第84話 澱に、触れられる
逆流の廊下を抜けた先は、洞窟のような空間だった。鼻を突いたのは、甘く饐えた腐臭——花が腐る寸前のような、吐き気をもよおす甘ったるさ。中央の黒く濁った水たまりには、油膜じみた虹色の膜が張り、無数の小さな気泡が、魚卵のように寄り集まっては、ぷつ、ぷつ、と潰れていく。その底から、何かがゆっくりと浮かび上がってきた。人の形を保てていない、怨嗟の言葉を呟き続ける、黒い水の塊。
「失敗した巫女たちの成れの果て」――澱。
それは、健一を捧げることに失敗し、涙を失った母・美代子の魂が、もし儀式に失敗していればたどり着いたであろう、絶望の姿だった。
『……しい……』『……美しく……』『……美しく、なれなかった……』
澱たちは、香織を見つめていた。その声には、百数十年分の嫉妬と絶望が凝縮されている。
『あの子は、なれる……ずるい……』『儀式を失敗した……愛が足りなかった……捧げものが、不浄だった……』『だから、私たちは澱になった……水にもなれず、人にも戻れず……』
黒い水の中から、無数の手が伸びてきた。泥でも、ヘドロでもない。生暖かく、ぬめり、長い髪の毛がびっしりと絡みついた手。水を吸ってぶよぶよにふやけた指先からは、半ば剥がれかけた爪が、白くめくれ上がっていた。
『おいで、お前も』 『私たちの仲間に』 『失敗すれば、お前もこうなる』
澱たちが、香織を水たまりに引きずり込もうとする。生暖かいのに、芯はぞっとするほど冷たい。皮膚をなぞった澱の指は、香織の腕の産毛に、水草のような細い藻を、ぬるりと残していった。触れられたその場所から、あの朝、爪の間に見つけたのと同じ緑の藻が、ぬるぬると皮膚を這い広がっていく。澱に触れられるたび、香織の変容は、目に見えて加速していった。
「やめろ!」
翔太が懐中電灯の光を澱に集中させる。澱たちは光を嫌うように、一瞬だけ動きを止めた。その隙に、二人は洞窟を駆け抜けた。背後から、いつまでも怨嗟の声が追いかけてきた。




