第89話 腰まで満ちて(残り五十分)
透明な水の中から、人影が浮かび上がってきた。水で形作られた、半透明の姿。 亮介。聡。健一。佐助。そして、名前も知らない無数の男たち。
彼らは翔太を取り囲み、水の中へ引き込もうとする。 透明な手が、翔太の腕を、足を、体を掴む。氷のように冷たい手が、翔太の体温を奪っていく。
「やめて!」 香織が叫ぶと、彼女の体から青い光が放たれた。亡霊たちが一瞬怯む。
その時、水時計から声が響いた。
『抗うな、娘よ。彼らもまた、我らの一部。仲間を求めているのだ』
松姫の声だった。最初の巫女にして、この水時計の核となった女の、機械的で、感情のない響き。水面に、美しくも恐ろしいほど無表情な顔が浮かび上がる。
「なぜ、こんなことを続けるの?」
香織の問いに、水時計の脈動が、一瞬乱れた。松姫の声に、初めて感情らしきものが混じる。
『……寂しいからだ』
その声とともに、香織の脳裏に、水時計の最奥のビジョンが強制的に流れ込んだ。
暗い水底、歯車の隙間で、百五十年前の白無垢を着た少女が、腐りかけた木彫りの人形を、千切れた指先で抱きしめて、すすり泣いている。佐助が彫ってくれた、自分の——あの夏の——姿のかたち。少女の涙は、水路を伝って上へ、上へと、重力を無視して逆流していく。
彼女の渇きは、日照りの渇きなどではなかった。愛する者を自ら沈め、その瞬間に自分の魂まで永遠に凍りつかせてしまった、身を切るような『孤独』の渇きだった。水神とは、神などではない。百五十年間、誰一人その涙を拭ってくれなかった、ただの哀れな少女の、成れの果てだった。
その声には、百五十年の孤独が滲んでいた。
『愛する者を失い、我はずっと独りだった。だから、欲しかったのだ。我と同じ、愛に殉じる者たちが』
「私たちを、あなたと同じにしないで!」
香織の強い意志が、水時計にぶつかる。彼女の中の人間性が、最後の抵抗を試みていた。




