第8話 この子だけは、渡さない
五月に入ると、亮介の態度が少し変わった。和子を見つめる目に、心配の色が混じるようになった。
きっかけは、ある雨の日のことだった。傘を半分こにして駅まで歩いたとき——濡れていないはずの和子の髪から、首筋から、つうっと水が伝っていた。汗にしては、冷たすぎる。ふと足元の水たまりに目をやって、亮介はもう一度、ぞくりとした。自分の姿は映っているのに、隣にいるはずの和子の姿だけが、なぜか、ほとんど映っていなかった。
「和子、濡れてないか」
「平気。雨、好きなの」
和子は、いつもの優しい笑みを浮かべた。亮介は結局、水たまりのことを口にできなかった。見間違いだと、自分に言い聞かせて。
「和子、最近顔色が悪いよ」 昼休み、久しぶりに二人で屋上に上がった時、亮介が言った。
「大丈夫です」
「本当に? 何か悩みがあるなら、相談してくれよ。俺たち、付き合ってるんだろ?」
亮介の真っ直ぐな言葉が、かえって辛い。真実を話せない自分が、嘘つきに思える。
「亮介君」
「うん?」
「もし、私が普通の女の子じゃなかったら、どうする?」
「普通じゃないって?」
「例えば……呪われた家系だったり」
和子は、冗談めかして言った。でも、亮介は真剣な顔で考え込んだ。
「それでも、和子は和子だよ。和子の家がどんなでも、和子自身は関係ない。俺が好きなのは、田辺家の娘じゃなくて、田辺和子だから」
亮介の言葉に、和子の目に涙が滲んだ。
「泣くなよ」
亮介が慌てて和子の頭を撫でる。大きな手。温かい手。
「ごめん、変なこと言って」
「和子」
亮介が、和子の顔を両手で包んだ。
「俺、実は知ってる」
「え?」
「和子の家のこと。町の人から聞いたんだ。最初はただの噂だと思ってた。でも、違うんだろ?」
和子の体が凍りついた。
「十八歳の女の子に、何か良くないことが起きるって」
「それで、なんで……私と」
「だから、守りたいんだ」
亮介の目が、真っ直ぐ和子を見つめている。
「何が起きるか分からないけど、俺が和子を守る。どんな呪いだろうと、俺が打ち破ってやる」
「無理よ…そんなこと…」
「無理じゃない」
「亮介君には関係ないことよ!」
「関係ある!」
亮介が、和子を強く抱きしめた。土と汗の匂い。野球のグローブの革の匂い。そして、太陽の匂い。
「愛してるからだ。愛してる女を守るのは、男として当たり前だろ」
その言葉を聞いた瞬間、和子の中で何かが壊れた。涙が、止まらなくなった。嬉しいのか、悲しいのか、分からない。ただ、涙が溢れ続けた。この温かい腕の中にいると、どんな呪いも消え去ってしまうような気がした。でも、同時に、この腕が自分を破滅へと導いていることも分かっていた。




