第十九話 大雨
まだ冬の刺すような寒さが残る登校中、私は杖代わりに傘を突きながら、鈍色の空の下を学園へと向かっていた。
「おっはよー!ゆいな」
背後から飛んできた弾むような声に振り返ると、犀川先輩が大きく手を振りながら駆け寄ってくるところだった。おそらく、つばめ先生の車に乗り遅れたのだろう。
「おはようございます、犀川先輩。今日は徒歩ですか?」
「うんっ!…て、あれ?なんで傘持ってるの。こんなに晴れてるのに」
先輩が私の持つ傘を指さして、不思議そうに首を傾げた。私は家族から強引に持たされたその傘を、少し気恥ずかしくなって弧を描くように掲げてみせる。
「家族が、今日は雨が降りそうだからってうるさくて。変ですよね、予報では降水確率ゼロの晴天なのに」
アスファルトを白く焼くような冬の太陽を見上げ、私は手元の重い傘を眺めた。すると先輩は、空の向こうを覗き込むようにして悪戯っぽく口を開く。
「ふ~ん。案外、年の功ってやつじゃない?もしかしたら、記録的な大雨になったりして」
「まさか」
けれど、無事に授業を終えた放課後。
外は何処からか漂流してきた黒雲に覆われ、まるでバスタブをひっくり返したような猛烈な雨が降り注いでいた。
「…そのまさかでしたね」
屋根を叩く暴力的な水音に耳を塞ぎたくなっていると、隣でスマホを操作していた先輩が、困ったように眉根を寄せた。
「うぇ〜、どうしよう。ママ、今日は職員会議で遅くなるって。お迎え無理だってさ」
唯一の希望だったつばめ先生による送迎は絶望的だった。正門前のバス停を遠目に確認したが、家の方へ向かう路線は期待できそうにない。タクシーを呼ぶ術もなく、私たちは校舎の軒先で途方に暮れていた。
「夜まで止みそうにありませんし…早めに帰宅した方が吉ですよ」
「でも私、傘持ってないよぉ」
不安げな顔をする先輩に、私は少しだけ得意げに傘立てを指さした。そこには今朝、私が預けた傘が主人の帰りを待っているはずだ。
「安心してください。私の傘に入れれば問題ありません」
「ふーん、相合傘ってやつ?ゆいなってば、意外と策士なんだね」
先輩がお決まりの小悪魔的な笑みを浮かべた。近頃は見せてくれなかった表情に、懐かしさを通り越して、胸の奥が少しだけ騒がしくなる。
「からかわないでください。…それに、どうせ周囲の人に私の姿は見えませんし」
相合傘という事実自体は変わらないが、周囲の目に私の姿は映らない。先輩が持つ傘の中に入れば、変な噂も立たず雨にも濡れないだろう。
自信満々で傘立てに向かった私だったが、その光景を前にして血の気が引いた。
「な、ない……」
確かに刺したはずの私の傘が、どこにも見当たらないのだ。空っぽの隙間が、ただ重苦しい空気を受け止めている。
「無いです…私の、傘が…!」
「あーあ、パクられちゃったかもね」
私はどこまで運が悪いんだろう。存在感のない私の私物は、目を離した隙に世界から消えてしまう運命なのだろうか。お気に入りだったこともあり、私は目に見えて肩を落とした。
「どうしましょう…これで正真正銘、閉じ込められてしまいました」
「そんな悲観的にならないで!私に良い考えがあるから」
目の前で雨の雫が激しくタップダンスを踊る中で先輩は不敵に、ニヒルに笑った。
戦略家の先輩が提案するのだ。一体どんな名案が飛び出すのかと期待したが、それはあまりに原始的なものだった。
「ほら、ゆいな!走るよっ!」
私たちは、怒り狂った巨人が泣き叫ぶような豪雨の中へ一目散に飛び出した。
雨天の帰宅方法が、ただ全速力で走るという古典的な根性論だとは思わなかった。文鎮を落としたような重い水滴が、ムチのように身体を打ち付ける。
「い、良い考えって…ただ走るだけじゃないですか…!」
「走る方が濡れる確率が減るって、テレビで東大生が言ってたもん!」
「この豪雨じゃ関係ないですよ!」
走っても走っても、服は水を吸い、髪は顔に張り付く。私は半ばやけくそになって、前を行く先輩の背中を追いかけた。
地面から立ち上るアスファルトの匂い、ペトリコールが鼻を突く。そのかすかな隙間に、先輩のものだろうか、甘い柔軟剤の香りが混じって鼻腔をくすぐった。
水を吸った制服が、彼女の身体の曲線を露骨に浮き彫りにしていた。少しだけ、毒々しいほどの色気を感じてしまう。水も滴るとは、彼女のためにある言葉なのかもしれない。
「先輩、さすがに、もう…」
雨の重みを全身に背負った私は、ついに体力の限界を迎えた。膝から崩れ落ちると、泥が制服に付着する不快感が追い打ちをかける。呼吸が乱れて肩で息をする私を見て、先輩は困ったように周囲を見渡した。
「うーん…仕方ない。どっかで雨宿りしよっか」
「でも、ここは住宅街ですよ?入れるお店なんて…」
見渡す限り背の低い一軒家が密集していて、雨を凌げるような高い建物も見当たらない。震えが止まらない。冬の風が容赦なく体温を奪っていく中、先輩が私の手を強く引いた。
「任せて。いい場所知ってるから」
衣類が足枷のように重くなり、私達の足取りは鈍る。肌に張り付くシャツの冷たさに耐えながら先輩が立ち止まったのは、ある建物の前だった。
そこは私にとっても見覚えのある、鮮やかな桃色のペンキで彩られたビルである。
「せ、先輩…ここって…」
「うん、休憩する場所だよ!」
ネオンサインが雨の中に溶け出し、掲げられた料金表が怪しく光る。窓から漏れる暖色系の光は、あまりにも温かそうで、同時に私の胸を激しくかき乱した。
「ラ、ラブホテルじゃないですかぁ…っ!」
誘導された場所は、まごうことなき大人たちの聖域だった。猥雑な空気が漂う建物を前に、先輩はただ涼やかに微笑んでいる。彼女は腰が引けている私の手を力強く引き、そのままエントランスへと踏み込んだ。
ロビーのパネルを目を泳がせながら操作した先輩は、受付の女性から鍵を受け取ると、戸惑う私を連れて足早に廊下を進む。
たどり着いた部屋は、芳醇なフレグランスが満ちる、上品かつ艶めかしい空間だった。
「うわぁ…綺麗な部屋。もっとレトロなイメージあったけど」
「最高級の部屋をサービスしてくれましたからね。…受付のお姉さん、私たちが連れ立って入るのを見て、すごくニヤニヤしてましたけど」
ここはホテルの中でもグレードの高い部屋で、アメニティも充実している。受付の女性が向けた「頑張って」という無言の眼差しを思い出し、私は顔から火が出そうになった。
「というか、年齢確認とかされないんだね。冗談のつもりで入ったのに」
「ここはチェックが緩いって有名ですよ。ほら、学生もよく利用するって聞きますし」
現に駐車場には、他校のステッカーが貼られた自転車や、若者の原付が並んでいた。ここは大人たちの憩いの場であると同時に、血気盛んな少年少女たちの社交場でもあるのだ。あまり大きな声では言えないけれど。
「じゃあ、一旦お風呂入ろっか。このままじゃ風邪引いちゃう」
そう言って先輩が上着を脱ぐと、飛沫と共に濡れたワイシャツの向こう側の繊細なランジェリーの輪郭が浮かび上がった。惜しげもなくさらけ出された白い肌に、私は慌てて目を伏せる。
「そうですね。先輩、お先にどうぞ。私はエアコンをつけて待ってますから」
照れ隠しに、私はテーブルに並ぶリモコンの中から迷わずにエアコンのボタンを押し込んだ。
生ぬるい温風が吹き出し始めたその時、薄着になった先輩が私の手首を掴んだ。
「何言ってるの?…一緒に入るよ」
彼女はワイシャツのボタンを一つ、また一つと外しながら私の濡れた前髪を優しく分け、その瞳をじっと覗き込んできた。
「え…うぇぇえええええ!?」
私の絶叫が、防音性の高いはずの室内に響き渡る。
極限まで洗練された先輩の裸体を前に、果たして私は正気でいられるのか。雨の音でもかき消すことができないほど、心臓がうるさく鳴り響いていた。
作者の『月雲とすず』です!
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