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水に取られた ー零れる刻限ー (改訂版)  作者: 大西さん
第十四章 地下への降下
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第82話 幻影の間(地下第二層)

さらに下。長い回廊に出た。床は一面、鏡のように澄んだ水で覆われている。くるぶしほどの深さ。天井は高く、アーチ状になっている。ゴシック建築の教会を思わせる荘厳な造り。しかし、その美しさは歪んでいた。


香織と翔太が回廊に足を踏み入れた瞬間、足元の水面が揺らめき、映像を映し出した。それは、過去の犠牲者たちの、最も幸福だった頃の幻影だった。しかしそれは、単なる映像ではない。心の渇望を具現化して、見る者を甘く引きずり込む、水の罠だった。


水面は、かつてここを通った者の渇きを、順繰りに掘り起こしていく。六年前、真紀がこの回廊を歩いたときには、足元に、聡と笑い合う幻が揺れたという。最も望み、決して手に入らない未来。『ここにおいで、真紀』——その甘さに一瞬沈みかけ、彼女は『あなたの愛は、もう私には必要ないわ』と冷たく突き放した。愛を否定することでしか、前へ進めなかった。その言葉は、聡の幻もろとも、真紀自身を抉ったはずだ。いま、その同じ水が、香織と翔太の足元で、新しい獲物の渇きを探り当てようとしていた。


香織の足元に、聡の幻影が浮かび上がる。彼は生徒会室で、照れながら真紀にココアを渡している。その横で、真紀は完璧な笑顔で、感情のない目で聡を見つめている。


『こちらへおいで』 聡が、水の中から優しく微笑む。 『ここなら、もう苦しまなくていい。楽になれるよ。永遠に、僕だけの世界で生きていけるんだ』


その声は、真紀が最も渇望していた言葉だった。聡の死を無駄にしないため、二度目の儀式を遂行するまでになった真紀の狂気。それは、永遠の幸福を求めた、歪んだ愛の形だった。


しかし、その幻影は香織には全く響かなかった。


「これは、お姉ちゃんの幻……私には関係ない」


香織は幻影を無視し、前へと進んだ。彼女の心には、翔太と「第三の道」を歩む決意しかなかったからだ。


一方で、翔太の足元には、健一の幻影が現れる。彼はバイクに跨り、美代子の手を引いている。


『諦めちまえよ。どうせ逃げられないんだ。こっちの水は、温かいぜ。お前が犠牲になれば、香織ちゃんは幸せになれる』


その声は、健一が美代子を救うために自ら水に沈んだ時の言葉だ。自己犠牲こそが、最も美しい愛の証明であると。


「違う!」


翔太は叫んだ。


「健一さんは、お母さんを愛していた。だからこそ、自分の命を投げ出した。でも、その結果、お母さんは涙を流すこともできず、ずっと苦しみ続けた!愛する人を失った悲しみは、永遠に癒えないんだ!」


翔太は、健一の幻影を真っ直ぐ見つめ、力強く言い放った。


「僕は、愛する人を犠牲にしてまで得たい幸せなんていらない!苦しみながらでも、一緒に生きていく道を選ぶ!」


その強い意志に、幻影は一瞬怯んだ。水面が激しく波立ち、彼らの姿は掻き消えた。しかし、甘い囁き声だけは、回廊の奥までずっと、二人の耳にまとわりついていた。


回廊の奥は、もう扉ですらなかった。ただ、闇がそこで一段濃くなり、ぬめる水の膜が、行く手をぬらりと塞いでいる。その膜の表面に、ひとりでに文字が滲んで浮かび、すぐにほどけて消えた。辛うじて読み取れたのは、たった一文字——惑、と。二人がその膜に身を押し当てると、膜は産道のように生暖かく二人を呑み込み、ずるりと、次の闇へ押し出した。

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