第78話 山が生きている
山道を登り始めると、世界が変わった。 木々が呼吸をしている。幹が脈打ち、枝が血管のように震えている。葉の一枚一枚から、水滴が規則正しく落ちていた。
三十秒に一度、寸分の狂いもなく。森全体が、息を殺した一つの時計になったかのようだった。
「この山全体が、水時計の一部なんだ」 翔太が囁いた。
「そして、この山から湧き出る水が、町の水道水の水源だ」
香織が付け加える。彼女の口からは、真紀や和子の声が重なって聞こえる。
「みんなが毎日、当たり前のように飲んでいる水。その水が、生贄の血と涙で満たされていることを、誰も知らない」
地面は柔らかく、歩くたびに水が滲み出る。まるで、巨大な生き物の皮膚の上を歩いているような感触。 濃密な苔の匂い、土と腐葉土が混じった匂い、そして微かに、鉄錆のような血の匂い。 それは、町の人々が「山の水」として慣れ親しんでいる、あの水の匂いそのものだった。
香織の体が、勝手に反応し始めた。 正しい道を、本能的に選んでいく。まるで、見えない糸に引かれるように。いや、糸ではない。水の流れだ。地下水脈の流れが、彼女を導いている。
一時間ほど登ると、廃寺の山門が見えてきた。
『東林山 慈恩寺』
朽ちかけた門をくぐると、想像以上に広い境内が広がっていた。
本堂だけが、異様な存在感を放っている。他の建物は完全に朽ち果てているのに、本堂だけは、まるで今も使われているかのように、不気味なほど保存状態が良い。 いや、保存されているのではない。
生きているのだ。
本堂の壁が、ゆっくりと脈打っている。呼吸をするように、膨らんでは縮む。表面には、無数の血管のような筋が走り、その中を水が流れているのが見える。
扉に手をかけた瞬間、電撃のような感覚が走った。 『ようこそ』 声ではない。直接、脳に響く思念。
『百五十年、待っていた』
香織がカギを開ける前に…扉が、ひとりでに開いた。




