第83話 逆流の廊下(地下第三層)
その先は、常識が崩壊する空間だった。天井、壁、床の区別がない、異次元的な回廊。水が重力を無視して、下から上へ、横から横へと溢れ出している。滝が逆さまに流れ、川が壁を這っている。
二人が足を踏み入れた瞬間、凄まじい浮遊感と眩暈に襲われた。
かつて六年前、真紀はこの逆流を、理性だけで抗って歩いたという。「私は、鬼になるんだから」と呟きながら、乱れを許さぬ完璧な足取りで。二度目に浩介を連れて降りたときには、心はもう空っぽで、逆流すら彼女を惑わせなかった。感情を失った怪物にとって、ここはただの一本道に過ぎなかったのだ。
だが、香織と翔太は、違った。
「うわっ……!」
翔太は平衡感覚を失い、その場に膝をついた。どちらが上で、どちらが下か分からなくなる。三半規管が狂い、吐き気がこみ上げてくる。
水は意志を持っているかのように、二人の方向感覚を狂わせようとする。右へ進もうとすれば、右の壁から激しい水流が押し戻す。まっすぐ進もうとすれば、床から水柱が噴き上がって行く手を阻む。
水流は、生きて意志を持っているかのようだった。過去の犠牲者たちの怒りと悲しみを孕んで、二人に牙を剥く。
「香織ちゃん、こっちだ!」
翔太は叫ぶが、自分の声がどこから響いているのかさえ分からない。
「違う、こっち!」
香織が、翔太の手を引いた。彼女の目は、この狂った空間の中でも、確かな何かを捉えているようだった。
「水の流れが見える……本当の流れが……」
香織は、目に見えない水脈を頼りに進んでいく。彼女にとっては、この混沌とした空間こそが、世界の真の姿なのかもしれなかった。
「この先、水が澱んでる。そこを通れば、水の流れに逆らわずに進める」
香織の唇が、自分でも知らないうちに動いていた。歴代の巫女たちが口にしてきたはずの音節が、喉の奥から、勝手にせり上がってくる。それは、水の流れる方向を、香織の体に直接伝えていた。
翔太は何も言わず、香織が差し出した左手を、ただ強く握り直した。狂ったように逆流する水流の中で、不思議と、彼女の手のひらだけが吸い付くように馴染む。一歩、泥を蹴る。香織の細い肩が引く方向へ、翔太は自分の体重のすべてを預けた。視線すら交わさない。けれど、濁流を割る二人の足音は、完全に一つのリズムを刻んでいた。
だが、その調和を嗤うように——回廊の奥から、生暖かく、甘く饐えた風が吹きつけてきた。その先で、何かが、二人を待っていた。




