第9話 これが、最後のデートになる
六月に入ってから、和子の体に異変が起き始めた。朝、目覚めると枕が濡れている。最初は寝汗かと思った。でも、違う。もっと透明で、もっと冷たい液体。ひやりとして、ぬめりがある。まるで、体から水が滲み出ているような。鏡を見ると、肌が透けているように見える時がある。血管が青く浮かび上がり、その中を流れるのは血ではなく水のように見える。
六月十日、土曜日。亮介との最後のデート。いや、最後にするつもりはなかった。でも、心のどこかで分かっていた。これが最後になることを。
「どこに行きたい?」 亮介が優しく聞く。 「海」 和子は即答した。なぜ海なのか、自分でも分からない。ただ、水を見たかった。大量の水を。自分を飲み込んでくれるような、大きな水を。
電車で一時間。二人は海辺の町に着いた。砂浜を裸足で歩く。波が足を濡らす。ひやりと冷たい。でも、心地いい。まるで、水が肌から体内に染み込んでくるような感覚。
「和子、楽しそうだね」 「うん」 「いつもと違う。水を得た魚みたいだ」 亮介が和子の横顔を見つめる。確かに、和子は普段見せない表情をしていた。まるで、故郷に帰ってきたような安らぎを感じていた。水が、自分を呼んでいる。おいで、おいで、と。
「亮介君」 「なに?」 「私のこと、忘れないで」 「忘れるわけないだろ。一生」 「でも、もし私がいなくなっても…思い出してくれる?」 「いなくなるって、どこに行くんだよ」 和子は答えなかった。答えられなかった。行く先は、あなたには決して言えない、冷たくて暗い水の底。あなたを道連れにしてしまう、絶望の場所。彼女は、夕陽に染まる海に視線を落とした。寄せては返す波音が、まるで運命の呼び声のように聞こえる。おいで、おいで、と。しかし、隣にいる亮介の温もりだけが、その声に抗う唯一の力だった。彼女は、泣き出しそうになるのを必死でこらえ、亮介の手を強く、強く握った。この温もりを、永遠に刻みつけるように。
「今日は、本当にありがとう」
「和子?」
「大好き」
初めて、素直に気持ちを伝えた。亮介の顔が、夕日で赤く染まる。いや、それは夕日のせいではなかった。 「俺も、大好きだ。世界で一番」
二人は、夕日が沈むまで砂浜に座っていた。手を繋いだまま。波の音が、永遠に続くBGMのように響いていた。もうすぐ、この温かい手を離し、冷たい水の中に沈めなければならないことを知りながら、私たちは手を繋いでいた。
——ごぼり、と。重い泡の弾ける音がして、世界が激しく反転した。頬を撫でていたはずの砂浜の乾いた風は消え、喉の奥を突き刺すのは、あの冬の海の温もりなど微塵もない、骨を凍らせる水の塊だった。
握っていたはずの和子の手は、もう、どこにもなかった。代わりに、亮介の胸を上から押さえつけているのは、同じ和子の、けれど別人のように冷えきった手だった。
最後の言葉と、微かな希望
ごぼ、ごぼぼ……。最後の空気が、泡となって唇から漏れ出る。亮介の体は、もう動かない。手足はだらりと垂れ下がり、ただ水の流れに身を任せている。楽しかった日々の記憶が、水中の光の粒のようにきらめいては消えていく。書道室の墨の匂い、不格好なチョコレートの甘さ、桜の花びら、そして海辺で繋いだ手の温もり。
ああ、そうか。俺は、この瞬間のために生きてきたのかもしれない。和子と出会い、愛し、そして彼女の運命の一部になるために。後悔は、ない。
水底の暗い水路が、まるで口を開けるように亮介を吸い込んでいく。体がゆっくりと引きずり込まれる。最後に見たのは、水面で揺れる和子の姿。彼女の目から、一筋の水がこぼれ落ち、亮介のいる水の中に溶けていった。それは涙ではなかったかもしれない。でも、亮介には、それが世界で最も悲しい涙に見えた。
ちりん。




