第90話 喉元まで満ちて(残り三十分)
水時計が激しく脈動し始めた。 どくん、どくん、どくんどくんどくん……。 規則正しかったリズムが乱れ、まるで心臓発作を起こしているかのよう。
水が逆巻き、無数の渦を作り出す。その中心で、香織と翔太の体が引き寄せられていく。
「もう、だめかもしれない……」
香織の意識が遠のきかける。人間の部分が、巫女の奔流に飲み込まれそうになる。
その時、翔太が最後の力を振り絞って香織を抱きしめた。
「香織ちゃん、僕を見て」
翔太の目は、まだ人間の輝きを保っていた。茶色い、優しい瞳。そこには恐怖もあったが、それ以上に強い決意があった。
「僕たちは、新しい道を作る。犠牲者でも、支配者でもない。水と人の境界に生きる、新しい存在になるんだ」
翔太の手が青く光る。それは彼の中に流れ込んだ水の力。しかし、完全に水に支配されたわけではない。人間としての意志で、その力を制御している。 香織の目に、光が戻った。
「翔太君……」
二人の体が、光に包まれる。 青い光と、温かいオレンジの光が混じり合い、新しい色を作り出す。それは朝焼けの空のような、希望に満ちた色だった。
『何が起きている……』
松姫の声に、パニックが混じる。
『これは……予定にない……制御できない……』
水時計の表面に亀裂が走った。
すべての音が消えた。 水位の上昇が止まり、渦巻いていた水面が凪ぐ。 香織と翔太は、互いを抱きしめ合ったまま、水中に静止していた。 その静寂の中、松姫の意識が、最後の罠を仕掛けた。二人の精神を引き剥がし、それぞれの心の最も甘く、最も脆い部分へと侵入する。
(香織の幻覚)
気がつくと、私は水底に立っていた。体は光り輝き、透き通った水を湛えた器のように、ひずみのない形をしていた。満ち足りた全能感が、私を満たしていた。目の前には、ガラスケースの中に眠るように横たわる翔太君の姿があった。彼は、私だけを見つめていた。その瞳は、永遠に私だけを映す美しい鏡。彼は私のもの。永遠に。




