第63話 渇いて死ねない姫
天保十三年(一八四二年)、夏。 この国がまだ泰平の眠りの中にあった頃、東国のある小藩は、長引く日照りに喘いでいた。乾ききった田畑はひび割れ、人々は空を仰いでは、ただ無力に雨を乞うていた。
藩主・松平忠愛の城もまた、渇きに支配されていた。しかし、彼を苛んでいたのは領地の渇きだけではない。一人娘である松姫の奇病こそが、忠愛の心を焦がす本当の日照りであった。
松姫は、その名に違わぬ、見目麗しい娘だった。絹のような黒髪、雪のように白い肌、そして物憂げな瞳。しかし、十八の齢を迎えた春を境に、姫は水に呪われた。
それは、矛盾に満ちた病だった。 姫は水を恐れた。風呂に入れず、雨の音を聞けば怯え、茶碗に注がれた水面に映る自分の顔を見ては悲鳴を上げた。水の一切を拒絶した。
しかし同時に、姫は水を求めた。
「水……水が欲しい……」 深夜、誰にも聞こえぬよう、か細い声で呟く。その体は常に熱を帯び、唇は乾き、喉は灼けつくような渇きに苛まれていた。水を恐れながら、狂おしいほどに水を求める。その相克が、姫の心を少しずつ蝕んでいった。
部屋に閉じこもる姫の唯一の慰めは、窓から見える庭の池だった。憎いはずの、恐ろしいはずの水面を、姫は何時間も見つめ続けた。その瞳には、恐怖と、憧れと、そして自らを飲み込んでほしいと願うような、深い絶望が宿っていた。




