第61話 最初の禊
その夜、香織は白い浄衣を着せられ、屋敷の奥——ふだんは固く閉ざされた、古い井戸のある内蔵へと連れていかれた。
床は一面、黒い水で満たされていた。膝が、腿が、冷たい水に沈んでいく。和子と真紀が、燭台の灯りの向こうで、低くわらべ歌を唱えはじめた。美代子は、戸口の暗がりで、乾いた目を伏せている。
「身を浸しなさい」和子が言った。「水に、お前を思い出させるのです」
抗うつもりだった。なのに、水が腰に届いたとき、香織の体から、すっと力が抜けていった。
——ああ。
冷たいはずの水が、母の胎のように温かく感じられた。耳の奥で、無数の声が和して香織の名を呼ぶ。おいで。おかえり。やっと帰ってきた。その声に包まれていると、迫りくる儀式の恐怖も、消えていった友人たちのことも、化け物を見るあの目も、何もかもが、ほどけて、溶けていく。
楽になる。ぜんぶ、手放してしまえば。
香織は、自分が微笑んでいることに気づいた。水面に映る自分の顔が、うっとりと蕩けている。もっと深く。もっと底へ。手放した先にある、全能の心地よさへ。喉まで水に浸かっても、苦しくない。むしろ、満たされていく。いつの間にか、自分も和子たちと同じわらべ歌を、恍惚として口ずさんでいた。
——けれど香織はもう、気づいていなかった。黒い水の面に、自分の抜け毛が幾筋も漂っていることに。浄衣の裾が、底に沈んだ何か柔らかいものに触れていることに。甘く饐えた臭いが、いつのまにか、ほかでもない自分の体から立ちのぼっていることに。
「水はどこへ行く 水はどこへ行く——」
『そう。それでいい』
水底から、白い手が差し伸べられてくる。受け取ろうと、香織も手を伸ばした。指先が触れる、その寸前——。
ガラスケースの中に横たわる、翔太の空虚な瞳が、脳裏をよぎった。
ちがう。
ほどけかけた意識の底で、人間の香織が悲鳴を上げた。これは私じゃない。こんなふうに笑って、歌って、沈んでいくのは、私じゃない!
「いやだ——!」
香織は、水を撥ね上げて立ち上がった。恍惚は弾け飛び、後に残ったのは、剥き出しの怒りだった。
「いやだ、いやだ!なんで私なの!なんで誰も助けてくれないの!お祖母様もお姉ちゃんも——みんなして、私を、こんな化け物に——!」
叫びながら、香織は燭台を薙ぎ払った。炎が黒い水面に落ちて、じゅっ、と消える。自分でも知らなかった激情が、堰を切って溢れ出していた。怒り。恐怖。そして、こんなにも水に焦がれてしまう自分自身への、吐き気のするような嫌悪。
和子は、乱れひとつなくそれを見つめていた。
「いいのよ。お泣き。お怒り。——どうせ最後には、水が、ぜんぶ持っていくのだから」
その静けさが、香織の激情をかえって打ち砕いた。膝から崩れ、黒い水に両手をついて、香織は子供のように泣きじゃくった。怒りも抵抗も、この家の前では、あまりにも無力だった。
濡れた肩を抱いたのは、美代子の、枯れ枝のように細い腕だった。乾ききった指先が香織の頬に触れた瞬間、紙やすりのような皮膚が、ふやけた未熟な肌を容赦なく擦り、一筋の血が滲んだ。美代子には、もう、娘の涙を拭う水分さえ残されていない。
それでも、美代子は、血の滲むひび割れた手で香織の顔を包み込んだ。乾いた唇が、香織の耳元で、ほとんど声にならない声で囁く。
「……抗いなさい。最後まで。お母さんには、できなかったことを」
乾いた眼窩の奥に、二十四年分の、流せるはずのない激しい慟哭の光が宿るのを、香織は確かに見た。
美代子は、血の滲む自分の指先を見つめながら、かすかに笑った。それは、二十四年ぶりに見せる、ひび割れたような、けれど確かに『母』の笑顔だった。
「お前は……私より、強い子だね」
声はからからに乾いていたが、その一言に、失敗した巫女が生涯抱き続けた、たったひとつの願いが、すべて込められていた。
香織は顔を上げた。母の乾いた目に、初めて、人間の光が宿っているのを見た。




