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第十四話 保健室での一幕

 授業開始を告げるチャイムの音が、遠くで空虚に響き渡っていた。

 

 移動教室の喧騒から取り残された私は、人気のない廊下を千鳥足で進む。急な眩暈に襲われ、一度は床に膝をついた。


 けれど、誰もいない廊下で手を貸してくれる者などいるはずもなく、私は壁を伝いながら、すがるような思いで保健室へと向かっていた。

 

「し、失礼します…」

 

 養護教諭の先生がいてくれることを一筋の希望にして、重い引き戸を開ける。しかし、消毒液と救急箱が整然と並ぶデスクにいたのは、意外な人物だった。

 

「あれ、甘野さん?」

 

「つば…犀川先生…」

 

 そこに座っていたのは、まさかの犀川つばめ先生だった。授業はないのかと問いかけようとした瞬間、視界がぐにゃりと歪み、私はたまらずドアの縁に肩を預けた。

 

「どうしたんですか? 顔色が真っ白ですよ」

 

 心配そうに駆け寄った先生の手が、私の肩を支える。そのまま促されるままに近くのパイプ椅子に腰を下ろした。

 

 ぐるぐると回る視界のなか、私は必死に彼女の瞳に焦点を合わせ、震える声で言葉を絞り出す。

 

「は、はい…酷い眩暈で、たぶん貧血だと思うのですが…あの、保健室の先生は…?」

 

「先生なら少し用事があって、職員室へ行っているんです。私が代わりに留守番を頼まれていて」

 

 そう言って困ったように微笑む彼女は、手元の書類にペンを走らせると、再び私の目線に合わせて腰を落とした。

 

「とりあえず、ベッドで横になりますか? 少し休んだほうが良さそうです」

 

「…はい、お願いします…」

 

 鎮痛剤を飲んで授業に戻るつもりだったが、この体調では無理だ。さいわい、影の薄い私の欠席に気づくクラスメイトもいないだろう。

 

「では、こちらへどうぞ。ゆっくりでいいですよ」

 

 先生に手を取られ、カーテンで仕切られた空間へと足を踏み入れる。鼻腔を突くツンとした消毒液の匂いが、かえって現実感を希薄にさせた。

 

 ふたつ並んだベッドのうち、片方はこんもりと膨らんでいて、先客がいることを物語っている。

 

「気分が良くなったら授業に戻るんですよ。あと、お隣でも休んでいる子がいますから、お静かに」

 

 先生は唇に人差し指を立てる仕草を見せると、音を立てずにカーテンの外へと消えていった。

 

 ひんやりと、けれど清潔なシーツの感触に安堵して潜り込む。すると、隣のベッドからもぞり、と微かな衣擦れの音が聞こえた。寝返りだろうか、気になって凝視していると、毛布の隙間から見覚えのある顔が覗いた。

 

「う、うぅ……」

 

 うめき声を漏らしながら顔を出したのは、よく知る人物…犀川先輩だった。

 

いつも自信に満ちあふれている彼女とは別人のように、その顔は蒼白で、痛みに耐えるように薄い唇を噛みしめている。

 

「ぅん…だれ…?」


 焦点の定まらない瞳で私を見つめた先輩は、もう一度殻に閉じこもるように布団を被ろうとした。

 

「…なんだ、ゆいなか」

 

「…何してるんですか、先輩」

 

 ようやく私の存在を認識したらしい先輩に問いかけると、彼女は消え入りそうな声で白状した。

 

「お腹、痛くて…あ、変なもの食べたわけじゃないからね」

 

「拾い食いでもしたのかと思いましたよ」

 

「し、してない…」

 

 弱々しい反論に、彼女の状況を察する。いつもの快活さが息を潜めているのも、この痛みゆえだろう。


 私は重い瞼を押し上げ、うずくまる先輩を見つめて溜息をついた。

 

「…お薬、飲みましたか?」

 

「うん、さっき…」

 

 カーテンの隙間から見える洗面台には、水滴のついたコップが放置されている。それだけでは治まらないほどの痛みなのだ。

 

「お腹は温めてますか?」

 

「カイロ、貼ってるけど…もう冷たくなってるかも」

 

 それはまずい、腹部の冷えは痛みを助長させる。私は自分の眩暈も忘れてベッドを這い出し、生まれたての小鹿のような足取りで備品棚へと向かった。

 

「ちょっと、待っててください…」

 

「ゆ、ゆいな…?」

 

 背後から届く蚊の泣き声のような呼びかけを無視して、棚を漁る。

 

「あった…」

 

 予備の使い捨てカイロを掴み取り、砂利道を歩くような感覚で彼女の元へ戻った。

 

「はい、先輩。新しいのです」

 

「あ、ありがと…」

 

 受け取った彼女は、服の隙間にそれを滑り込ませようとしたが、指先が震えておぼつかない。

 

「ごめん…うまく動けないや」

 

「…わかりました。めくってください、私がやりますから」

 

 毛布を剥ぎ取り、肌を見せるよう要求する。一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした先輩だったが、すぐに観念したように、頬を林檎のごとく赤らめて上着の裾を持ち上げた。

 

「こ、こう…?」

 

 触れれば崩れてしまいそうな、白く柔らかな曲線。その下腹部へ、よく振って熱を帯びたカイロをそっと当てる。

 

「どうですか…?」

 

「うん…あったかい。ありがとう、ゆいな」

 

 役目を終えた私は、対面のベッドに戻って泥のように眠ろうと考えた。しかし、腰を浮かせた瞬間、視界が激しく反転した。

 

 抵抗する間もなく意識が遠のいて頬に柔らかな、そして温かな感触を感じながら、私は深い闇へと落ちていった。


 どのくらい時間が経っただろうか。

 

 まどろみの中で視界が開けると、そこには信じられない光景があった。

 

「おはよ、ゆいな」

 

「せ、せんぱい…って、えっ!?」

 

 ぼやけた視界が焦点を結ぶと、目の前に先輩の整った顔があった。

 

 驚いて飛び起きようとしたが、背中に回された彼女の腕がそれを許さない。同じ毛布の中で、私たちは密着していた。

 

「軽く気を失ってたみたいだよ。大丈夫?」

 

「は、はい…すみません、すぐ出ますから!」

 

 逃げ出そうとする私の両頬を、先輩の手が優しく包み込む。強制的に視線を合わせられ、逃げ場を失った。

 

「待って。ゆいな、あったかいから…もう少し、こうさせて」

 

 そのまま、吸い寄せられるように再び腰を抱き寄せられる。

 

  …この人、体調不良の私を湯たんぽ代わりにしている。

 

 暑苦しいし、羞恥心で心臓がうるさい。けれど、彼女から伝わってくる体温と、どこか安堵したような吐息が心地よくて、私は逃げ出すのをやめた。

 

「仕方ないですね…先輩は」

 

 これは、お互いの体調のための利害の一致だ。自分にそう言い聞かせる。けれど、ふと気づいてしまった。

 

  私の眩暈が完全に治まったとき、この腕の中からどうやって抜け出せばいいのか。その出口だけが見当たらないのだ。

作者の『月雲とすず』です!

ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

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次回も、お楽しみください!

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