第59話 抗っても、水は満ちる
その夜、香織は眠れなかった。ただ流されるだけなんて、絶対に嫌だった。
家族が寝静まった頃、香織は座敷へ忍び込んだ。仏壇の横の、あの古い水瓶。五十年も水を湛え続ける、呪いの器。これさえ壊せば——根拠のない衝動に突き動かされ、香織は両手で瓶を抱え上げ、力任せに床へ叩きつけた。
だが、割れなかった。陶器のはずの瓶は、まるで水そのものでできているかのように衝撃を吸い込んで、びくともしない。
ならば、と中の水を流しに捨てようとした。けれど、傾けても傾けても、水は一滴もこぼれない。瓶の口で水面が盛り上がり、意思を持つように、内側へ内側へと引き返していく。
「無駄よ」
背後で声がした。振り返ると、暗がりに真紀が立っていた。いつから見ていたのか。咎めるでも、嗤うでもなく、ただ静かに。
「私も、昔、同じことをした。動画はなかったけど、ビデオも、写真も、紙の手紙もね。駅まで走ったし、火もつけたし、土にも埋めた。」
真紀の口調は、給湯室で同僚に給湯ポットの故障を語るような、淡々とした平熱だった。
「手段は変わるのよ。私の頃と、あなたの頃で。でもね、水は減らないの。試したぶんだけ、楽になるのが遅れる。それだけ」
真紀は手にしたコップの水をひと口飲み、踵を返した。
一人残された香織は、濡れてもいない自分の手のひらを見つめた。抗おうとした。確かに、抗おうとしたのだ。それなのに、爪の縁に、見たこともない緑色の細い藻が、ぬるりと絡みはじめていた。指で払っても、すぐにまた、内側からせり上がってくる。




