第93話 新生(残り零分)
『選びなさい』
声が響いた。それは松姫でも、亮介でも、誰でもない——水時計そのものの声だった。
けれど、選択肢が示されたわけではなかった。香織には、言葉ではなく、体の芯で分かった。自分たちの前に、道が分かれていることを。
ひとつは、捧げること。巫女と犠牲者として、定められた物語をなぞる道。和子が、真紀が、辿ってきた道。
ひとつは、拒むこと。何も受け入れず、ただ二人で沈んでいく道。
そして——誰も歩いたことのない、三つ目の道。それは光ってもいなければ、形もなく、ただ、繋いだ手のひらの中に、かすかな熱として息づいていた。
香織は、繋いだ手に、力を込めた。
その瞬間だった。翔太の手のひらから、同じだけの力が、返ってきた。一拍も遅れず、一分も弱くなく。押し返すのでも、引き寄せるのでもない。ただ、まったく同じ強さで、握り返してくる手。
その感覚が、言葉より先に、香織の体の芯を貫いた。
これだ、と思った。なぜそう思ったのか、頭では分からない。ただ、握り合った手のひらの、その対称の熱が、答えそのものだった。
水底の記憶が、なだれ込んでくる。松姫が佐助を道連れにした夜。和子が亮介を井戸へ沈めた朝。真紀が聡の手を引いて廃寺へ向かった夕暮れ。どの場面でも、二人の手は、同じ強さで握り合ってなどいなかった。片方が掴み、片方が掴まれる。片方が沈め、片方が沈められる。愛していても、最後の最後で、二人はいつも、捧げる手と、捧げられる手に、引き裂かれていた。
——だから、足りなかったのだ。
香織は、もう頭で考えてはいなかった。手のひらが、勝手に理解していた。百五十年、この水に注がれてきたのは、いつも片側だけの愛。受け取られることのない、宙に浮いたままの想い。孤独な神が飲み下せなかったのは、その一方通行だった。
いま、香織と翔太の手は、違う。
香織は翔太を突き放した。「来ないで」「忘れて」と。翔太は香織を追ってきた。「離さない」と。二人とも、相手のために死のうとして、同じ場所で、同じ強さで、手を握っている。どちらも捧げる者で、どちらも捧げられる者。差し出した手のひらが、ちょうど同じ力で、受け止め返される。
選んだのではなかった。考えて決めたのでもなかった。ただ、どちらも、手を離さなかった。それだけだった。先にどちらかが緩めれば、また「捧げる者」と「捧げられる者」に戻ってしまう。だから二人は、息を合わせるより自然に、同じ強さで、握り続けた。
握り合った手のひらの熱が、冷たい水の中で、ひとつの小さな温度になった。それが、答えだった。
その瞬間、水時計が砕け散った。
轟音と共に、水時計が崩壊する。 しかし、それは破壊ではなく、解放だった。 水時計の破片から、無数の光が立ち上る。それは、百五十年囚われていた魂たち。
亮介の魂が、光となって上昇する。
『和子に伝えてくれ……もう苦しくないと……』
続いて、聡の魂が立ちのぼった。
『真紀……強く生きろ。もう、自分を責めなくていい……』
そして、健一の魂。
『美代子……ありがとう……愛してた……』
佐助と松姫の魂は、一つに溶け合い、光の柱となって天へと昇っていく。
水が引いていく。 香織と翔太は、水時計があった場所に立っていた。 一見、元の姿に戻ったように見える。しかし、二人の瞳の奥に水面のような揺らぎがあり、肌は月光を受けて微かに青く光っている。
崩壊した黒曜石の瓦礫の隙間に、ぽつんと、小さな古い木彫りの人形が落ちていた。百五十年前、庭師の少年が、愛する姫のために彫った、姫自身の姿の人形。水底で何十年も泥を被り、腐りかけていたはずのその表面は、いまや不思議なほどに澄み切り、優しく乾いていた。それは、百五十年にわたる孤独な渇きが、ようやく、温かく満たされた証のようだった。
「終わった……のかな」
「いや、始まったんだ」 翔太が答える。
「新しい物語が」
二人の手が、自然に重なる。温かい手と、冷たい手。しかし、その温度差は、もはや違和感ではなく、調和だった。
床に、小さな水たまりが残っている。その水面に、二人の姿が映る。人間の姿と、水の精霊の姿が、重なり合って見える。
地下空間が、静かに震動し始めた。 最後の水滴が、天井から落ちた。 ぽたん。 それは、新しい時を刻む、最初の音だった。
香織は、自分の手を見た。水時計のあった場所に差し込むかすかな光に、その指の輪郭が陽炎のように揺らいでいる。
地上へ続く百段の石段を、二人は見上げた。けれど、どちらからともなく、足が止まった。
あの石段を上っても、もう戻れる場所はない。人でもなく、水でもなく、その境界に立つ者となった自分たちには。
背後で、地下が低く呻いた。崩れ落ちた瓦礫が、たった今下りてきた石段を塞いでいく。まるで、もう振り返るなと告げるように。
香織の脳裏に、地上で待っているはずの家族の顔が浮かんだ。和子、真紀、美代子、源三郎。その誰の手も、もう取ることはできない。けれど不思議と、悲しみよりも、静かな凪が胸を満たしていた。
「行こう」
翔太の声が、水底から響くように届く。その横顔も、薄明かりのなかで半ば透き通っていた。
「うん」
二人の姿は、地下にわだかまる仄かな光のなかへ、ゆっくりと滲んで、溶けていった。
あとには、もう、誰もいなかった。




