第62話 儀式前夜、姉妹の対話
その夜、香織は真紀の部屋を訪れた。
ドアを開けた瞬間、もわっとした濃い霧が頬を撫でた。部屋のあちこちに、加湿器が——数えれば、十台近くも置かれ、白い蒸気を絶え間なく吐き出している。床も壁紙も、しっとりと湿って黒ずんでいた。ベッドには、使われた形跡がない。代わりに、開いた浴室の扉の向こう、水を張ったままの浴槽の中に、毛布と枕が持ち込まれていた。姉はもう何ヶ月も、あの水の中で眠っているのだ。
真紀は窓際に座り、遠くの街の灯りを眺めていた。手には、コップ。話すあいだも、彼女は何度も、何度も、機械のように水を口へ運び続けた。
窓ガラスに映る姉の輪郭は、本物の姉と、ほんの半拍だけ、動きがずれていた。コップを口へ運ぶ手も、ガラスの中で同じ動作をするけれど、わずかに遅れている。
香織は気づいた。姉が、長い時間、一度も瞬きをしていないことに。目だけが遠くを見据えたまま、固まったように動かない。
窓の外で、雨脚がわずかに強くなった。その音が届いた瞬間、姉の口元が、ふっとほどけた。怒りでも哀しみでもない、奇妙に穏やかな表情。雨の日にだけ、姉はこんな顔をする。香織は、子供の頃から、それを覚えていた。
「眠れないの」
真紀の声は、空虚だった。
「...お姉ちゃんは、怖くなかった?」
香織が尋ねる。
「怖かったわよ、最初は。でも、愛さえ捨てちゃえば、どうってことないの。慣れるわよ、そういうの」
真紀は振り返らずに答えた。
「愛した人を、自分の手で……お姉ちゃんは、平気だったの」
「愛した?」真紀は、不思議そうに小首を傾げた。「……一人目は、聡。二人目は……ええと、なんという名前だったかしら。優しい人だった気はするのだけど。三人目は——」
言いかけて、真紀はくすりと笑った。
「いやだ。三人目なんて、まだいないのにね」
その笑みのあまりの軽さに、香織は背筋が冷たくなった。姉はもう、自分が水に沈めた男の名前すら、覚えていない。
「私もこの三日、ぜんぶやってみたの。動画も、家出も、燃やすのも。みんな、水に取られた。……お姉ちゃんも、そうだったの?破れそうな瞬間、一度もなかったの?」
「無理。私も若い頃、散々あがいたもの。……抗うとか抗わないとか、そういう話じゃないのよね。ただ、無駄なだけ」
真紀は、初めて、香織の方をちらりと見た。
「お祖母様は、抗ったわ。それで、亮介さんを失った。お母様は、逃げようとしたわ。それで、健一さんを失って、二度と笑えなくなった。残った道は、ひとつだけよ」
真紀の声は、低く、まるで歌のように平らだった。
「受け入れること。それだけよ、香織。あの夜が過ぎれば、あとは、ずっと、楽になる」
真紀の言葉は冷たい。けれど、その声の底で、何かが微かに震えていた。諦めることでしか、姉はあの夜から生き延びてこられなかったのだ——香織は、ふいにそう直感した。
「でも、私…諦めたくない」
香織が言うと、真紀は初めて香織の方を向いた。その人形のような瞳の奥に、一瞬だけ、羨望のような光が揺らめいた。
「...勝手にすればいい。どうせ、同じ結末よ」
そう言うと、真紀は初めて、ゆっくりと立ち上がった。雨に濡れた窓ガラスの前で、姉の影と本物の動きが、また半拍だけずれる。歩み寄ってきた姉の指先が、ひやり、と香織の頬に触れた。
「ねえ、香織。怖がらないで。覚悟さえ決めれば、あんたも、すぐに楽になれるのよ。私みたいに、ね。痛みも、罪悪感も、ぜんぶ水に流して」
姉の口元に、子供の頃の優しい微笑みが、ほんの一瞬だけ戻った。けれど、瞳の奥には、もう、何もなかった。
「悪くないでしょう? 永遠に若いまま、永遠に綺麗なまま——だって、もう、何も感じなくていいんだもの」
香織は、姉の手から逃れるように、一歩、後ずさった。
頬に残った姉の指の冷たさを、香織は手の甲で拭った。それは、たしかに、誘惑だった。痛みも罪悪感も、すべて手放してしまえば、楽になれる——けれど、その先にあるのは、姉のあの空っぽの瞳だ。何も感じない、永遠の美。
私は、いやだ。
香織は、奥歯を噛みしめた。震えながら。それでも、譲れないものが、自分の芯にひとつだけ、残っていた。
真紀がそう呟いた時、香織は幼い頃の記憶が蘇る。二人で裏庭に秘密基地を作ったこと、雨の日に母を手伝って濡れた洗濯物を乾かしたこと。互いに助け合い、笑い合った、遠い日の思い出。
「あの頃の私たちは、何も知らなかった。ただ、二人でいれば、何も怖くなかったのに...」
香織の言葉に、真紀は何も答えなかった。ただ、窓の外の雨音だけが、静かに二人の間に流れていた。
香織が部屋を出ていったあと、真紀は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
廊下の先、妹の部屋の襖が閉まる音を聞きながら、真紀は誰にも届かない声でつぶやいた。
「……香織だけは、逃げてほしい」
そのつぶやきが、ぽとり、と床に落ちた。
その直後、真紀は自分でも嘘だと気づいて、低く苦笑した。
「嘘だ。本当は——香織にも、私と同じ地獄を見てほしいと思っている。たったひとりで、この永遠の中に閉じこもっているのは——あまりに、寂しすぎるから」
雨音が、その独白を誰にも届かないように、優しく覆い隠した。




