「でも、汗がすごいね。シャワーだけでも浴びてきたら?」
「そうですね…家族が帰る前に済ませちゃいます」
「じゃあ、私も付き合ってあげる」
突拍子の無い提案に、私は重たい頭を横に振る。先輩はさらりと、とんでもないことを言い放ったのだ。
「えっ、いえ!それは申し訳ないですし、うつしちゃいます!」
「だーめ。浴室で倒れたら危ないでしょ?私、ちゃんとマスクしてるから」
有無を言わせぬ力強さで、先輩は私の腕を抱えて脱衣所へと引きずっていった。鏡に映った自分の顔は山火事のように赤い。これが熱のせいだけではないことは、自分でも分かっていた。
脱衣を手伝われる屈辱と高揚感に耐えながら、湯気の立ち込める浴室へ入る。冷えた身体にシャワーの熱が降り注ぎ、思わず声を漏らすと、先輩が優しく背中を撫でてくれた。
「温度、大丈夫?」
「はい…気持ちいい、です…」
先輩の介抱を受けながら髪を濡らし、シャンプーのポンプを押すが、なんと空振りした。
「あ、シャンプー切らしてた……」
「はい、これ!」
背後から差し出されたのは、私が愛用しているシャンプーの新品ボトルだった。
「え…なんで、これだって分かったんですか?」
「前に教えてくれたじゃん。おすすめのシャンプー聞いた時」
そんな会話、しただろうか。朦朧とする記憶を辿るが思い出せないけれど、先輩がそう言うなら、きっとそうなのだろう。
先輩に髪を洗ってもらい、バスタオルで全身を包まれる。至れり尽くせりの介護に、私は自分の不甲斐なさを噛みしめた。
「ありがとうございました。何から何まで…」
「いいんだよ。可愛い後輩のためだもん。困ったら、いつでも助けてあげる」
ベッドに戻り、先輩が私の額にそっと手を当てる。熱はすっかり下がり、喉の痛みも嘘のように消えていた。明日には、また学校で先輩にお弁当を渡せるだろう。
「それじゃあ、ゆいな! お大事にね!」
先輩は嵐のように去ると、その背中に私は精一杯の声を送った。
「…はい! また明日!」
玄関の閉まる音と共に静寂が戻ると、私のスマホに連続して通知が届いた。
「姫山先輩…白崎先輩まで?」
メッセージはどれも私の体調を案じるものだった。学園に来ていないことを心配する内容であったが、犀川先輩が彼らに言いふらしたのだろう。
先輩たちの優しさに身を預けていると、遠くで祖父の帰宅する声が聞こえた。
作者の『月雲とすず』です!
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