第92話 鈴の音(残り五分)
喉まで水に浸かりながら、香織の脳裏に、あの夜の祖母の声が蘇った。——水が、唯一、恐れた音。
香織は、固く握りしめていた手を、水の中でそっと開いた。掌の中で、小さな銀色の鈴が、鈍く光る。亮介が和子に遺し、和子が五十年、正気の縁で握りしめてきたお守り。途絶えた音無神社の、ただひとつの忘れ形見。
香織は、ありったけの祈りを込めて、それを鳴らした。
ちりん。
澄んだ音が、水を、闇を、脈動を貫いた。
その瞬間、どくん、と打ち続けていた水時計の鼓動が——つまずいた。
どこからともなく、子供の歌声が湧き上がる。あのわらべ歌だ。「水はどこへ行く? 水はどこへ行く?」水底へ、水底へと誘う声。だが、鈴の音は、その歌の隙間を縫って響き続けた。ちりん。ちりん。ちりん。やがてそれは、もっと古い旋律を呼び覚ましていく。とうに途絶えたはずの、音無の祭祀の調べを。
水の底で、何かが、悲しげに身じろぎした。
『……その音は』
松姫の声が、初めて揺らいだ。怒りでも、嘲りでもない。遠い昔に聴いた誰かの笛を思い出すような、痛切な響き。水神は、悲しき音に、心を奪われていた。脈動が淀み、わらべ歌が、ほどけていく。
だが、香織には分かっていた。鈴の音は、水神の渇きを「鎮める」ことはできても、「満たす」ことはできない。かつて音無の宮司が、笛だけでは届かなかったように。鈴がこじ開けたこの一瞬の静寂は、扉にすぎないのだと。
その扉の向こうへ、二人は、ありったけの想いを注ぎ込んだ。
『あなたは、ずっと、ひとりだったんだね』
香織は、水神へ自らの意志を伸ばした。その魂の、最も深い場所へ。
——怖い。
香織は震えていた。この水神が、怖くてたまらなかった。生まれてからずっと、この水を恐れてきた。コップ一杯の水にさえ怯え、プールサイドで足がすくみ、雨の湿気に肌を粟立たせてきた。その恐れの大元が、いま、目の前にいる。逃げ出したい。本能が全身で、そう叫んでいる。
けれど香織は、その同じ水を、狂おしく求めてもいた。恐れながら、惹かれる。逃げたいのに、抱かれたい。松姫から受け継いだ、あの引き裂かれ。百五十年、田辺家の女たちを蝕んできた、呪いの病。
そのとき香織は、初めて理解した。
この相克は、呪いではなかった。これは、贈り物だったのだ。
なぜなら——本当に恐ろしいものを、恐れたまま、それでも抱きしめること。それこそが、いちばん難しく、いちばん本物の愛だから。恐れを消してしまえば、それはただの無謀だ。恐れを抱えたまま、震える腕で、なお相手を抱きしめる。その矛盾を生きられる者だけが、この孤独な神に、本当に触れられる。
歴代の巫女たちも、この引き裂かれを抱えていた。和子も、恐れながら水に惹かれた。けれど誰もが、最後には恐れに負けて水を憎むか、渇きに負けて水に呑まれるか、どちらかへ転げ落ちていった。相克のただ中に踏みとどまったまま、その矛盾ごと差し出した者は、一人もいなかった。けれど香織は、恐れと渇望の両方を、最後の瞬間まで、同時に抱え続けた。松姫が苦しみ抜いた、あの病ごと。
だから香織は、怖いまま手を伸ばした。逃げ出したいと全身が叫ぶのを抑えつけ、震える両腕で、その孤独な魂を、まるごと包み込んだ。恐怖を乗り越えた末の勇気ではない。乗り越えられないまま、怯えながら、それでも腕を回した。その腕の中には、憐れみも、打算もなかった。ただ、震えだけがあった。震えたまま、なお手放さない、不格好な愛だった。
この神は、ずっと、奪うことしか知らなかった。愛を欲しながら、奪うことでしか、それに触れる術を知らなかったのだ。誰も、ただ差し出してくれる者など、いなかったから。そして誰も、この神を恐れたまま、その恐れごと抱きしめてくれる者など、いなかったから。
初めて、満たされる音がした。
水時計の脈動が、止まる。完全な静寂の中で、香織と翔太は浮遊していた。水の中でありながら、水の外。時間の中でありながら、時間の外。二つの旋律が調和し、新しい音楽を奏でるように、それぞれの個性を保ちながら、共鳴している。




