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第二十話 大人の世界

 暖色の照明が、剥き出しの私達を包み込むガラス張りの浴室。備え付けの洗濯機に衣服をすべて放り込んだ犀川先輩は、目の前で忙しなく沸騰する浴槽を見て、子供のように目を輝かせていた。


「うわぁっ、すごいよ、ゆいな!ジャグジーだよ、ジャグジー!」


「あまりはしゃがないでください。滑って転びますよ」


 私は跳ね回る先輩を直視するのをためらった。濡れたタイルと裸足が擦れ合う音に連動して、彼女の豊かな双丘が揺れる。それが、まるで私の胸を直接なで回しているかのような錯覚に陥ったからだ。


 以前、銭湯で入浴を共にした際はつばめ先生や他の客の目があったが、二人きりの密室となれば話は別だ。思春期の制御の利かない、よこしまな心が暴走を始めていた。

 

 不埒な思考を振り払おうと奮闘していると、先輩はシャワー脇の棚に並んだボトル群を不思議そうに吟味し始めた。


「へぇ…さすがラブホテル。シャンプーの種類が多すぎて、どれがどれだかわかんないや」


 兵隊のように整列したボトルを見て彼女がこぼすと、私はそれらを指差して解説を加えた。

「その赤いのがシャンプーで、隣がコンディショナー、リンス。端にあるのがボディソープです。…下の段にあるローションや潤滑油は、無視してください」


 淀みなく説明した私に対し、先輩はきょとんとした後にいたずらな笑みを浮かべた。


「へぇ…ゆいなって、意外とそういうのも物知りなんだねぇ?」



「や、やめてください! 人をいやらしいみたいに!」


 顔を赤らめる私を横目に、先輩はバスチェアに私を促すとタオルを取った。


「ほら、背中流してあげるよ」


「せ、先輩! 少しは躊躇というものを…っ」


 抗議も虚しく、背中に柔らかな泡が押し当てられる。突然の感触に肩を震わせたが、徐々に肌に馴染んでいく感覚に抗う力は削がれていった。


「やっぱり、ゆいなの肌は綺麗だね。ちゃんと手入れされてるのがわかるよ」


 泡を広げながら、先輩の指先が私の無防備な肌を愛でるように滑る。滅多にない直球の称賛に、私は気恥ずかしさを隠すように顔をしかめた。


「まぁ…それなりには。先輩には及びませんけど」



「何言ってんの。お肌の手入れを教えてくれたのは、ゆいなでしょ?」


 絹のように艶やかで、見る者を惑わす魔性の肌。それを育てたのが自分だと言われ、遠い記憶の断片が蘇る。おしゃれに背伸びを始めた小学生の頃、私が得意げに知識を披露したことがあったような、なかったような。


「…そうでしたっけ」


 追憶に浸っていると、不意にシャワーの飛沫が泡をさらっていく。そわそわとした様子の先輩が、私の顔をのぞき込んできた。


「よし! 次は私の番!」


 期待に満ちた瞳に押されるように、私はタオルを受け取って立ち上がった。


「わかりました。後ろを向いてください」


 言われるがまま、鼻歌交じりに椅子へ座る先輩。私も腰を落とし、ボディソープを足して彼女の背筋をなぞった。鏡越しに映る彼女が、小さく吐息を漏らす。


「う~ん…気持ちいいよ、ゆいな…っ」


 恍惚の表情であえぐ彼女に対し、私は少し強めにタオルを押し当てた。大げさな声を上げられると、こちらの健全が保てなくなる。


「変な声を出さないでください。こっちまで…変な気分になります」


「えぇ?私は、ゆいなだったら…何をされても許しちゃうなぁ」


 鏡越しに魅惑的な視線を送る先輩の背中に、私は風呂桶に溜めた湯を無慈悲に浴びせた。


「はい、おしまいです」


「あ、あっつい!ゆいなのバカ!」


 騒ぐ先輩をいなし、シャンプーを済ませてようやく湯船へ向かう。


 足裏を刺激するバブルの勢いに、私も思わず吐息を漏らしてしまった。それも、立派な果実を冬至の柚子のごとく浮かべる先輩の目の前で。


 銭湯では横並びだったが、この対面式の配置は酷である。彼女の肌の質感が、逃げ場のない視界を支配してくるのだ。


 肩まで浸かると、不意に彼女のしなやかな美脚が、私の棒切れのような脚に絡みついてきた。これがサキュバスの甘い夢でないことを確認するように意識を保とうとするが、先輩はさらに距離を詰めてくる。


「せ、先輩…近いです。のぼせちゃいますって」


「え~?でも、このお風呂けっこう窮屈だしな~」


 彼女は自身の肢体を見せつけるように、大胆に伸びをした。汗か湯水か判別できない滴が私の鼻先に跳ね、私はたまらず膝を抱え込んで身を縮めた。しかしその膝に、狙いすましたかのように彼女の胸が密着する。


「も、もう…さっきから当たってるんですよ」



「それは、慣れてほしいな」


「慣れませんよ!」


 羞恥心が限界に達しようとしたその時、先輩は唐突に胸を張って堂々と言い放った。


「よ~し、わかった!じゃあ、私の胸を揉んでみなさい!」


「い、いきなり何を…!」


 怪しげに揺れる照明の下で彼女は自慢の膨らみを、ずいっと私の顔へと近づける。理性が崩壊するのを面白がっているようなその瞳に、私は意地になって目を背けた。


「慣れるには実践が一番でしょ?ほら、どうぞ!」


「…もう、知りませんからね!」


 観念した私は、なかば自棄になって彼女の胸に手のひらを埋めた。


 すべてを受け入れるマシュマロのような包容力と、少女特有の弾力が伝わってくる。もし自分の性別が違っていたら、理性なんてものは遠くに置き去ってしまうであろう。


「ど、どうですか…?」


 喉を鳴らして顔色を伺うと、先輩は意外にも真剣な顔で自分の胸を見つめていた。


「う~ん、くすぐったい」


「…それだけ、ですか?」


「うん。ただ身体を掴まれてるだけだし」


 期待したような反応は返ってこなかった。男子諸君に忠告したい・・・幻想を抱きすぎると、現実はかくも呆気ないものだと。


「はいっ!おしまいです!」


 手を離した瞬間、今度は先輩が身を乗り出した。


「ふ~ん。じゃあ次は、ゆいなの番だね!」


「え…ひゃあっ!?」

  

 不意に指先が私の胸に触れ、私は悲鳴に近い声を上げて彼女の手を拒絶した。


「や、やめてください!セクハラです!」


「他人のを揉んだんだから、我慢しなさい!」


「当たり屋みたいなこと言わないでください!」


 しばらくの間、私の身体は彼女の玩具と化した。皮と骨、申し訳程度の贅肉しかないこの身体を弄って何が楽しいのか。


 私の我慢が限界を迎える直前、満足したらしい先輩は再び湯船に身を沈めた。


「…というか、そのメガネ。ずっと掛けてるつもりですか?銭湯の時は外していたのに」


 湯気で結露した伊達メガネに言及する。背中を流している時も、胸を揉み合っていた時も、彼女は常にそのレンズ越しに私を見ていた。


「私はね、ゆいなの前ではできる限りこれを着けていたいんだ。これが、私と君を繋いでくれている気がするから」


「…ふふっ、なんですかそれ」


 突拍子もない答えに笑みがこぼれると、先輩は私の隣に肩を預けてきた。ジャグジーのスイッチを切り静まり返った湯船の中で、私達はただ身体の芯を温め続けた。


 脱衣所で髪を乾かし、バスローブを羽織る。ガラス戸の向こう、浴室ではまだ先輩が一人でジャグジーを楽しんでいるようだった。


 髪を乾かし切った私はビデオ観賞用のモニターの下にある冷蔵庫に手を伸ばす。冷やされていたのは天然水と緑茶だった。


 ここの緑茶は口に合わないので、片方の天然水を取り出して渇いた喉を潤す。


「はぁ…疲れちゃった。少し、ベッドで休もう」


 吸い込まれるようなキングサイズのベッドに腰掛けようとしたその時、重厚な扉が開くと共に大量の湯気が部屋へと流れ出した。


 見れば犀川先輩が覚束ない足取りで、壁を頼りにこちらへ歩いてくる。


「せ、先輩!? どうしました?」


 濡れた髪から雫を零しながら、彼女は倒れ込むように私の肩に顎を乗せた。私は慌てて、自分の首に掛けていたタオルで彼女の濡れた黒髪を包み込んむ。


「なんか…のぼせちゃったみたい。頭がクラクラする…」


 とろんとした目でしがみついてくる彼女に、私は深いため息を吐いた。あれほど釘を刺したのに。


「もう…長風呂するからですよ。ほら、水飲んでください」


 動けない彼女の唇に、飲みかけのボトルをそっと当てる。喉を鳴らして水を飲んだ彼女を確認し、私も一口だけ口に含んでから雫まみれの窓を見上げた。


「雨、止まないですね。いつ出ましょうか」


「もう少し弱まってからにしよう。私は…ちょっと横になるよ」


 はだけたバスローブのまま、彼女は吸い込まれるようにベッドの中へ潜り込んだ。私は荷物から引っ張り出したスマホで、雨雲レーダーを確認する。


「雨が弱まるのは…二時間後、ですか」


 その頃にはもう、月が昇っているだろう。打ち付ける雨音を背景に、私は仰向けになった先輩の寝顔を眺めた。


「綺麗な寝顔…。この人、本当に不用心なんだから」


 童話のオーロラ姫のような無垢な美貌だ。しかし、場所のせいか、どこか川端康成の眠れる美女のごとく退廃的な色気すら感じさせる。


 湧き上がる感情を必死に抑え込もうとしたその時、不意に冷たい腕が私の首に回された。


「えっ、ちょ…っ!」


強引にシーツの上へと引き寄せられ、私の心臓が跳ねる。


「せ、先輩! 寝ぼけてるんですか!?」


 またからかわれているのかと彼女を押し戻そうとしたが、触れた肌の冷たさに言葉を失った。


 熱を奪われた彼女は、私の瞳をじっと見つめると、あの保健室の時のように私を抱きしめた。


「ゆいな…側にいて」


「…わかりました」


 不安な夢でも見たのだろうか。私は年の離れた姉妹をあやすように、その濡れた髪を優しく撫で、胸を貸した。


 窓を叩く雨の音は止む気配を見せず、ただ激しく降り続いていた。

作者の『月雲とすず』です!

ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

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次回も、お楽しみください!


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