第94話 人ではなくなって
地上に戻った者は、誰もいなかった。 香織も、翔太も。
六月二十日の朝、田辺家と田中家に警察から連絡が入った。廃寺の本堂で、二人の学生鞄と靴が発見されたという。しかし、二人の姿はどこにもなかった。本堂の床には巨大な穴が開いていたが、その穴は崩落した瓦礫で完全に塞がれており、内部の調査は不可能だった。
捜索は三ヶ月続いた。しかし、手がかりは何一つ見つからなかった。 家族が廃寺に駆けつけた時、本堂は深い寂寥に沈み、地下への穴は塞がっていた。まるで、最初から何もなかったかのように。
「失敗したのね……」
真紀が呟いた。その声には、失望と安堵が入り混じっていた。
「いいえ」
和子が首を振る。その顔には、五十年間見せなかった穏やかな表情が浮かんでいた。
「成功とも、失敗とも違う。あの子たちは、新しい形を見つけたのじゃ」
真紀は、その言葉の意味を理解しようとしなかった。
襖の向こうで、美代子がその言葉を聞いていた。涙を流せない乾いた目で、彼女はただじっと、雨が降り始めた窓の外を見つめていた。その乾ききった唇が、微かに動いた。
「香織……健一と同じ場所に、行ったのね……」
真紀は、再び東京へと戻り、完璧な日常に戻った。 しかし、その日常は、以前にも増して空虚だった。
鏡に映る自分の顔は、寸分も崩れていなかった。だが、笑顔を作ろうとしても、口元は歪むだけで、笑い方を忘れてしまっていた。 高級レストランで豪華な料理を食べても、その味は水に溶けて消えていくように感じられた。 会議室で部下から称賛の言葉を浴びせられても、その声はすべて「水音」に聞こえた。
「真紀さん、今回のプロジェクト、大成功です!」
「...ぽちゃ、ぽちゃ、ごぼり...」
彼女の耳に届くのは、そんな音ばかりだった。
その年の梅雨。東京にも、長い雨が降り続いた。
真紀は、タワーマンションの高層階で、ひとり、窓を打つ雨を見ていた。地上の喧騒は、ここまで届かない。完璧な静寂。完璧な孤独。聡を殺し、浩介を殺して手に入れた、永遠の美しさだけが、鏡の中で寸分も崩れずにいた。
ふと、雨音の中に、聞き慣れない響きが混じった。
ぽちゃ、ぽちゃ、ではない。もっと澄んだ——ちりん、という、鈴のような音。
真紀の体が強張った。あの音を、知っている。妹が、廃寺へ持っていった、祖母の鈴。
窓ガラスに、水滴が伝う。その一筋が、ありえない動きで、下から上へと這い上がった。やがて、ガラスの曇りの中に、ぼんやりと、人の輪郭が滲んだ。
聡だった。
六年前、真紀が自らの手で水に沈めた、あの優しい少年。窓の向こうで、彼は、責めるでもなく、ただ静かに、微笑んでいた。
「……聡」
真紀の唇が、震えた。感情を捨てたはずの喉の奥が、ひりついた。
聡の唇が、ゆっくりと動いた。音は聞こえない。けれど、その形は、はっきりと読み取れた。
『もう、自分を責めなくていい』
真紀は首を振った。激しく、何度も。
——許されるわけがない。私は、あなたを殺した。あなたを愛していたのに、あなたの死を「意味あること」にするために、美にしがみついて、もう一人、浩介まで殺した。許されて、いいはずがない。
『真紀。強く、生きろ』
聡の輪郭が、雨に溶けて、薄れていく。
真紀は、初めて気づいた。自分が、聡の死を「意味あること」に変えるために美に縋ってきたのは、本当は——彼を悼むことから、逃げ続けるためだったのだと。美しくあるかぎり、泣かずにいられた。悔やまずにいられた。彼を失った痛みに、向き合わずにいられた。
香織は、愛する者と手を離さないことを選んだ。私は、愛する者の死から、目を逸らし続けることを選んだ。妹と私を分けたのは、才能でも、運でもない。痛みに向き合う勇気が、あるかどうかだった。
聡の姿が、完全に消えた。
その瞬間、真紀の目から一滴の雫が零れた。
それが涙なのか、それとも、ただ体内の水が漏れ出ただけなのか、真紀には分からなかった。六年間、一度も泣かなかった——いや、泣けなかった女の頬を、それは、ゆっくりと伝った。
崩れない美貌の上を、たった一筋の水が伝うその姿は、ひどく不格好で、そして、人間に見えた。
真紀は声を殺して泣いた。泣き方を、ようやく思い出したかのように。
その涙が、彼女を人間に戻すのか、あるいは、ただ一夜だけの軟化に過ぎないのか。それは、誰にも分からなかった。明日になればまた、彼女は完璧な仮面をつけて、空虚な日常へ戻るのかもしれない。けれど、少なくともこの夜、真紀は、自分が殺した人を、初めて、まっすぐに悼んだ。
それは、救いと呼ぶには、あまりにも遅く、あまりにも小さな一歩だった。けれど、五十年、誰も踏み出せなかった一歩でも、あった。




