第75話 古文書の託宣
『水になる水になる水になる水になる』
「祖父は最後、自ら井戸に身を投げました。遺書には『水と一つになれた。幸せだ』と」
藤田先生の目から、一筋の水が流れた。涙ではない。透明な、ただの水だった。
「私も、もう限界です。毎日図書館で眠るふりをしているのは、真実から目を逸らすため。でも、もう逃げられない。この霧は、始まりの合図だ」
彼は鍵束を取り出し、奥の書庫の扉を開けた。
「ここに、この町の本当の歴史がある。君たちに、託します」
古文書の託宣
藤田先生が差し出したのは、黄ばんだ和紙に墨で書かれた、古びた巻物だった。
「これは、祖父が最後に発見した、この町の最も古い記録です。代々、司書が密かに守り続けてきた」
巻物を広げると、そこには驚くべき内容が記されていた。
『水と音の争い』。それは、町の起源にまで遡る、壮大な物語だった。
「この町は、元々、水神の怒りによって常に水害に苦しめられていた。それを鎮めるために、音無神社の巫女が、笛の音で水神の悲しみを癒そうとした。しかし、水神の渇きは深く、ついに巫女の命を奪ってしまった」
藤田先生は、静かに語り続けた。
「水の呪いを完全に打ち破るには、水神の魂の渇きを、愛の力で癒すしかない。しかし、その方法は、どの記録にも記されていない。誰も、そこまでたどり着く前に、水に取られてしまったからだ」
翔太が、ふと顔を上げた。
「その一人が——先月、行方不明になった佐倉さん、ですか。佐倉准教授。この町の伝承を調べていた人だ。僕、あの人のブログを見つけたんです」
藤田先生の顔が、目に見えて強張った。
「……あの人も、ここへ来ました。何度も。私の祖父の手帳を見せてくれ、と。止めたんです。これ以上は危ない、と。でも、あの人は穏やかに笑って言いました。『真実の手前で引き返す研究者はいませんよ』と。——それきり、二度と、現れなかった」
藤田先生は、震える指で手帳の表紙をなぞった。
「祖父も。佐倉さんも。真実に近づきすぎた者は、みな、水に取られる。だから私は目を逸らし、ここで眠ったふりをして生きてきた。臆病者です」
「先生…どうして、今まで黙っていたんですか?」
香織の声が震えた。
「私も、かつては真実を求めていました。しかし、祖父の死を目の当たりにして、恐怖に負けてしまった。町の平穏を守るために、真実を隠蔽する共犯者になってしまったのです」
藤田先生の目から、再び水が流れた。
「しかし、君たちを見て、私は最後の希望を託そうと思った。君たちなら、この呪いを終わらせることができるかもしれない。亮介君と和子さんのように、愛を犠牲にするのではなく、愛の力で呪いを打ち破る、第三の道を」
翔太は、古文書を抱きしめた。それは、源三郎の執念と、藤田先生の絶望と、そして亮介たちの悲劇が詰まった、重い巻物だった。
「僕たちは、必ず帰ってきます。先生」
翔太は、力強く言った。その瞳は、もう迷いを捨て、強い光を宿していた。
「…行ってらっしゃい」
藤田先生は、静かに微笑んだ。その顔には、長年の重荷から解放されたような、安堵の表情が浮かんでいた。




