第65話 藩主の狂気
一方、父である藩主・忠愛は、日に日に衰弱していく娘を前に、為す術もなく苦悩していた。名だたる医者を呼び寄せ、高名な僧侶に祈祷をさせた。しかし、姫の病は一向に良くならない。
松姫は、幼い頃から父を慕って育った。母は産後の肥立ちが悪く早世しており、忠愛は男手ひとつで姫を育てたのだ。膝に抱いて文字を教え、夜中に喉が渇いて泣いた姫には、自ら水を汲んで飲ませてやった。あの夜の水の温もりを、姫はいまも忘れていない。藩主としての父は厳しかったが、姫の前ではいつも、ただの一人の父であった。だからこそ、姫は信じていた。父がきっと、自分を救ってくれる、と。
忠愛の心は、焦りと絶望に支配されていった。そして、彼はついに人の道を踏み外す。
「呪いには、呪いを以て制すしかない」
忠愛は、領地の外れにある東林山慈恩寺の住職を呼びつけた。その寺は、古来より水神を祀り、人身御供の儀式を行っていたという、いわくつきの場所だった。
「姫を救う手立てはないか」
忠愛の問いに、老婆のような住職は、淀んだ目で答えた。
「方法は、一つだけ。姫君を、水神の花嫁として捧げるのです」
「馬鹿なことを!」
「されど、それしか道はございませぬ。水神は、渇いておられる。人の子の、純粋な愛の交わりを。それによってのみ、水神の渇きは癒え、姫君の呪いも解けましょう」
住職は続けた。
「寺の地下には、古き水脈がございます。そこに、巨大な『水時計』を造るのです。姫君の愛する者を生贄とし、その魂を歯車とすれば、水時計は永遠に時を刻み、姫君の渇きを癒し続けましょう」
それは、正気の沙汰ではなかった。しかし、娘を救いたい一心で狂気に陥った忠愛には、それが唯一の救済策に思えた。
「やれ。国中の職人を集め、最高の水時計を造るのだ。金はいくらかかっても構わん」
その日から、慈恩寺の地下では、昼夜を問わず槌の音が響き渡った。カン、カン、カン。その音は村人たちの夢にまで忍び込み、誰もが理由もなく、寝苦しい胸騒ぎに目を覚ました。




