第76話 これが最後の日常
学校への道のりは、いつもより長く感じられた。 霧は相変わらず濃く、三メートル先も見えない。足音だけが、湿った空気の中で異様に響く。時折、霧の中から聞こえる声。
「また雨か」 「この町は呪われてる」 「十八歳の娘は気をつけろ」
断片的な言葉が、霧と共に流れていく。
教室に着くと、クラスメートたちの視線が痛かった。
「田辺さん、顔色悪いよ」
「なんか、透けて見える」
「触ったら、冷たそう」
香織の席の周りだけ、空気が違っていた。まるで、薄い水の膜で隔てられているような。
昼休み、屋上で翔太が言った。
「今日、行こう」
「廃寺に?」
「うん。もう時間がない」
翔太の手を見ると、青い筋がさらに濃くなっていた。脈打つように、水が流れているのが見える。
「僕の中で、大叔父さんの記憶が強くなってる。彼の最後の日の記憶が」
それと、と翔太はスマホを取り出し、画面を香織に向けた。古い個人ブログのページ。更新は、先月で途絶えている。
「さっき先生も言ってた、水に取られた研究者……佐倉さん。あの人のブログ、もう一度ちゃんと読み返したんだ。これが、最後の記事」
画面には、走り書きのようなメモが残されていた。
『水神=廃寺。だが、対になる存在がある——音無神社。風と音の祠。かつて笛の音で、水神の渇きを〝鎮めた〟という祭祀。水に抗う力は、〝音〟にあるのではないか。次はあの社をもう一度——』
記事は、そこで途切れていた。
「彼は、たどり着く前に水に取られた。でも、最後に残したこの〝水と音〟って発想が、僕にはずっと引っかかってたんだ」
翔太は、青く脈打つ自分の手を見つめた。
「呪いを〝鎮める〟だけじゃ足りない。〝満たして〟癒すんだ。藤田先生の巻物と、顔も知らない佐倉さんのメモ。その二つが繋がって、やっと、道の輪郭が見えてきた気がする」
翔太は、藤田先生から託された古文書を開いた。新しいページが追加されていた。いや、元からあったのに、今まで見えなかったページが現れたのだ。




