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第十話 秀才との遭遇

 あたたかな日光が背中を熱する、昼休みの階段。私は、二個の弁当を抱えながら、犀川先輩を待っていた。


 いつもなら私が到着するより先に、踊り場で目を輝かせながら座っているはずの先輩が、まだ姿を見せない。


 珍しいこともあるものだ…いっそ、先に自分の分だけでも食べてしまおうか。そう思い、片方の弁当の包みに指をかけた時、階段の下から小気味よい足音が近づいてきた。


「待ってましたよ、先輩。まさか先輩が遅れてくるなんて…思っていません…でした」…


 手すりの影から顔を出した人影を見て、私は絶句した。鋭く凛々しい銀髪のポニーテール、陽光を反射して輝く健康的な褐色の肌に目を奪われる。


「ひ、姫山…先輩…」


 そこにいたのは犀川あやみ先輩ではなく、彼女の幼馴染である姫山ちぐさ先輩だった。


 陸上部のエースにして学園一の秀才、そんな学園のカリスマが埃っぽい校舎の階段に現れるはずがない。けれど、彼女は当然のような顔で私を見上げ、唇をほころばせた。


「こんにちは。お隣、いいかしら?」


  想定外の訪問者に脳がフリーズしたが、カリスマを立たせたままにするわけにもいかない。私は慌てて、自分の隣にある狭いスペースを指し示した。


「ど、どうぞ…お久しぶり、ですね…」


「ええ、本当にお久しぶり、甘野さん。私たちがこうして顔を合わせたのは、何年ぶりかしら」


 隣に腰を下ろした姫山先輩から、かすかに洗剤の清潔な香りが漂う。以前、更衣室ですれ違った時は、犀川先輩や他の生徒に対して鋭く硬い口調で話していた彼女だが、今は昔のままの穏やかな声色だ。


 驚いたのは、彼女が私の姿をはっきりと認識していることだった。今の彼女は学園のカリスマではなく、私の知っているかつての淑やかな少女の面影を強くまとっている。


「…小学校以来、かもしれません」


「あら、そんなに?同じ学園に通ってるのに不思議ね。私が一年生と関わる機会が少ないせいかしら」


 背筋を伸ばし、人差し指を顎に当てて考え込む姫山先輩。その立ち振る舞いはどこまでも凛としていて、あざとい犀川先輩やナルシストの白崎先輩とはまた異なる美貌の持ち主だ。


 活発そうな外見に反して、制服の着こなしは一切の乱れもなく規則正しい。それが逆に、彼女が本物のお嬢様であることを私に再確認させた。


「あなた、随分と雰囲気が変わったようね。昔はそんなキャラじゃなかったでしょう?」


 姫山先輩が、探るような視線で私の全身をなぞった。犀川先輩とは再会してから時間が経っているが、姫山先輩に現在の私を見せるのは初めてに近い。困惑するのも無理はないだろう。


「あ、あはは…姫山先輩だって、成長されてるじゃないですか」


 私の記憶にある彼女は、綿のように儚く、透き通るほど白かった。それが今や、肉体美の躍動する褐色の肌になっている。かつては病弱で、満足に日光を浴びることすらできなかったはずなのに。


「へぇ…あなたはこの変化を成長と呼ぶのね。ふふ、やっぱりあなたは面白いわ」


 私の言葉に、彼女は眩しいほど真っ白な歯を見せて笑った。落とせば割れてしまいそうだった硝子細工のような危うさは、今の彼女からは完全に消え去っていた。


「そういえば…私について、誰かから話を聞いたことはある?」


「えっと…姫山先輩の噂なら、よく耳にしますよ。この前も、数学オリンピックで優勝したんですよね?おめでとうございます」


 クラスの男子達が熱を上げて話していた内容を思い出しながら告げると、彼女は謙遜するように肩をすくめた。


 小学校時代から頭の切れる人だとは思っていたけれど、まさかこの蜂ヶ海学園の生徒をことごとく凌駕する秀才として名を馳せているなんて。


 犀川先輩も、白崎先輩も、そして目の前の姫山先輩も、誰もが眩しいほどの変化を遂げているのだ。


「そんなの、大したことじゃないわよ。周りが勝手にはやし立てているだけ。…あやみからは、何も聞かない?」


 犀川先輩の名前が出た瞬間、私はゆっくりと首を横に振った。あの先輩は、親友であるはずの姫山先輩の話題を、私との時間に出したことは一度もない。私が彼女のことを忘れていると思っているのか。


「犀川先輩からですか?いえ、特には」


「あら…今も結構、あの子と一緒にいるんだけどな。甘野さんには、私の話をしてくれてないんだ…ふふ、残念」


 頬杖をついた姫山先輩が、どこか楽しげでいて意味深に目を細める。かつての親しさはあっても、私と彼女の間には埋めようのない距離があった。このまま一対一で会話を続けていていいのだろうか。


 この場を丸く収められるのはただ一人、犀川あやみ先輩だけだ。


「あの…犀川先輩はどうかされたんですか?いつもなら、もう来ているはずなんですけど」


 助け船を求めるように行方を尋ねると、姫山先輩は数秒ほど唸ってから口を開いた。


「さっき、生徒会の召集放送が流れたから、そっちに行ってるんじゃないかしら?少なくとも、私は見てないわ」

 

 放送なんてあっただろうか、教室にいれば気づいただろうが、この階段にはスピーカーが設置されていない。聞こえるのはせいぜい、チャイムの音くらいだ。


 唯一の希望だった犀川先輩が来ない気まずさに奥歯を噛みしめていると、不意に隣から柔らかな圧力がかかった。


「それにしても、あの子も大概ね。数えきれないほど友人がいるくせに、お昼はここで甘野さんと食べるのが日課だなんて…意外と独占欲にまみれてるのね」


 落ち着いた声と共に、姫山先輩が私に体重を預けてくる。


 過去の春雨のように細く儚かった腕は、しなやかなハリを帯びた生命力あふれる肌に変わっていた。私よりも軽かったはずの彼女の身体からは、干したてのシーツのような温かな日光の香りがして鼻先をくすぐる。


「独占欲なんて…私、友達が少ないので。先輩はただ、優しさで付き合ってくださってるだけだと思います」


「ふ〜ん…じゃあ、私も甘野さんの"友達"っていうことでいいわね?」


「ぇえ!?」


 私の太ももに、彼女の長く細い指先がそっと置かれる。姫山先輩は、まるで獲物を追い詰める犀川先輩のような、小悪魔的な微笑を浮かべていた。


「あら、いけないかしら?」


「いや…いけない、と言いますか…私のような者が、恐れ多いような」


 誰にも認識されない、学園の底辺を這うような影の薄い私が、犀川先輩のみならず姫山先輩まで手中におさめるなんて。もしバレたら、どんな反感を買うか分かったものではない。


 私は、彼女達のような太陽の隣に並んでいい人間ではないのだから。


「それよりも、早くお昼を食べてしまいましょう。休み時間が終わってしまうわ」


 姫山先輩の言葉に弾かれたように、私は膝の上の弁当箱を広げた。その隣にある、もう一つの包みを見て彼女が不思議そうに首をかしげる。


「甘野さん、お弁当を二つも食べるの?意外と食いしん坊なのね」


「いえ、そういうわけでは…実は、これは犀川先輩のために作ったもので…」


 つい、口が滑って白状してしまった。共通の知人である姫山先輩に、手作り弁当を貢いでいるなんて…滑稽だと笑われるかと思ったが、彼女の反応は予想外のものだった。


「へぇ…あの子、後輩にお弁当を作らせてるなんて…じゃあ、それを私が頂いてもいいかしら?」


 その言葉を聞いて驚愕した。庶民的な私の手料理が、お嬢様育ちの彼女の口に合うはずがない。


「で、でも、先輩の口には合わないと思いますよ…」


「えぇ、構わないわ。あの子も来る気配がないし、食べてもらえない弁当も可哀想じゃない」


 ぐい、と顔を近づけてくる彼女の瞳に射すくめられ、私は敗北を認めた。震える手で、犀川先輩に捧げるはずだった弁当を彼女へと差し出す。


「は、はぁ…では、どうぞ」


 手渡された弁当を、姫山先輩は宝物でも受け取るように目を輝かせて開いた。おかずを一つ、行儀よく口に運ぶと、うっとりと余韻に浸るように目を閉じる。


「う〜ん、美味しい…身に染みる味だわ…」


 どんなに埃っぽい場所でも、彼女が箸を持つだけでそこが高級料理亭のように見えてしまう。その凛とした佇まいに、私は知らず知らずのうちに毒気を抜かれていた。


「なんだか、こう話してると…先輩はあまり変わってないだなって感じます」


「…というと?」


「噂で聞く先輩の姿は、陸上部のエースで、それでいて秀才で…もう手の届かない人だと思っていました。ですが、やっぱり中身はお嬢様なんだなって」


「私ね、今は家を出て一人暮らしをしてるの。だから、もうお嬢様ではないわよ」


 寂しげに背後の窓を眺める横顔に、私は言葉を失った。


「…なにか、あったんですか?」


「ちょっと、親と喧嘩してね。入学と同時に家を飛び出して来たの。今は、執事としか連絡を取っていないわ」


 お嬢様特有の窮屈さから逃れ、一人の少女として生きる道を選んだ彼女。他人の家庭事情に首を突っ込むとは、私の流儀に反してしっまった。


「…ごめんなさい、無神経なことを聞いてしまって」


「いいのよ。今の生活の方が気に入っているし。一人は気楽でいいわ、昔は大人数に囲まれて息苦しかったから。…でもね、最近は少し肌寒いでしょ?人肌が恋しくて、よく人を家に招いているわ」


 さらりと口にされた不穏な言葉に、背筋が戦慄した。人肌を求めて人を呼ぶということは、過激な異性交遊ということだろうか。


「そ、それって大丈夫なんですか…変なこととか、されてませんか?」


 私が恐る恐る尋ねると、姫山先輩はきょとんとした後、鈴を転がすような声でクスクスと吹き出した。


「うふふ…だいじょうぶよ。私が呼ぶのは、同性だけだもの」


「なら、一安心です」


 反射的に胸をなでおろした直後、先輩の瞳が射貫くような鋭さを帯びた。逃げる間もなく彼女の両手が私の肩に置かれ、低く甘い声が鼓膜を震わせる。


「私、レズビアンなの」


「…へ?」


 思考が停止した瞬間、私は背中から踊り場の冷たい床へと押し倒されていた


「…っ!!ひ、姫山先輩…っ!?」


 重なるしなやかな体の重み。私の胸元に顔をうずめた彼女が、満足気に鼻先を擦りつける。


 犬が飼い主に甘えるような、けれどどこか熱を帯びた所作だった。密着した身体から伝わるぬくもりに、私の顔は火を噴きそうになる。


「このぬくもり…やっぱり、甘野さんは変わってないわね。あの頃と同じ、私達を導いてくれた優しさがあるわ。…ねぇ、今日の放課後、私の家に来る?」


「いえ…あの、えっと…今日は…っ」


 犀川先輩との友情を根底から揺るがしかねない、危険な誘いだ。私がしどろもどろになっていると、姫山先輩は突然に身を離し、これまで以上に高らかな笑い声をあげた。


「ぷっ、あははは!冗談よ、冗談!自慢の後輩を、いきなり襲うわけないでしょう?」


 涙を浮かべて笑う彼女に、私はわなわなと怒りが込み上げてきた。なぜ私の周りの先輩達は、こうも人をからかって遊ぶのか。


「…そういうところ、犀川先輩に似てますよね」


 その名前を出した時、姫山先輩の笑いがぴたりと止まった。


「なっ…一緒にしないでほしいな。…私は、あの子にはなれないから…」


 その寂寥感(せきりょうかん)を切り裂くように、昼休みの終わりを告げるチャイムが校舎に響き渡った。


「やばっ!!チャイムが…っ!!」


 慌てて立ち上がった私をよそに、彼女は踊り場から階段を軽やかに飛び降りた。


「姫山先輩っ!?」


 着地の衝撃を逃がし、クラウチングスタートのような姿勢で姫山先輩が顔を上げた。


「授業には遅れないようにね!あと、あやみに私の連絡先、送るように言っておくから!!」


 風のように走り去る背中、私が追いついたころには廊下の先に彼女の姿はなかった。


「あ、弁当箱…返してもらってない…」


  手ぶらになった右手を眺め、私は青ざめたまま教室へと走った。放課後の部活中、弁当がないことを知った犀川先輩が、この世の終わりのような顔をして拗ねてしまったのは、また別の話である。

作者の『月雲とすず』です!

ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました!

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次回も、お楽しみください!


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