第88話 足首まで満ちて(残り六十分)
「始まった」
香織の声は、もう完全に人間のものではなかった。水の中で話しているような、反響する声。歴代の巫女たちの声が重なり合い、一つの合唱を形成している。
「ごめんね、翔太君」
振り返った香織の顔は、すでに変化を終えつつあった。肌は陶器のように白く滑らか——けれどそれは、水を吸った溺死体の、生気のない白さだった。海藻のように波打つ髪の毛先からは、黒い水がぽたぽたと滴り落ちている。瞳は深い湖のような青に染まり、その奥底に無数の記憶が渦巻いていた。美しい。けれど、近づけば饐えた水の臭いの立つ、作り物めいた美しさだった。
松姫の記憶。雪子の記憶。千代の記憶。そして、祖母・和子の記憶。 すべての記憶が、香織の中で渦を巻いていた。
「僕は、覚悟してここに来た」
翔太が、変わり果てた香織を真っ直ぐ見つめる。彼の体にも変化が現れ始めていた。指の股には、香織と同じ、薄い水かきの膜が張りはじめていた。彼もまた、確実に、こちら側へ近づいている。
「大叔父さんも、きっと同じ気持ちだったんだと思う」
でも、翔太は違う道を探したい。
「香織ちゃん、君の中にまだ『香織』はいる?」
香織の体が震えた。 巫女としての本能と、人間としての感情が激しくせめぎ合っている。 「助けたい……でも……捧げたい……」 矛盾する感情が、香織を引き裂く。愛しているから助けたい。愛しているから捧げたい。その両方が、紛れもない本心だった。




